第一章 僕はヴァイオリンを弾かないが、君はヴァイオリンを弾く【#2】
思った通り教室には僕が最後だったのか、という程には何人もの人が集まっており、わいわいガヤガヤと好き放題勝手に喋っていた。その様子に、少しだけ眉を動かしてしまったが、それ以上顔に不快感を出さず、僕は黒板に貼られた座席表を見る。
席順としてはいつも通り、僕の苗字を考えれば妥当な所だろう。最前列から三番目辺り――前過ぎでも後ろ過ぎでもない、なんとも微妙な位置になった座席をチラリと見やると……そこに既に誰か知らない女子が座っていることに気が付く。
いや、座っているというには少し違うかもしれない。というのも、彼女が座っているのは僕の椅子ではなく、僕の机の方。恐らくはその隣の席に腰掛けている女子や、その後ろで笑っている男子と話すためにそこを選んだのだろう。
僕にとってははた迷惑な話だけれど、生憎と彼女の中で僕という存在はまだ出会ったことすらない同じクラスの生徒B――Aというには僕の存在はそこまで大きくないだろう――であり、そんな相手に気を遣う必要もない、という考えは理解できる。僕であっても同じような考えの元で行動するだろう。机に座るかということについては別問題としても、だ。
それはともかく、このままでは僕の荷物を置くこともできず、ただ鞄を肩にかけてぼーっと突っ立っている妙な相手と思われてもおかしくない。あの生徒Fと話さなければ、僕は入学式が始まるまでこのままだ。そんな面倒を背負いたくない。
意を決して――というほどでもないが、嫌な気持ちを心の中に押し込められないまま、僕はその生徒のところへと向かう。
「ねえ、そこ」
最低限の言葉と共に、僕の鞄を相手に見せる。それだけで、相手は僕がそこの席に割り振られた生徒であり、鞄が置けないということを察するだろう。あわよくばそのまま別の場所で話を始めてくれても構わない。
「何? 一体……あっ、えっと、ごめんね! ちょっと使っちゃってたー!」
僕の声に嫌々、という風に振り向いた彼女は、しかし僕を見た途端顔色を変えて途端に優しくなった。ぴょこん、という擬音が入りそうな動きで机から降りた彼女は、そのままとててて、と僕の方へと近づいてくる。
「名前、なんて言うんですー? あっ、わたしはー、山吹美帆っていいまーす! ミホって呼んでね?」
もしこれが仮に漫画やアニメならここにキラッ☆ というSEが入ったのだろう。驚くような愛想を作った彼女はそのまま僕の返事を待つようにうずうずしている。勿論名前を聞かれた以上、彼女が欲しているのは名前だろう。
僕は人と接するのが好きではないが、人が何を考えているのかは凡そ分かることができる。もっとも、あくまで大体である上に、正確性も無ければ確実性も無いあんまりなものではあるのだけれど。
それでも会話の流れとしてこの女子が僕の名前を聞きたがっているのは一目瞭然で、そしてそこから次の会話に繋げようとしていることも理解できる。
だからこそ僕はそれを完全にスルーして彼女の隣をすり抜け、今しがたまで座っていた机に鞄を置く。筆箱とメモ帳程度しか入れていなかった鞄はドスンと音を立てることもなく、静かにぽすっという音と共に机の上に鎮座した。
「……えっ?」
後ろからは間の抜けたような声が聞こえてくる。当然だ、今僕がしたことは端的に言うのであれば「無視」という二文字で済ませることができるようなものなのだから。
とはいえ、何が起こったのか理解できていないような彼女に何も言わないというのもこれからの人間関係に支障をきたす。別に僕個人としてはこのまま彼女からの発言を無かったことにしても全く構わないのだが、これからの学校生活を円滑に――正確には最低限の、という但し書きは付くのだが――するためには、最初に気を遣わなければならない。なんとも面倒な話だ。
だから僕は鞄を置いたそのまま、彼女の方へと向き直る。あんな対応をしたにも関わらず、僕の顔を正面から見た途端に少し顔を赤らめるところは何とも現金なものだが、残念なことに僕は彼女が抱いている淡い幻想には応えられそうもない。
「名前ならそれでも見て。じゃ」
そう言いながら、僕は黒板に貼られた座席表を指さす。座席表の中で僕がいるこの席の場所には当然僕の名前が書かれており、それを見れば僕の名前などすぐに分かってしまう。故に僕は特に何かを言うわけでもなく、ただ事実のみを伝えて背を向ける。
実際にHRが始まるまでは、後二分といったところか。遅刻して注目を集めたくなかった僕は時間よりも前に――それだってギリギリであることは承知しているのだが――来てしまっていたため、僅かにこの間は誰かと話すことができる時間が生まれてしまっている。
故に僕は教室からは出て、窓の外でも眺めながら廊下の背景となるべく廊下へと向かおうとしたのだが――もう名前も覚えていない彼女の横を通り過ぎようとしたとき、
「おい」
僕に後ろから声を掛けてくる相手が一人。気のせいではないだろう。自分に声を掛けられたと思ったら別人だった、ということは往々にしてあることだが、この状況で、僕に向かって、そして少し苛立ったような、攻撃するような声で、さっきまで彼女と話していた男が声を掛けてきているのだ。状況で言えば満場一致で僕への言葉だろう。
嫌々ながら振り返る。僕の経験から言わせてもらえば、攻撃的な声で話しかけてくる相手が僕にとって都合のいい話を持ってきたためしは無い。
そしてその考えは案の定当たっていたらしく、そこには何やら不機嫌そうな顔をした、前髪を綺麗にセットした男子が席から立ち上がりながら、僕の方へと向かって来ていた。
「お前、ミホが名前聞いてんのに無視すんのはナシじゃね?」
「人との会話って知ってますー?」
一緒に話していた、今机に座っている男子も一緒になってこちらへ矛先を向けてくる。さっきまでは僕について殆ど視線を向けていなかったにも関わらず、彼が僕に話しかけてきた途端これだ。こういうやつは何度か見てきたが、正直に言えばあっちは無視するのがいいだろう。僕と話しているのはあくまでもこのオラついている彼であって、勝ち馬に乗ろうとする方ではないのだから。
だから僕はこの彼の方へと顔を向け、正面から向き直る。僕の顔を正面から見た相手は、今までは男子なら少したじろぎ、女子ならやや顔を赤らめる奴が多かったが、この彼はどうやらそのどちらにも当てはまらないようで、じっと僕の方を真正面から観察してくる。
どうやら話を聞く姿勢くらいはあるようだ。僕は安心して彼の言葉に返事をする。
「そうだね」
それだけ言うと、もう話は終わったとばかりに再度背中を向ける。実際これで話は終わりだ。
何故って、彼はただ「彼女が名前を聞いた時に無視するのは良くないのでは?」と聞いてきて、僕はそれに対して肯定しただけなのだから。
『人が話しかけてきた時に無視するのはよくない』というのは正しいことであり、僕は正しくないことをした。それは理解できている。
だから僕はそれに対して肯定の言葉を返す。これで話は終わりだし、ここから何を広げるわけでもない。
まるで想定していなかった答えをもらったような顔で驚いている彼を横目に、僕は廊下へと歩いていく。と、そこで気付く。
確かに僕は彼女の言葉を無視した。そこは事実であり否定することもないのだが、同時に席を譲ってくれた彼女にお礼を言うことを忘れていたのだ。
最低限の人間関係を維持するためには、お礼を伝えることは必要だ。これは僕が小学校、中学校で学んだ知識の一つであり、そして同時に数少ない役に立った知識でもある。
だから僕は今一度彼女の方へと顔を向けて、お礼を言う。きちんとした礼をする必要は無い――むしろそれをしたら妙な目で見られた経験があるからだ――ただ相手の目を見て一言伝えるだけでいい。
「ありがとう、席譲ってくれて」
口を押えて更に顔を赤くしだした彼女を放って、僕はようやく廊下に出ようとする。後ろでは何か「ヤバイって、マジヤバイって」という声が聞こえてくるが、僕にはどうでもいいことだ。
僕の頭の中からはもう既に彼女たちの名前や顔も思い出せなくなっているが、些事に過ぎない。どうせ関わることも少ないのだ、覚えておくだけ脳の容量を無駄遣いすることになるだけだろう。
が、ふとそこで腕時計を確認すると、針は八時半を示している。確かこの時間は予め伝えられていた教室への集合の時間であり、そしてそれは即ち――
「はーい、席に付けー。実際もう時間になったからなー」
間延びした声と共に教室の扉を開け、教師が入ってくる。そう、それは即ちHRが始まるということでもある。廊下で過ごすという時間が完璧になくなってしまったことは、喜ぶべきか悲しむべきか。これ以上誰かに話しかけられるタイミングが無事消滅したことは喜ぶべきなのだろうが、予め決めていたことができなくなるというのも考え物だ。
とはいえ、今の事実は着席した方がいいという事実一つだけ。僕は大人しく無言で自分の席に戻り――あの彼女も後ろの方へと戻っていった――、模範生徒のように座る。
「よし、それじゃあ実際な、今日からお前たちは高校生になった。まずは実際、入学おめでとう」
随分と実際、という言葉を多用する教師だな、と僕は心の中で密かに思う。既に実際カウンターは三回も回っている。
「まずは先生の名前から先に伝えておこうか。実際、そっちの方がやりやすいだろう。えー……御中の御、に……」
かつかつと黒板にチョークで自分の名前を書いていく。仮称実際先生は独特な自分の漢字の表現をしながら、かなり達筆に自分の名前を黒板に書いた。
「
六回目の実際カウンターを回しながら、実際先生改め御堂先生は自己紹介をしながらこの後の予定について説明していく。もっとも、僕たちがやることは決まり切っていて、着席の合図があれば座る、起立の合図があれば立つ、といった当たり障りのないことだけ。言われなくても間違えることは無いだろう。これが初めてというならともかく、一ヶ月弱前に卒業式で同じことをやっていれば、猶更の事。
そんなわけで適当に僕はちゃんと聞いている振りをしながら適当に話を聞き流す。重要なところだけ聞き取れればいいのだ。それ以外のところは右から左へと流して……おっと、今実際カウンターがまた回った。
そんな話を続けること五分弱。伝えるべき話が終わったのだろう、御堂先生はよし、と声をあげて息を小さく整えると、再び教室によく響く声でもう一度僕たちに話しかけてきた。
「それじゃあ今から、体育館に行くぞー。実際、やることは少ないから緊張するなよ。それじゃ番号順に二列になれー」
それだけ伝えると、先生は廊下に出ていく。僕たちがどこに並ぶかをいち早く示すためにも、まずは最初に廊下に出る必要はあるのだろう……実際。
いけない、どうやら僕にもその実際という口調が少なからず移ったのかもしれない。妙な口調というものはえてして伝染しやすいものだが、実際僕にもそれが移ることになるとは想像していなかった……いけない、また出ている。
周りを見ればガタガタ、と席を立って廊下に出る生徒たち。さっきの三人は親し気に話していたが、あれは彼らが特別コミュニケーション能力が高かったのだろう、殆どの生徒は誰かと話すこともなく、ただ静かに先生の言う通りに廊下へと並んでいる。
僕もその流れに乗って、廊下へと並ぶ。いつも通り、前から三分の一ほどの場所に。
「よし、全員いるなー。実際、誰かいなくてもまだ先生は分からないから、いないやつがいたら早めに教えてくれると実際助かる」
教室内を覗きながら先生はそんなことを言う。そして恐らくは全員揃ったことを確認すると、案内するかのように体育館の方へと歩き出した。
僕はヴァイオリンを弾かない リガル @rigal0428
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