プンパニッケル

増田朋美

プンパニッケル

寒い日だった。とにかく寒い日だった。それしか言いようがない、冷たい風が吹いて、寒い一日でもある。どうしてこんなに、と周りの人達は、口々に言っていた。それでは、もしかしたら、雪が降るかもしれないなんていう噂もあったが、その日は、雪ではなくて、雨が降っていた。それだけは良かったかもしれない。

雪ではなかったせいか、道路はいつもと変わらなかった。車も動いていたし、杉ちゃんたちを乗せたタクシーも、ちゃんと稼働した。タクシーは、ちゃんと、杉ちゃんたちを、ショッピングモールまで運んでくれた。買い物を済ませて、杉ちゃんと蘭は、なにかショッピングモールで食べていこうと思ったが、レストランは改装中で、誰も入れなかった。仕方なく、ショッピングモールに出店していたパン屋さんで、サンドイッチとコーヒーを買って、ショッピングモールの近くにある公園の東屋で食べることにした。二人は、東屋で、サンドイッチを食べて、さて、タクシーを呼び出して、帰るかといった時、公園の近くに、赤い屋根の小さな建物があることに気がついた。

「お、いい匂いじゃないか。パンの匂いだぜ。」

と、杉ちゃんは、にこやかに笑って、その建物の中へ入ってしまった。なんで、今食べたばかりなのに、と言いながら、蘭もその後を追いかけると、その建物は、一階が店舗になっていて、カフェスペースのようなものがある。なにを売っている店なんだろうかと思ったら、パンの店阿部と書いてあった。店の入口のドアに、なにか張り紙がしてあった。

「おい、蘭、これはなんて読むんだ?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ああ、ドイツパンはじめましたと書いてある。でも、ドイツパンって、果たして、ここで売れるのかなあ。」

と、蘭は、思わず言ってしまった。確かに自分もドイツに滞在していた時、パンを食べていたが、ドイツのパンというのは、ボソボソしているし、固いし、何よりもサワータイクの味が、酸っぱくて、あまり美味しくなかった記憶があった。その時は、ポストファミリーが、気を使って、日本人向きのパンを買ってきてくれたりした。

「よし、入ってみよう。ドイツパンって興味ある。」

杉ちゃんは、どんどん店のドアを開けて、店の中に入ってしまった。

「おいおい、今食べたばかりなのに、また食べるのか?」

と、蘭はそれを追いかけるが、

「ああ。それとこれとは話が別だよ。とりあえず、買ってみようぜ。」

杉ちゃんは、店に入ってしまった。

二人が店に入ると、店の中は、サワータイクを発酵させる匂いで充満していた。確かに売り台には、大量のパンが置いてある。ドイツパンはじめましたと書いてあるから、一般的なパンもうっているのではないかと蘭は思っていたが、そのようなパンは一切なく、ほとんど、ドイツパン、詰まるところのライ麦パンばかり置かれていた。売り台には、オカリナのような形をした、ロッゲンミッシュブロートとか、日本語でいうところの牛乳パンとでも言えるヴァイツェンミッシュブロートとか、ほとんど食べたことのないパンが大量に売られている。いわゆるイングリッシュブレッドのようなパンや、アンパンとか、焼きそばパンなどのものは一切ない。本当に、本場ドイツで食べられている、ライ麦パンと呼ばれるパンばかりなのであった。蘭は、それを見て、ドイツ時代のパン屋さんに行ったような錯覚になった。

「はい、いらっしゃいませ。」

と、前掛けを締めた男性が、売り場にやってきた。髪にはライ麦粉が着いているが、その特徴的な顔つきで、蘭は、この人が誰であるのかすぐに分かった。

「あれ、阿部くんじゃないか!なんで君が、こんなところでパン屋さんをしているんだ!」

蘭は、思わず阿部くん、つまり、小学校時代の同級生、阿部慎一くんに言った。

「ああ、もっとわかりやすいところにお店をつくってくれとお客さんから要望が会ったので、先月に移転したんだよ。」

と、阿部くんは、にこやかに答えた。

「移転したって、ここにはすぐ近くにショッピングモールもあるし、返って売れないのでは?」

蘭は思わず言ったが、

「いやあ、そんなことはない。その代わり、ドイツパンを専門にしたおかげで、お客さんは、来ないどころか、むしろ増えてしまったよ。」

と、阿部くんは答えた。

「はあなるほど。つまり、言ってみれば、黒パンを専門にしたわけね。確かに、ショッピングモールとか、スーパーマーケットで売っているパンは白パンだからね。それが嫌いだと言っている人には、いい店かもしれないな。なるほどね。そういう手を使ったのか。」

杉ちゃんが、感心して、阿部くんに言った。

「本当に、そういう人がいるんだろうか。特にこれ、プンパニッケルだろ?焼くのに一晩かかって、その割に、酸っぱくて、ボソボソしたパンを食べたがるやつなんかいるのかな?まあ、日本に滞在しているドイツ人であれば食べるかもしれないが。」

と、蘭は、阿部くんに言ってしまった。なんだか、小学校時代の同級生であるからこそ、余計な心配をしてしまうのであった。蘭が、指さしたのは、売り台に置かれている、焦げ茶色をした、食パンのような形のパンだった。

「うん、たしかに作るのに手間はかかるけど、欲しがる人はいるよ。だから、プンパニッケルも、ロッゲンミッシュも、作るようにしているよ。」

いずれも、ガリガリに固くて、美味しそうではないパンなのだが、蘭は、阿部くんが何故かムキになっていっているのではないかと思ってしまった。

「まあいいじゃないの。ドイツパンの専門店ができるということは、嬉しいことじゃないか。じゃあ、その一晩かけて焼いたという、プンパニッケル一斤、買って帰ろうかな。」

と、杉ちゃんが、にこやかに笑っていった。阿部くんは、はい、わかりましたと言って、プンパニッケルをパン切り包丁で切った。それも、なんだか、パンを切っているのとは程遠く、のこぎりで木を切っているような音に近い音がした。それほどプンパニッケルは硬いパンだった。

「ライ麦は、体にいいからね。メタボリックなんとかの予防にもなるし、栄養があるから、体力も付く。それの少量で結構食べごたえもあるから、ダイエットにもなるというお客さんもいる。だから、このパン専門にして良かったと思ってる。」

プンパニッケルを袋詰しながらそう言っている阿部くんに、蘭は、なんだか嫌な気持ちだなと思ってしまった。何故か知らないけど、そう思ってしまう。相田みつをさんの言葉によれば、人間は、自分よりも人のほうが良くなると面白くないというが、蘭は正しくそのとおりだった。なんだか、阿部くんが、こうしてパン屋さんをやっていて、面白くないのだった。嫉妬であった。

「はい、じゃあ、一斤、680円でお願いします。」

阿部くんに言われて、杉ちゃんは、スイカで支払いはできるか聞いた。最近は、現金の計算ができない人でも、スイカで支払うとか、あるいはスマートフォンの支払いサービスである、ペイペイのようなもので、買い物ができるようになっている。パン屋さんなので、現金のみではないかと思っていた蘭であったが、

「はい、できますよ。スイカだけでなく、ペイペイでもラインペイでも支払えるよ。」

と阿部くんは言った。なんで、パン屋なのにそんなシステムを用意してあるんだと蘭は思った。

「じゃあ、スイカで支払わせてくれ。」

と、杉ちゃんがそれを見せると、阿部くんは、それを読み取り機で読み取らせて、代わりにレシートを渡した。蘭はそこも不思議だと思った。スイカで支払わせることができる店は、個人店では限られているのに。

「じゃあ、どうぞ。また、食べたら感想でも聞かせてもらえると嬉しいな。単独で食べるだけではなく、シチューに浸して食べたり、パン粥にして食べるのも好評だよ。」

阿部くんは、袋に入ったプンパニッケルを杉ちゃんに渡した。

「一体、この店に来るのは、どんな人が多いんだ?まるでライ麦パン専門店と言える位の品揃えじゃないか。近くにショッピングモールもあって、パンは腐るほど売れているのに、なんで、お前がこんなところに移転できたんだよ。」

蘭は、思わず阿部くんに聞いてみる。

「まあ、何らかの事情で、普通のパンが嫌いだとか、手作りのパンのほうが美味しいとか、そういう事言うやつがいるってことだよな。」

と、杉ちゃんが口をはさむと、

「それだけじゃないよ。今は、食物アレルギーを持っている人もいるだろう。アレルギーや病気で、小麦のパンが食べられない人もいるんだ。それでもパンが好きで、パンを食べたいっていう人は大勢いるんだよ。そういう人は、富士市のいろんなところに住んでるし、中には、浜松からわざわざ買いに来る人もいるんだ。ドイツパンは日持ちが良いので、長時間運転して持ち帰っても、腐らない利点もあるからね。」

と、阿部くんは、蘭に説明した。

「どうして、浜松からお客さんが来るんだよ。なんで、浜松の人が、こんな辺鄙な街に?」

蘭がまた聞くと、

「それは、インターネットのホームページを見てくれて、買いに来てくれたんだ。そういう人のためにも、目印になる建物の近くにあったほうがいいじゃないか。」

と、阿部くんは答えた。蘭は、それも驚いてしまった。確かに、ショッピングモールに売っているようなパンは、プンパニッケルでもないし、ロッゲンミッシュブロートもない。

「お教室もやっているの?」

杉ちゃんが、店の中のカフェスペースを眺めて聞いた。

「ああやっているよ。材料であるライ麦粉も、ショッピングモールの輸入食品の店で買えるようになったし、サワータイクの作り方もそう難しくないしね。お客さんには、ご家族が病気で小麦のパンを食べられないので、ライ麦のパンをつくってみたいという人が、中にはいるからね。完成品を食べるだけではなく、パン作りで居場所を作る人もいるんだよ。」

阿部くんは当然のように答えた。

「何を言っているんだよ。ただ、少数民族のためだけに、パンをつくってやっているだけじゃないか。食品販売というか、なにか福祉事業のような顔をしているけど、福祉ってのは、なかなか儲かるビジネスでも無いからね。」

蘭が、そう言うと杉ちゃんが、ちょっと言い過ぎではと、蘭に言った。

「そんなつもりでやってるわけじゃないんだけどな。伊能くんは、パンを食べられなくて、寂しい気持ちをしている人の気持がわからないから、そういう事を言うんだ。」

阿部くんは、蘭にそういうのだった。その態度は、毅然とした態度だった。

「まあいいじゃないの。プンパニッケルを食べたら、必ず感想を言うからな。シチューに入れたり、パン粥にしたり、そんな食べ方をできるんだったら、それも試してみるよ。」

杉ちゃんは、にこやかに言って店を出ていった。蘭も、せいぜい、楽しんで店をやるといいさ、と思いながら、店を出ていった。実を言うと蘭は、福祉に携わる人というのはあまり好きではなかった。もちろん、蘭だって歩けないわけだから、どうしても誰かに手伝ってもらうことは必要になると思うけど、それをしてくれる人たちは、俺たちがやってやっているんだから、それに従えとでもいいたげな態度をとるので、蘭は、そういう人たちが、好きになれないのだった。だから、阿部くんが、そういう福祉的な仕事を始めるのが面白いと感じられなかったのである。

それから、数日後のことであった。蘭は、いつもどおりに、下絵を描く仕事をしていた。もうまもなく、杉ちゃんがインターフォンを五回押して、買い物にいこうぜ!と言ってくる時間だなと思っていると、約束通り、インターフォンが五回なった。がちゃんとドアの音を立てて、杉ちゃんがやってくる。そこまではいつもと変わらなかったんだけど、なんだか杉ちゃんは、こないだのような覇気はなく、困った顔をしていた。

「どうしたんだよ杉ちゃん。なんか君が落ち込むなんて、よほど何かあったのか?」

と蘭は、思わず聞いてしまうのだった。

「なにかあったら、すぐに話せと、僕にうるさいくらい言っていたのは、杉ちゃんだったよね。」

蘭は、杉ちゃんに話してしまった。いつも、そうしているのだから、そのとおりにしてほしかった。

「ああ、そうだねえ。でも、お前さんに話すんだったら、お前さんは逆上したりするかもね。」

と、杉ちゃんは苦笑した。

「それってずるいよ。いつも、自分では解決できないことだって、人に話せば楽になれるとか言って、平気で聞き出すくせに。」

蘭がそう言うと、杉ちゃんは、そうだねえと言った。

「まあ、そんな事言うんだったら、お前さんにも話すかな。あのね、水穂さんが、いくら食べさせても食べないだよ。このままだと、飢餓というのかな、それで大変なことになるって、お医者さんに叱られても、だめなんだよねえ。食べようとすると、怖いのかな。よくわからないんだけどさ。すぐに咳き込んで吐き出しちまう。葛湯とか、重湯とか、そういうものを食わせてもだめなんだよね。」

「何!」

と蘭は、杉ちゃんの話を聞いて、大いに驚いてしまった。

「それで、お医者さんには、見せたのか?」

「バカ、今言ったばかりじゃないか。見せても何も食べないよ。確かに、肉さかな、小麦は一切抜きだし、いつもおかゆばっかり食わせているからね。おかゆじゃ、栄養にならないだろうね。それすらも、最近は食べないんだけどね。」

杉ちゃんに言われて蘭は、なんていう悪いことをしているんだと、杉ちゃんにいった。

「悪いことっていうか、食べるもんがそれだけしか無いんだから、他に対処の仕様が無いよ!」

杉ちゃんが言い返すと、

「例えば、栄養を補うサプリメントとか、そういうものはだめなんだろうか?」

と蘭は急いでいった。

「だからだめだってば。そういう贅沢は、できやしないって。水穂さんは、何も食べないよ。まあでも、僕達も、餓死させちゃうわけには行かないからさ。まあ、葛湯あげたりして、食べさせるようにしなきゃな。」

杉ちゃんは、蘭に言った。

「でも、葛湯だけでは、何もならないだろ。もっと、滋養のあるものを食べさせないとさ。なんとかしてあいつには、良くなってもらわないと、僕も償いが。」

蘭は、急いで言ったが、水穂さんは、パンも何も食べられないのだ。最近小麦のパンではない、そば粉のパンなども売られているが、そういうパンは、この田舎町では、入手するのが難しいのである。

「まあ、無理だねえ。そばを食べさせても、おかゆを食べさせてもだめなものはだめなんだ。なんとかして、滋養がある、当たらない食品を探さなきゃな。」

杉ちゃんは、そう言っているが、蘭は、それなら、良い人物がいるのではないかと思った。

「杉ちゃん、今の話、阿部くんに話してもいいかな?」

蘭は、すぐに言った。こうなってしまったら、蘭を止められない事を知っていた杉ちゃんは、

「ああ、いいよ。」

とだけ言った。すぐに蘭は、急いでタクシー会社に電話した。あの阿部くんの店は、ショッピングモールの近くであるからすぐわかる。とりあえず、ショッピングモールに自分を乗せていってもらい、そこから、すぐに歩いて行くことができた。このときは、あのサワータイクの嫌な匂いも、聖なる香りのように見えた。

蘭は、阿部くんの店の扉を強引に開ける。阿部くんは、店の商品であるパンを整理しているところだったが、蘭が来たのを見て、すぐに気がついてくれた。

「どうしたの?」

と、阿部くんに言われて蘭は、こないだは失礼な事を言ってごめんということも忘れて、

「プンパニッケルをつくってくれ!どうしても、食べさせたいやつがいる。」

と、早口に言った。

「それはいいけど、あれは焼くのに一晩かかってしまう。そんなに緊急を要することだったら、ここにある、パンを一つ持っていけばいい。」

と、阿部くんは、落ち着いた顔で蘭に言った。そして、売り台にあった、プンパニッケルを丁寧に切った。

「えーといくらだったっけ。」

蘭は、急いでいうと、

「680円。」

と阿部くんは言った。蘭は、これでお釣りをくれと言って、一万円札を手渡した。阿部くんが、少し待っててと言って、お釣りのお金を出そうとしていたが、蘭は、それを待っていられず、プンパニッケルを持って阿部くんの店を出ていってしまった。そして、またタクシーに飛び乗って、製鉄所までタクシーを飛ばしてもらった。

製鉄所の玄関先で下ろしてもらうと、蘭は、プンパニッケルを持ったまま、急いで玄関をあけた。

「おい、水穂いる!」

返答したのは、ブッチャーであった。

「なんですか。水穂さんなら、今薬を飲んでやっと眠ってくれたところですよ。また起こしてしまうのは、可哀想でしょうが。」

「じゃあ、目が覚めたときでいい。このパンを食べさせてやってくれ。ライ麦のパンだから、当たる心配はない。それは大丈夫だから、とにかく食べさせてやって、あいつが、一日でも長くこっちの世界にいてくれるように。」

蘭は、ブッチャーにプンパニッケルの包を渡した。

「こんな、石みたいに硬いパンは、食べられませんよ。」

と、ブッチャーはそう言うが、

「そうなんですけど、つくったパン屋さんが、シチューにつけて食べるとか、パン粥にして食べてもいいと言っていた。だから、そのとおりに食べさせれば。」

と、蘭は急いでいった。

「はあそうですか。これは、そうやって食べさせるパンなんですね。てっきり、石みたいに固いから、貧しい人が食べるのかと思ってましたよ。俺も、水穂さんには、惨めな思いをさせたくありませんので。」

ブッチャーは、急いで言った。

「そういうことはないよ。ライ麦のパンは、たしかに見た目は派手じゃないけど、栄養価もあって、体にいいとつくった人が言っていた。だから、水穂にも、いいと思うんだ。」

いつの間にか、蘭はああして嫉妬していた事を忘れていた。今となっては、阿部くんのつくってくれたパンが、天からのパンのように見えるのであった。

「わかりました。ありがとうございます。蘭さん。」

ブッチャーは、にこやかにパンを受け取った。それを見て蘭は、本当に良かったと思った。



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プンパニッケル 増田朋美 @masubuchi4996

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