僕はヴァイオリンを弾かない

リガル

序章 ヴァイオリンを弾く君

「ねえ、君は楽器を弾いたりしないの?」

 そんな質問を、君は僕に投げかけてきた。

 あれはいつだったろうか。確か僕たちが出会って間もない頃だったようにも思われるし、随分お互いの事を分かり合った時だったかもしれないし、ひょっとしたらつい昨日の事だったかもしれない。

 いや、たとえ一度もこんなやり取りをしたことが無くても、君はきっと僕にこう語りかけてくるに違いない。栗色の長い髪を風にはためかせ、左手にヴァイオリンを、右手に弦を持ちながら、あの屈託のない笑顔を僕に向けながら。そして、こう続けるのだ。

「一緒にやりましょうよ。きっと、楽しいわよ」

 だけど、僕はそれに頷いたりはしない。僕には音楽をやろうという意思なんてものは存在しないし、音楽を楽しむ心とやらも遠い昔にどこかに置き忘れてきたのだから。あるのはひねくれた考えと、ただ相手を否定する言葉だけだ。

 だから、僕は君の提案に対しゆっくりと首を横に振る。君がそのことで少しがっかりすると知っていてもだ。案の定君は肩を落とし、非難するような目を僕に向ける。それでも僕が何も言わないままでいると、君は呆れたような顔をして、僕の隣に座ってくる。

「チェロって楽器があるの。ヴァイオリンと同じような形をしているんだけど、とても大きいのよ。子どもだったら身長を追い越しちゃうくらい。それでね、そのチェロって楽器と、ヴァイオリンはペアで演奏をしたりするの。ヴァイオリンの高い音と、チェロの低い音が綺麗に混ざり合って、美しい音色を奏でるのよ。ね、どうかな」

 どうやら勧誘を止める気は毛頭ないようだ。チェロのことくらいなら僕も知っている。確か、一番下を床に付けて演奏しているのを見たことがあるような気がする。親に連れられてコンサートを見に行った時だ。そこで演奏されていたのは親が言うところの「高尚な芸術音楽」とやらで生憎僕というごく平凡な、豊かな心を持ち合わせていない人間には到底理解できる代物では無かったが、ただ、彼らが演奏している時の、その表情だけは何故か今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 人間の記憶という物は曖昧だ。一日前の出来事すら完璧に思い出すのは難しく、月日が経つ毎に確実に思えたものは不確実になっていく。書くたびに無くなっていく鉛筆の芯のように、大事なものばかり消えうせて、必要でない部分ばかりがのさばっていく。

 それでも、僕はあの日の彼らの表情が焼き付いて離れない。

 思えば、あれが初めてだったに違いない。何かただ一つの事に、自らの全てを捧げた人々がする表情を見たのは。僕が絶対に出来ない表情を見たのは。

 ああ、僕にはあんなに熱意を持って何かに打ち込むなんてことできやしない。できるはずもない。何故なら、それが僕という人間であり、僕という存在だから。

 それに、現実的に考えてあんな大きなものを家に置いておくことなど出来るはずもない。いや、物理的には十分可能だし、その気になれば家中チェロで埋め尽くすことだってできなくはないが、そういう問題では無い。僕の親が、絶対にそんなものを許すはずがない。見つかったら廃棄処分は確実だ。僕が心配するべきなのは、果たしてチェロが燃えるゴミなのか燃やせないゴミなのか、はたまたゴミ置き場に置いておくと回収されず「粗大ごみに持ち込んでください」という張り紙が貼られている類のようなものなのかを判断することであって、チェロを家に置くかどうかということではない。

「つまり、小さければいいわけね。ならやっぱり、ヴァイオリンがいいわ。私と同じだし。ヴァイオリン二重奏って、一体何があったかしら」

 いや、そういう話じゃない。別に小さい楽器がしたいとか、そういうことではないのだ。そもそもヴァイオリンだってそれなりの大きさがあるわけだし、チェロよりは隠し場所が増えるだろうがそんなもの殆ど無いに等しい。1が3になったところで結局辿る道のりは変わらないのだから。

 小さい楽器がどうしても欲しかったら、自分の財布を握りしめて近場の店にでも行き、ハーモニカの一つでも買って帰り道に「蛍の光」でも演奏するか、あるいはカスタネットを買って五時のメロディーに合わせてリズムを取っていた方がまだマシというものだ。ポケットに入れるだけで隠し場所は事足りる。いくら僕の親といえど子供の服をまさぐって何か隠しているものがあるかどうかなど確かめたりしないものなのだ。

 それに、ヴァイオリンは駄目だ。何よりも駄目だ。だってヴァイオリンは……

「ん? ヴァイオリンが、一体何?」

 君が顔を覗き込んでくる。僕は慌てて顔を逸らし、青い空に思いをはせることにした。だけど君はそんな僕の態度では納得しなかったのか、理由をしつこく訪ねてくる。

 その様子に僕は根負けし、仕方なく真実を明かす――といった事はない。僕は我慢強い方で、根気よく否定と無言を繰り返せば、相手が根負けすることを知っているからだ。世間一般ではこういった事をすると嫌われるのだろうが残念、僕はこういった事をする僕が嫌いじゃない。だから何度でもこの手口を使う。

 君も他の人と同じく根負けして、さっきよりも深く落ち込んでしまう。だけど、すぐに元気を取り戻して、僕に囁くのだ。

「……始めたくなったら、話してね。私、君と演奏するのを楽しみにしてるから」

 君の方を向くと、また屈託のない笑顔で僕に笑いかけてくる。

 ああ、その笑顔を見ると嫌でも痛感させられてしまう。思い知らされてしまう。気が付かされてしまう。

 僕は本当に、君のことが――

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