第3話

 カズアキから再び連絡が来たのはそれから二か月後の十二月初め、二人がしゃべり始めてちょうど一年経った寒い日だった。琉樹は別の短期アルバイト派遣会社に登録し、週に二、三回ほどイベント会場の設営や解体のアルバイトをしていた。ジャンパーを着こみ、コンベンションセンターでテントを設営する途中、ジーパンのポケットに突っ込んだスマートフォンの振動を感じ取った。昼休みに確認すると、カズアキからのLINEだった。

“今ひま?仕事は見つかった?”

 琉樹は疲れていたので、既読をつけたまま放置した。今日の現場のリーダーが、遅刻してきた三人の大学生アルバイトに始業そうそう激怒していたのを見せられたのも、疲労の遠因だった。おかげでミーティングの際「おい、お前口開けて聞いてんじゃねーよ」と、琉樹までとばっちりを食らった。(本当に大学生という人種は仕事をなめている。まとめてあのセンター長にきつく詰められたらいいのになぁ)と琉樹は強く願った。「おい、ボーッとしてないでこれ一緒に運ぼうや、あそこまで」午後、例の現場のリーダーと二人でテントの骨組みの束を運ぶ途中、後悔が急に琉樹を襲った。(今思えば古波津さんみたいな温厚な上司はなかなかいないもんだなぁ、やっぱり辞めなければよかったなぁ)

 原付をコンビニの駐輪場に停め、スマートフォンを取り出すと“あさって夜八時にマックで話せる?”とカズアキからの通知が来ていた。その次にグーグルマップの位置情報のリンクが送られていた。前の職場から帰る途中、頻繁にチキンクリスプを買っていた国道沿いの店舗だ。

 指定の時間の二分前に琉樹がマクドナルドに入ると、ストリート系のブランドの地味に高そうな白いパーカーを着たカズアキが、道路沿いの窓際の席でコーヒーを飲んでいた。

「前話してたミーゴス、聴きましたよ。ユーチューブで」ポテトをつまみながら、琉樹が話しかけた。「あ、ミーゴス?ミーゴスいいよな、あの独特のフロウと三連ラップと三人のアドリブ聴くと気分がアガるよな」今日のカズアキはコーヒーしか買わないようだ。「ミーゴス気に入ったらフューチャーとか21サヴェージとかのラッパーもオススメ。今度ヒマだったらクラブ行こうよ。最近行ってる外人ばっかのハコはUSのヒップホップがガンガンかかってるんだよね」クラブのことをハコと呼ぶのを、琉樹は初めて知った。

「まだやってるんですか?転売」

「うーん。全然儲からないんだよね最近」

カズアキが持つ紙コップに印字されたロゴが、外の暗さのために中途半端な鏡と化した窓ガラスに映り、背景の信号待ちの車のテールランプの赤い光と重なっている。「その代わり別の仕事始めてるんだよね。ここでは言えない内容だけど。ハハッ。車で話すわ」

 運転席と助手席のドアが閉まると、カズアキはすぐ喋り始めた。

「実をいうと、今始めてる仕事はズバリ『泥棒』なんだよね」

「はぁ」あくまで何かの喩えとして『泥棒』と言っているのだな、と琉樹は勝手に納得してカズアキのしゃべりを追ったが、その考えはすぐに裏切られた。「正確に言うなら『泥棒』のアシストだな。片棒を担ぐとも言うけど。とある医薬品の横流しを手伝うんだ。麻薬の原料になるらしい。詳しいことは知らされてないけど」

「えっ。んっ」

「神崎さんから依頼されたんだけど。このマック近くの埋立地に医薬品の倉庫があって。そこで働いている社員に仲村渠という人がいて、その人がその薬品に関する社内の書類をうまくごまかすわけ。本当に仕入先から納入先まで全部。本当に全部。絶対バレないようにできるらしい。だけど那覇の安謝まで運ぶのだけはその人では無理なんだよね。会社を離れるといろいろとマズいらしい。だから、『運び屋』が必要というわけ。神崎さんは港で県外に運び出す段取りにギリギリまでかかりっきりだから、『運び屋』はできない。そこで俺の登場というわけよ」カズアキの秘密の計画の大暴露は、台風の夜にゴミを含んだ濁流を溢れさせている家近くの排水路を琉樹に思わせた。俺はその濁流に流されようとしているな、と意識し始める頃に、カズアキが唾を飛ばしながら再びしゃべり始めた。「俺……俺らは神崎さんがこしらえたダミーの運送会社に扮して、『運び屋』になるんだけどさ、薬品の物流というのは結構厳しくて、ぽっと出のうさんくさい業者じゃ参入、できないわけよ。そこで仲村渠のオッサンが、小細工をする。例の薬品をトイレの芳香剤の段ボールに入れて、単なる消耗品の返品という体裁でこの件を処理するわけ。どう?」カズアキの勝ち誇ったような表情がバックミラーに映る。「絶対足のつかない計画。完璧じゃない?実をいうと、俺のアイディアも結構入ってるんだよね。凄くね?」

「あ、はい、綿密な計画なのは十分わかりましたが」琉樹は一連の濁流のなかにぽつんと立っている、冷静さを伴った客観的な視点という名の立木にかろうじてしがみつきながら尋ねた。「なんで僕に全部話すんですか?」

「それはもちろん」後ろの座席に置かれたカズアキのリュックから、煙草とライターが取り出される。「お前を信頼しているからだよ。琉樹、お前も参加しない?俺の取り分から二十万出すよ。イベントの設営よりだいぶ割のいいバイトじゃね?」

「その『完璧な計画』に、俺が入る余地あります?話聞くかぎりだとカズアキさん一人で完結できそうな内容ですけど」

「それはそうだけどさ」カズアキは琉樹の肩を叩きながら、那覇のバーでしたような笑みを投げかけた。「お前に見届けてほしいんだよね。俺がこの『完璧な計画』を、そつなく完遂するのを。神崎さんは全然褒めてくれないしさ。まぁ、所詮ビジネス上の関係に過ぎないから、しょうがないんだけどね。とにかく一人じゃ寂しいんだよ」

 琉樹はカズアキのことを至極身勝手だと思った。また、転売のバイトから一方的に外されたことに対しては、いまだに半分逆恨みに似た感情を抱いていた。だが、「信頼している」と言われるのはたとえ嘘でも嬉しかったし、二十万という金額は彼に妙なリアリティを感じさせた。そしてなにより、カズアキを “慕う”感情が彼の心にいまだ残っていた。

 帰りがけに、カズアキはタバコをくわえながら琉樹にこう告げた。

「まぁじっくり考えて決めてね。やりたいんなら“AM”、イヤだったら“PM”と俺にLINEしてくれよな。正月までには返事ちょうだいね」


 二人を乗せたバンが走っている、この埋立地を縁取る道路は暗い。道路灯の間隔が空いているためだ。ヘッドライトの細やかな光線が、毛先を拡げた刷毛となり、夜の闇を降り積もらせた路面を掃いては、猫の爪とぎの跡のようなブレーキ痕を露わにする。深夜は走り屋たちの練習場になっているようだ。

「仲村渠さんという人に会ったことあるんですか?」

「いや、一度も。直接電話で打ち合わせとかもしてないな。今日の今日まで」

「大丈夫なんすよね、それで」

「証拠を残すとマズいらしいんだよね、とにかく」カズアキが少しだけむっとした顔になった。

「や、すいません。ただ気になってて。どんな人なのかなー、と」

「どんな人って、まぁ、神崎さんが見込んだ人なんだから、仕事がそこそこデキる抜け目ないタイプじゃないの」

「そういう人じゃないと、ヤバい薬品を扱うような、大事な部門を会社から任されませんよね。普通に考えて。だけど……」

「そうそう」カズアキはサイドミラーを見遣った。「でも、不安な気持ちになるのはわからないでもないけど、そんなに気になるか?サッと受け取ってサッと帰るだけよ」

「そうっすね。なんも心配することはないですよね」

 水銀灯の冷たい光が車内を満たし始めた。倉庫や営業所が集積された区画が再び近づいてきたのだ。「もうそろそろ着くなぁ」琉樹は無意識にシートベルトをきゅっと握った。

「あのとき“AM”ってLINE来たのは嬉しかったよ」

「そうっすか、あざっす」琉樹は心ここにあらずといった声で答えた。そして、自分の頭の中に漂う不安の霧から、今日この「アルバイト」に同行することを決断した日の記憶を取り出して、反芻してみた。


 アパートのアルミサッシの窓枠からのぞくモクマオウの樹が、地面に対して垂直に立ち昇る黒い焔の柱へと変わり、夕暮れが近づく空に油のように浮いている錠剤色の雲の底を溶かしている。琉樹は二日酔いで痛む頭を左手で支えながら、静止画のように窓に嵌め込まれた外の風景を見つめていた。

 散らかった部屋の畳の上に、ハードカバーで装丁された、とある劇団のファンブックが無造作に置かれている。宜野湾市長田のブックオフにて一目ぼれし、千円で購入したものだ。この劇団は、琉樹の好きなドラマを手掛けた売れっ子脚本家が所属していることで有名である。琉樹は演劇に全然詳しくないが、ファンブックに載っている、著名なバイプレイヤー俳優が舞台の上ではっちゃけている瞬間のスナップ写真を見ると、俺も生でこれを観たい、と久方ぶりの能動的な欲求が生まれてくるのだった。

 東京に旅行したい。と琉樹は強く思った

 しかし彼の口座には一万二千円ほどしかない。これでは往復の飛行機運賃にも足りないだろう。タバコと酒をのべつまくなしに買っていたら金欠になるのはあたりまえである。節約しなければなぁ、さてどうしたものか、とうだうだ思案していると、琉樹の母が帰ってきた。

「あんたさぁ、そろそろ家にお金入れてくれない?」昨日作った骨汁を温めながら、母はいつもとは違う口調で話を切り出した。

「なんで?」

「なんでってあんたさぁ、ここに居て何も手伝わずに食って寝てバイトして酒飲んで、家賃や電気代だってタダじゃないんだから」

「いやだ」

「いやだって、あんた子供じゃないんだから。バイトしてるんでしょ?月に一万円くらいでいいから」

「なんでそんな急に。俺だってやりたいことがあるから金を貯めているのに」

「急にって、あんたアホじゃないの?普通実家に住んでる成人した男は家にお金入れるもんです。人として当たり前です」母は語気を強めて早口でまくしたてた。

「職場では夜勤減らされてさ。陽樹は教科書代二万円送ってくれって言うし。陽樹はまだ大学生で未来があるからいいけど。あんたはスネだけかじって建設的なこと一つもしないし。とにかくお金が足りないのよ。お金入れないんだったら出ていって」

「わかったわかった。出ていけばいいんだろ。出ていくよ」琉樹は箸を机に叩きつけ、家を出た。アパートの一階と二階の間の踊り場の通路灯に、蛾が何度もぶつかっていた。すぐ前のカーブミラーの表面を、「青少年非行防止見回りパトロール」のステッカーをつけた軽自動車の青い回転灯がすべっていく。窓から見えたモクマオウの木は、この夜の闇をさらに煮詰めて濃くした空気をまとって立っていた。

 なんで俺はああいう風にブチ切れてしまったんだろう、母相手ならなおさらひどい、と自責しつつ琉樹は住宅街をさまよっていた。ポケットにはタバコと安物のライターと近くのコンビニにて千円余りで購入したイヤホンとスマートフォンしかなかった。家出したのに財布を取りに家に戻ることほど恥ずかしいことはないな、と彼は思った。もっとも財布には現金千円ちょっとしか入っていない。これではマンガ喫茶で夜を明かすこともできないだろう。

 やがて琉樹の眼に悔し涙が浮かんできた。自分は自分自身の感情をコントロールすることができない、どうしようもない人間だ。情けない。母の言うことにも一理ある。一理どころではない。それに、今のモラトリアム生活を続けた結果はだいたい予想がつく。彼が叔母から貰った島野菜を包む古新聞の記事に載っていた、8050問題というのが末路だろう。とりとめのない考えが彼の歩行を進める。いつのまにか、アパートのある高台のへりにある公園にたどり着いていた。

 路上生活者除けの仕切りが付いたベンチの端に座り、タバコをくわえながら、琉樹は今後のことについて考えた。とりあえず、家に金を入れるためにアルバイトを増やす。それは既定事項として、自分自身にずっとまとわりついているこのなんとも言えないダルい空気がサッと消し飛ぶような強烈な体験をしたいとも思った。琉樹は自分の人生を振り返ると、自分の高校時代は部活もやらず、友達も少なく、勉強に打ち込むわけでもなかったことに気づいた。

 何か俺にも、夢中になれるものが欲しい。『夢中になれるもの』というフレーズのありきたりさに一瞬自己嫌悪をおぼえつつ、琉樹はあの劇団のファンブックを思い浮かべた。それはただちに彼自身が演劇を志したということではなく、生の強烈な体験をしたいと欲求のあらわれであった。東京に行きたい、と彼は再び強く思った。東京に行っていろんなハコでいろんなバンドを観たい。演劇も見たい。ついでにうまいものも食いたい。彼の能動的な欲求は膨らんでいった。もちろんそのためにはカネがいる。

 琉樹はタバコの煙の行く先を目で追うと、白やオレンジ色の光が溢れる工業団地に蔽われた埋立地があるのに気づいた。カズアキが持ちかけた怪しいアルバイトの舞台となる医薬品の倉庫が立地している埋立地だ。埋立地の夜景をなんとなしに眺めていると、琉樹は「泥棒」というほかない例のアルバイトに対する自分の恐怖心や罪悪感が、いつの間にかなくなっていることに気がついた。―「絶対足のつかない計画」―カズアキが国道沿いのマックの駐車場で繰り返した言葉を、彼は頭の中でくどいほど復唱した。

 タバコを一本吸い終えた琉樹は、排水溝の蓋の鉄の格子に火種の残ったままの吸い殻を捨てた。今まさに死へと向かっているオレンジ色の火種が、黒々とした排水の水面へと吸い込まれていく。そしてポケットからスマホを取り出し、カズアキのLINEに“AM”と送信した。遠くの救急車のサイレンが夜の空気をかき回している。公園に植えられたフクギからコウモリが飛び立ち、外灯の光源を一瞬だけ隠した。

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