第一章 僕はヴァイオリンを弾かないが、君はヴァイオリンを弾く【#1】
もし神様に何か一つ願い事ができて、それが何でも叶うというのならば、僕は迷うことなく真っ先に「孤独」と答えるだろう。
孤独という存在が社会から忌み嫌われて久しい世の中――孤独とは寂しいことであり、寂しいことは恥ずべきことだという刷り込みが社会全体に浸透しているこの世の中では、きっとこの願いもまた恥ずべきものなのだろうが。
しかし僕にとって一番忌み嫌うものは他者との関わりであり、そして同時に最も願ってやまないものこそ孤独であることだ。
社会は孤独に厳しい。
これは正確にはこの日本人の意識がというよりも、最早この資本主義の現代において一人で生きていくということは下手な大会で賞を取るよりも、テストで百点を取ることよりも余程難しいことであるということでもある。
自由とは責任が伴う――最早使い古されたその言葉は、しかし同時にどうしようもないほど真理だ。僕たちは皆、その責任を分散し、他者へと委ねることで残った責任の分、自由を手に入れている。
その理論で言うのであれば、僕の目指す孤独とはきっとどこまでも自由で、そしてどこまでも責任が伴うものなのだろう。
責任を押し付ける相手もおらず、全てを自分で背負うしかない状況。それは同時にどこまでも自由であることを意味している。
生死すらも自由であり、そして同時にその責任すら自分へ降りかかるもの。僕にそこまでの覚悟があれば今すぐにでもその責任を自分で負い、そして同時に自由になるのだが、残念。今の僕にはどうしようもない程に覚悟がなく、それ故神に願うことくらいしかできない。
けれども同時に思うのだ。神に願って孤独を得ている時点で、僕は孤独になるという責任をその名前も知らない神に押し付けていやしないかと。
すなわちそれは果たして本当の自由であるのだろうか。他者が責任を持つ関係に孤独というものは存在しているのだろうか。
分からない。分からない。
そもそも本当に神がいるのかさえ分からないのに、こんな毒にも薬にもならない思考実験をしている僕が一番分からない。
それでも、こうしてみっともなく足掻き、苦しみ、そしてその責任の全てを他者へと押し付けている、どうしようもなく醜い存在こそ。
この、僕だ。
✕ ✕ ✕
人はどんな時に春がやってきたと感じるのだろうか。ある人は部屋の温度を調節する必要が無くなった時、と答えるかもしれないし、またある人は桜が咲いた時、と評するかもしれない。
春分を迎えた時、と考える人もいるだろう。もっとも春分を以て春とする考え方をする人間がもしもいるのであれば、僕はその人に春物の服を着せて二月の中旬に外を出歩かせてみたいものだけれど。風邪を引いたところで、僕はその責任を負うことはない。
ともかく、何度目かの新年を迎え、何度目かの冬を乗り越えたその後、僕たちが住むこの日本にようやく春が訪れた。桜前線は恙なく訪れ、そうして道を桃色の絨毯が塗装したこの季節を、僕は一人歩いている。
ふと甲高い声が耳に届く。周りを見渡せば、晴れやかな足取りで二人の小学生がわいわいと騒ぎながら後ろからこちらへと向かってきて、そのままこちらに気を取られることもなく当たり前のようにそのまま走り去っていく。
別に小学生との出会いを期待したわけではない。むしろそんなものを期待している相手の方が不味いだろう。ただ、二人の小学生がとても仲良さそうに笑いながら走っていく姿は、やけに僕の印象に残った。
ただ、それはあくまで印象に残ったというだけ。さながら積もった雪に足を踏み入れた時の足跡のように、その時だけは残っていたとしても後から降る雪に隠れて消えていく。
人の記憶というものは得てしてそういうものであるし、僕の注意力というものも得てしてそういうものに過ぎない。だから僕は、一瞬だけ止めていた足をそのまま動かし始め、目的地へと向かっていくのだ。
僕にとって春を告げるものは幾つか存在する。例えば桜が咲いた時や――こんな僕にも花を美しいと感じる心の一つくらいはあるのだ――、外に出た時に暖かいと感じるようになった時。服をどれだけ着たところで隠せない顔や手が冷たくない、と感じる時はきっと春が来たと思える数少ない機会だ。
けれど、僕にとって一番春を感じさせる――春だと思わされるのは紛れもなくこの一つだけ。
そうして僕は今日何度目になるか分からない、自分の服の袖口を見て――そこにしっかりと、高校の制服のボタンが付けられていることを確認する。
今日は新学期。
僕は今日から、高校生になる。
✕✕
新しく入る敷地はどこか実面積よりも大きく見えるものだ。右も左も分からない場所に一人佇んでいると、自分が遠く離れた異界の地に来たのではないかと思えるほど。
今日は入学式当日ということもあるのか、校舎の敷地内は驚くほどに静まり返っていた。恐らくは他学年の生徒もおらず……そして僕以外に新入生がいるということもない。
当然だろう、今の時刻は七時十五分。そして入学式が始まるのは八時四十五分。実に一時間半、前倒しで僕は校門をくぐっているのだから。
これは別に僕が時間を一時間も間違えてしまった……ということではない。いくら僕であっても常識的に考えて一般的な高校生が八時前から入学式を開始すると言われても、集まるには苦労すること程度理解できている。
故に僕は正しく、入学式が八時四十五分からだと理解した上で、その上で僕はこの時間に、一人校舎の中をゆっくり歩いているというだけだ。
誰にも邪魔されることもなく。
ただ独りで。
それこそが目的なのだから。
そもそもで言うのであれば、僕は人と接することが好きではない。
もっとも、こんな風にわざわざ他人と会いたくないからとわざわざ時間を大幅に前倒しして登校するような人間の人付き合いが上手いなど、何の冗談かと問い詰めたくなるほどだろう。漫才のネタにするにしても、面白くはないうえに絶妙に洒落も効いていない。
後一時間もすれば、入学式に出席する生徒たちでごった返すことは想像に難くない。その上、もし仮に今日も部活をやろうとしている学生がいたならば、更にその人数が増えて非常に面倒な事態になることもあるだろう。
そんな面倒なことになる前に、校舎を一通り見て回りたい――表向きはそんな理由で、わざわざいつもより少し早く起き、僕はこうして今日から通うことになる学校へと足を踏み入れている。そう、表向きは、だ。
実のところ、僕は校舎になんて微塵も興味はない。どれくらい興味が無いかと聞かれれば、今年アフリカで見つかった新種の植物の名前くらい。毎年のように何千種も新しい植物が発見されている中そんなものを覚えるために使う脳の容量と同じくらいの興味をこの校舎に割り振っている、といえば僕の興味の無さがしれるだろう。
それならばどうしてわざわざ早起きしてまでこんなところにやって来たのか――その理由が、今まさに僕の目の前にある。
ガラリ、と扉を引き――鍵は既に開けられていた――僕は「図書室」と書かれた部屋へと足を踏み入れる。
本が敷き詰められた空間というものは独特だ。何故なのかは分からないが、それだけで少し静寂が増したような気すら感じられる。それは気のせいなのかもしれないし、気のせいじゃないのかもしれない。もし気のせいじゃないのだとしたら、紙には何か吸音作用でもあるのだろうか。
そんなことは僕には分かるはずもない。僕はあくまでいち中学生――いや、今日からはいち高校生だが、ただ肩書が変わったところで僕という存在そのものが変わるわけもなく、あくまでただの十五歳であって、紙と音について研究を重ねている専門家ではないのだ。論文だって読んだこともあるはずがない。
だから僕はただ単に静かだということを嚙みしめながら、適当に棚に並んでいる本を一冊手に取って椅子に座る。
ここに来ているということは、と僕の事を読書家だと思う人間も一人や二人はいるのかもしれないが、生憎と僕には図書を優雅に眺める文化にはてんで縁が無い生活を過ごしてきた。
僕にとって本とは即ち学びを得るための道具であって、決して娯楽や心を安らかにする、世間一般で言われるところの読書家が楽しいと思っている部分を楽しんでいるわけではない。更に言えば、僕がここに来た理由は別に本を読むのが理由というわけですらない。
僕がこれから入学式までをここで過ごす理由はただ一つ、ここならば誰かがやってきてうるさく喋る、ということが無いからにすぎない。手に持っている本は図書室で時間を潰す上でのアクセサリーのようなものだ。
そう、僕がこうしてこれ程までに早くやって来た最大の理由はこれなのだ。校舎を早く見たいだの、遅刻するわけにはいかないだのととやかく理由を付けて早く来たのだけれど、僕が最も悩んでいることはただ一つ。
僕は、騒がしいことが大の苦手だ。
だから入学式の直前に学校を訪れることで、人との関わりを減らす――といったこともできない。入学式の直前など、恐らくこの学校生活でも上位に入るほどの騒がしさが支配しているだろうから。
新しい環境で舞い上がっている、昨日まで中学生だった高校生など何をするか分かったものではない。声を掛けられるだけでも鬱陶しい、親し気にこちらに話しかけようものなら僕が考えるのはどのように返答するかではなくどのようにその口を塞げばいいかでしかないのだから。
故に僕はこうして、誰もいない時間に早く来ることでまず校門をくぐった時に話しかけられるような状況を潰し、そうしてギリギリに入学式の会場へ入ることで少しでも喧噪から自分を遠ざけるために今こうしてここにいる。果たして目論見は成功のようで、騒音から最も遠い位置に僕自身を置くことができた。
恐らくここからおよそ一時間半、続々と人が集まってくるだろうし、次々とやかましさが増してくるに違いない。けれど、今僕はこうしてここへ退避しており、人混みに顔を顰める事もなく安らかな一時を過ごせることはほぼ確実だろう。
そんなことを考えながらペラペラと本をめくっていると……そう……思考が……段々と……。
気付けば僕はコクリ、コクリと船を漕いでいた。朝早く起きたことが原因だろうか、はたまた慣れない本に手を出していたからか。それとも部屋の室温が丁度いい具合に調整されていたから?
しかしそんなところで原因を探ったところで、僕の眠気はむしろ一層高まっていく。興味が無いことを考えると眠気は急激に襲ってくるものだが、少し考え事をしただけで更に眠気が高まってくるとは、僕の思考は自分にも嫌われているのだろうか。
少しだけなら、入学式にも間に合うに決まっている。すぐに起きられるはず。そのまま僕は持っていた本の次のページを捲ろうと――指を――動か――
パタッ、と何かが落ちる音を最後に聞いた気がした。
「……………………」
ガラッ、という何かがレールに沿って引かれた音。直感で図書室の扉が開いたのだと気付き、僕はそっと目を開ける。
まるで頭が回っていない。何を考えるのかということではなく、まず何かを頭の中に思い浮かべられるか、という次元の話。
この瞬間に問題を出されたとしても、解けるかどうかですらない。何かが顔の前にあることだけをようやく認識できて、ただそれだけだ。今の僕にはそれが果たしてプラスかマイナスの記号が付いているのか、もしくは英語で書かれているのかを吟味する脳みそすらなく、ただ名前と出席番号をぼけっと眺めることくらいしかできないだろう。
そんな頭とぼやけた視界であっても、人間というのはとかく便利なもので何かが動いている様子くらいは何となく把握することができる。
人類という種が種族全体として狩りをしなくなって幾久しく。それでも動くものを見た瞬間にそちらに視線が誘導されるというのだから、僕の本能はまだ衰えていないということなのだろうか。狩りをするにはいささか緊張感を歴史の彼方に置き去りにしてきている気もするが、それはさておき。
曇りガラスから世界を見たような僕の視界の中に、ぼんやりと見えてきたのは――揺れる栗色の髪の毛だった。
恐らく女性のものであろう長さの髪の毛は、そのまますぐに廊下へと姿を消してしまい、それが一体誰のものなのか、そもそも誰だったのかということすらも僕に教えないままに立ち去ってしまう。
あの人が一体何をしにここにやって来ていたのか。それを僕が知るのは随分と先の事になるのだけれど。今の僕はただ誰かがいた、という事を何となく考えることと――
「……まずいな。もう時間だ」
いつの間にか眠ってしまっている間に時間が流れ、後少しで入学式が始まるという時間になっていたという事の二つ。目下重要なのはこの二つのみだ。
確か予め貰っていた資料によれば、まず最初に僕たち新入生は予め指定されたクラスへと集合することが決まっている。僕でいうとそれは一年三組らしく――そしてそれはここのすぐ上の階にあるらしい。らしい、というのはここに来た直後に校内地図で見ただけであり、別に下見も何もしていないからだ。
勿論これで教室の場所が違って間に合わなかったところで目くじらが立てられるわけでもないだろうし、極論正直に教室を間違えていたと言えばそれで済む話だろう。正直とは美徳だ、何故なら言い訳をする余地が無い以上、本心から本当の事を伝えれば済むのだから。
しかしその結果無駄に目立ってしまってもこれまた僕の期待するところではない。百歩どころか千歩、一万歩譲って僕が新学期一発目から目立ちたいと思っていたとしてもこの目立ち方はむしろ悪影響だろう。誰よりも有名になりたいからといって銀行強盗を犯して新聞の一面に載りたいと思う人がいないように。
即ち僕のしなければならないことはたった一つ。そう、始めから分かっていて、それでもずっと避けてきて、そして今立ち向かわなければならないこと。
ようやく纏まってきた思考と共に、軽く息を吐いて――ため息ほどではないが、それでも嫌な気分を払うように――前を向く。椅子の下に置いておいた鞄を手に取り、図書館の扉に手をかける。
次にここに来ることがあったなら、その時は違う本を読もう。益体も無いことを僕は考えながら、さりとて具体的に何を読むのかも決めないままに。
僕は、開いていた扉に手をかけて、扉を閉める。
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