最終話

 カズアキがビデオデッキくらいの大きさの段ボールを持って車に戻ってきた。差しっぱなしのキーを回し、ヘッドライトを点ける。

「これ、例の薬品が入っているハコ。あんまり揺らしたらマズいらしいから、膝の上で大切に持っといて。お願い」と指示して琉樹に段ボールを渡した。琉樹の顔が少しひきつった。カズアキはアクセルを踏んだ。サイドミラーに映る照明を浴びた「株式会社 南開薬業」の看板がどんどん小さくなった。

 カズアキには気にかかることがあった。薬品の受け渡しの際に、仲村渠さんが言っていたことについてだ。

「お疲れお疲れ。君が菅井くんか。今から例の渡すね」

 ワイシャツ姿でメガネをかけた仲村渠さんは、疲れた顔をしていた。

「そういえばさぁ、神崎さん全然電話取らないんだよなぁ」

「マジっすか」

「七時五十分ごろに電話かけてこいって自分で指示したくせに、取らんわけよ。そんなこと今まで無かったんだけどなぁ」

「神崎さん今頃忙しくて電話とれないんじゃないですか。船の手続きとかで」

「んー、まぁそういうことにしておくか。心配はしてないけど」仲村渠さんは箱を持ったまま歩きながら答えた。

「はい、これはトイレの芳香剤ね、返品お願いしますね」

 カズアキの胸の裡に繊維状に絡まる不安感は存在感を増すばかりだ。もしかしたら神崎さんに何かあったのかもしれない。何かあれば俺たちのギャラはパーになるかもしれない。それどころか警察に捕まるかもしれない。そう考えるとイライラしてきた。

 信号待ちをしている間、カズアキは神崎さんが連絡は電話じゃなくてLINEでするようにと言っていたことを思い出した。理由は、電話は相手の時間を拘束するが、LINEはそうではないということだった。だから電話を取らなかったからってどうってことはない。仲村渠さんがLINEと電話を聞き間違えたのかもしれない。すべては上手くいっている。絶対この計画は成功する。カズアキの胸の不安感は一時的にすっと消えていった。

 車は埋立地と住宅地を結ぶ橋を通過した。橋のたもとに建つマンションの、非常階段の踊り場の天井に据えられた通路灯の電球が寿命を迎え、チカチカと弱々しい光を放っていた。カズアキはそれを見ると、なぜだかわからないがイライラした。

 国道329号線を通り那覇へと向かう。走行中二度もパトカーが追い越し車線を通り過ぎていった。そのたび琉樹はあからさまにビビッていたが、カズアキはビビらなかった。沖縄の警察はバカだから、俺たちの計画を見破ることはできないという確信があったのだ。

 カズアキはこの仕事のギャラが現金で手渡される時のことを考えた。百五十万払うと神崎さんは約束した。そのうちの二十万は琉樹に渡す。なんて俺は気前がいいんだろう!ともかく、その金で学費を払い、休学中の大学に戻って、就活の準備を始める。そうすればフラれた年上の彼女とヨリを戻せるだろう。

 国道沿いの、ジェフの看板が見えるコンビニの駐車場に車を停め、予定の時間通りにカズアキはLINEで神崎さんからの連絡を待った。琉樹には小銭を渡し、コーヒーを買いに行かせた。しばらくしてスマートフォンが震えた。神崎さんからだった。

“予定変更。安謝じゃなくて、豊見城に来てくれ。今から場所を送る”

“なんでですか?”

“理由はお前がその場所に来てから話す。とりあえず早く来てくれ。今日ではなく明日発送することになったんだ。先方の都合で”

 カズアキは不安にかられた。神崎さんと俺が組み上げた、精密な計画が崩れていく。そういう予感がしたのだ。

“わかりました”

 ネガティブな予感を押し殺し、カズアキは

六文字のテキストを送信した。あらゆる計画には必ず変更がつきものだ。臨機応変な対応が、俺自身の有能さを証明することになる。そう自分に言い聞かせた。

 コーヒーを片手に二人はとよみ大橋を渡った。主塔から橋桁を吊り下げている放射状のケーブルが、冷たい檻となって夜の天球の右半分を閉じ込めていた。グーグルマップの音声が、およそ一キロ先、右方向です。と告げる。目的地に向かうにつれ、車窓の風景は光に満ちた市街地から、いちめんに広がるサトウキビ畑のなかに散在する電照菊畑が干潟の砂州のように浮き上がっている農用地区域へと変わった。カズアキは助手席のほうを見た。相も変わらず琉樹は強張った表情をしている。俺だって怖いんだ、だけどやるしかないんだ。と自分に再び言い聞かせた。この計画の行く先にたちこめる黒い靄を、車窓の風景の後ろへと流れていく電照菊畑の光の群れに乗せて、頭から飛ばしてしまいたかった。


 二人は目的地に着いた。そこは建築資材置き場だった。両方をサトウキビ畑に挟まれ、向かって左側に建つトタン屋根の倉庫には、「(有)根路銘建材第一資材ヤード」と書かれた看板が下げてあった。資材置き場は倉庫を抱き込むように左へと折れ曲がり、上空から見ると直角のカギ状になっていた。周りはフェンスが張り巡らされており、奥側にはギンネムが茂り、さらに左奥には破風の門中墓がぽつんと建っていた。あたりには外灯一つなく、近辺の光源は路肩に停めた車のヘッドライトと、天高く昇る欠けた月しかない。

「神崎さんが俺一人で来いって。行ってくるわ。車の中で待っといてくれる?」

 カズアキは意を決した顔をして、琉樹から段ボール箱を受け取り、暗闇の向こうへと溶けていった。琉樹は一人取り残された。

 それから琉樹が車のカギが差しっぱなしになったセルモータを回すまでの時間は、彼にとって非常に長く感じられた。あたりには住宅ひとつなく、一台の車も通らない。数少ない光源となっていたヘッドライトの代わりに、ハザードランプが点滅している。彼は不安と退屈がないまぜになった気分から逃れるため、スマートフォンに頼った。惰性で続けているソーシャルゲームのアプリを開き、ガチャのイベントがやっていないか確認した。そのうち飽きてきたので、ユーチューブに違法アップロードされたバラエティ番組を視聴しようと試みたが、通信の速度制限がかかっており、なかなかスムーズにいかなかった。やがて車内に染み込んだ冷気が琉樹の尿意を催した。もちろん近くにトイレはない。しょうがないので用を足しに外へ出て、資材置き場の向かい側の草むらへと歩いた。夜空は埋立地にいた時と同じく晴れわたり、欠けた月が出ていた。空気は冴えわたり、微風がサトウキビの葉先を揺らした。

 ジッパーを閉めた直後、琉樹の背後の資材置き場から、鈍い打撃音と低くて微かなうめき声が聞こえた。そののちに拡がる夜の静寂のなかで、彼は埋立地へと向かう時から抱き続けていた悪い予感がついに当たってしまったのではないかと思った。「神崎さん」という名前の、この「計画」のボスを、彼と敵対する勢力が拉致・監禁し、カズアキも薬品を力づくで奪われ監禁されているのかもしれない。もしくは、神崎さんは最初からギャラを支払う気なんてさらさら無くて、自分たちを使い勝手のいい運び屋として使い、用が済んだら口封じのために消すつもりなのかもしれない。ともかく、非合法な仕事には、警察に捕まるリスクだけでなく、かのような血腥い暴力沙汰に巻き込まれる確率だって十分あり得るわけだ。やっぱり参加しなければよかった、と琉樹は深く後悔した。そういえば車のカギは差しっぱなしだったな、と彼はふと思い出し、カズアキを見捨て、車でこの場から逃げ去ろうか、という考えが浮かんだ。

 運転席に座った琉樹は、クラクションを鳴らさないよう注意しながらハンドルに突っ伏してどうしようかと考えた。このまま逃げるか、それとも様子を見に行くか。もしかしたら鈍い打撃音もうめき声も、単なる幻聴に過ぎないしれない。だが、あの輪郭のはっきりとした音像が気のせいだとはどうしても思えなかった。

 琉樹は決断を迫られていた。

 思えば今までの人生の中で、しっかりと覚悟をもって決断したことなど一度もなかったと琉樹は厳しく自省した。今日の計画に参加するのを決めたことだけじゃない。進学や就職だってそうだ。仕事を辞めたのも、母親の収入をアテにした甘えに過ぎなかった。今まさに、自分がしてきた怠惰な選択の結果の総和を、引き受けるべき時なのだ。そう言い聞かせた。車のカギについている、ロックバンドのロゴがあしらわれたキーホルダーが揺れている。カズアキを“慕う”気持ちは彼の心に強く残っていた。しかし“恐怖”もまた大きな存在であり、周囲を覆う暗闇に形を変えて彼にまとわりついた。琉樹は車のカギをひねり、セルモータを回し、ヘッドライトを点けた。一匹のマングースが、目の前の道路を素早く横切った。


 ヘッドライトのハイビームが資材置き場の闇を切り裂き、八十メートルほど先の敷地の隅に積まれている「エ」の形をした鉄鋼や、倉庫の角の廂近くに停められた黒いセダンを照らしている。琉樹は時速三キロくらいの速度で、資材置き場の右側のフェンスぎりぎりを通り慎重に車を進めた。カーオーディオは切っていたので、タイヤが砂利を踏みしめる音しか聞こえない。倉庫の真ん中あたりまで進むと、左の死角から二人の男が出てきた。一人は脱色した髪の痩せた男で、もう一人は背が高く太っていて丸坊主の男だ。痩せた男が懐中電灯の光を琉樹の顔に向けた。二人とも上下ジャージの格好だった。そして鉄パイプのような棒を持っていた。最悪の想定が七割方的中したな、と琉樹は思った。男たちとの距離は五十メートルほど。彼は念のためすべてのドアをロックした。おニイさん道を間違えているよ、ここ私有地だよ、そのままバックして帰ってよ、と太った男が眉間にしわを寄せながら大声で言った。琉樹は一瞬ひるんだが、倉庫の裏側を自分の眼で見てカズアキの安否を確認するまで後には引けない、絶対に奥まで進む、と覚悟を決めた。車を降りて訳を話そうとは思わなかった。そんなことしたら捕まえられて暴行されると瞬時に考えたからだ。

 アクセルを軽く踏み、倉庫の裏側が見える地点を目指して琉樹はじりじりと進んだ。懐中電灯が照らした琉樹の頼りなさそうな風貌を見て、こいつはすぐこの場から退くだろうと高を括っていた二人の男は驚いた表情をして後ずさった。一刻も早く黒いセダンが停められた倉庫の角のところまで到達するために、琉樹はアクセルの踏み込みをほんの少しだけ強くした。左の痩せた男が携帯電話を取り出し、倉庫の裏側に目線をやりながら電話をかけるそぶりをした。右の太った男はさらに後ずさりし、わめき散らしながら鉄パイプのような棒を高く振り上げた。

『(有)ガジュマル運送』のバンはついに黒いセダンと横一線に並んだ。しかしフェンスに対して平行に車を進めたため、左側にある倉庫の裏側の大部分は闇に蔽われたままだった。二人の男は足を止めたまま、倉庫の裏側をちらちらと見ながら小声で話し合っている。琉樹はその隙にハンドルを左に切り、彼らの視線の先にあるものを確かめようした。

 ステンレス製のドアノブがヘッドライトの光を鋭く照り返す。内側のドアノブだった。開きっぱなしの倉庫のドア近くの地面に、作業服姿の男が血まみれの顔をこちら側に向けて倒れていた。琉樹はそれがカズアキだとすぐに分かった。そして中から男が出てきた。男はカズアキの背中を踏みつけた。カズアキが目を閉じたまま苦しそうな顔をした。

 琉樹の身体の奥底から、名状しがたい激しい衝動が湧き上がってきた。両手がハンドルを握りしめ、右足がアクセルを踏みしめた。ドアの方をじっと見ていた太った男は、正面を向くと白い光の塊が自分に突っ込んでくるのに気付くが反応する間もなく顔面がフロントガラスに衝突し、くの字に折れ曲がった身体が撥ね飛ばされた。痩せた男は背を向けて逃げたが、太った男と一緒に撥ね飛ばされた鉄パイプが放物線を描いて後頭部に直撃し、砂利に足を取られて前のめりに倒れた。人間の肉を踏み潰す感触が琉樹の手や足に伝わった。一瞬のことだった。

 我に返った琉樹は即座にブレーキを踏んだが勢いは止まらず、フェンスに突っ込んだ。顔面はフロントガラスにしたたか打ちつけられ、ハンドルはみぞおちに鋭く食い込んだ。フロントガラスの蜘蛛の巣状のひびの中央には、太った男の歯がめり込んでいた。

 しばらくすると琉樹は口や鼻、額から流れる血にまみれた顔を動かせないほど痛む右手でぬぐい、運転席に座り直し、このくらいの負傷では絶対自分は死なないだろう、とおぼろげな意識のなかで確信した。ヘッドライトのハイビームはフェンスの向こう側に揺れるギンネムの枯れた莢を照らし、さらに奥の破風の門中墓の輪郭を夜の闇から露わにした。琉樹の確信は強い意思が込められた、がしかし焦点の定まらない眼差しとなって表れ、衝撃で破壊されたヘッドライトの消えゆく光が切り取ったそれらの光景へと吸い込まれていった。

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ダイイング・ライトの盗賊たち 安里 和幸 @astkzyk

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