目を疑う耳を疑うとはいえ、それらを疑う自分の精神までは疑えない。昨日も今日も、そしてまだ見ぬ明日も自分は変わらないと鏡を見ている。だが鏡に「見られた」なら──これは、そういう話です。読み進めるうちにノスタルジックな気分になります。この“追憶する”という行いもまた「合わせ鏡」を見るようなものでしょう。その向こうで笑っているのが誰であれ何であれ、「見られて」はいけません。繰り返しになりますが、これは“そういう話”なのです。