私は物語の住人

サトウ・レン

私は物語の住人

「あっ、更新されてる。どうしよう……」


 そう独り言を口にしてみたのは、萌した不安を抑えたかったからかもしれない。誰もいない部屋で、返事をしてくれる者はいない。当然だ。だけどいまの私はその、当然、という言葉を信じ切れなくなっている。


 怖い……。


 私にとって救いだったはずのものが、恐怖へと変わってしまったのは、いつだっただろう。もうすくなくとも三ヶ月は経っている。


『私のいない場所で』

 と題された小説の、黒い言葉の羅列がパソコンの画面の先に並んでいる。


 この小説を知るきっかけは、一年近く前の明音あかねさんの言葉だ。明音さんは私が文具メーカーで事務のバイトをしていた頃の先輩で、その会社で長く働いているパートさんだった。実はちゃんと年齢を確認したことはないのだが、外見や話しぶり、話題の内容から三十代後半くらいだと思う。年齢の離れた大学生の私にも、とても優しく接してくれた。シングルマザーの彼女は、明るく聡明で、そしてすこし気が強くて、私の憧れだった。同じ女性として、目指すべき理想像ように思えたのだ。


「ねぇ、茉奈まなちゃん、〈ノベリス〉って知ってる?」

 明音さんがそう言った時、最初はなんのことかまったく分からなかった。

「なんですか、それ?」

「じゃあ、〈小説家になりたい〉は?」

「あぁ、それは知ってます。小説を読めるサイトですよね」

「うん。それと似たような感じの、小説投稿サイトだよ。最近の私の趣味。そこで自分のお気に入りの小説を探して読むんだ」


〈ノベリス〉という小説投稿サイトがある。特別、興味を惹かれたわけではなかった。もしもそれを言っていたのが、明音さん以外の別の誰かだったなら、〈ノベリス〉という言葉は右から左へと流れていたはずだ。


 その日、自宅に帰ると、私はノートパソコンを開いて、〈ノベリス〉を確認することにした。華やかなデザインのトップページには、企画の一覧や人気ランキングなどが載っていて、使い方も慣れないまま、ランキングの上位になっていた作品を読んでみたものの、私にはその良さが分からなかった。その時に読んだものは、ほとんどがファンタジーだったが、趣味嗜好の問題として、私には合わなかったのだ。


 もともと小説をよく読むような人間ではなかったので、まずこんなにもいっぱいの小説があることに驚いてしまった。それまでの私は、一年に一冊、読むか読まないかくらいだったからだ。


 人気の作品が自分に合わなかったからといって、自分の嗜好に合致するものがないわけではない、と気付いたのは、もうすこし経ってからだ。そもそも自分の趣味嗜好を、私自身が把握できていなかった、というのもある。明音さんとの話題のひとつになるかもしれない。もともとは、その程度の気持ちだった。だけど色々な作品を読むうちに、どういう作品が好きか、と読者の自分について分かってきて、そうすると徐々に、作品探しは楽しいものになった。


「ごめん。別れて欲しい」


 彼氏に振られたのは、そんな新たな趣味を見つけた頃だった。ひとつの楽しみが増えれば、ひとつの楽しみが減る。別に彼との関係が破綻してしまったことに、〈ノベリス〉は何も関係ないが、まったく同じタイミングで起こったことに、そんな奇妙な符合のようなものを感じていた。


 絶対に、嫌だ。


 そうやって大泣きしたのを覚えている。頭がパニックになって、掴みかかったり、大声で罵ったりもした。私は周囲から自己主張の弱いところを欠点として指摘される人間で、いつかこんな日が来たとしても、すんなりと受け入れるだろう、と思っていた。実際、彼よりも前に付き合ったふたりの男性とは、こんなに関係が拗れたりはしなかった。


 やはり彼は特別だったのだ。


 人間関係の構築が不得手な私をつねにリードしてくれて、付き合っていた頃は穏やかな笑みを絶やさなかった。いまも私は彼の面影を追っている。そんな彼と別れて、何もかもが億劫になり、本来ならもうはじめていなければいけない就職活動も手に付かないままだ。アルバイトでもミスを繰り返していた。


「茉奈ちゃん、ちょっといい?」

 と、明音さんが声を掛けてきた時、その表情は険しかった。


「はい、どうしました?」

「どうしました……じゃないよ、ここ数字、一桁間違ってるよ」

「あっ」

「最近、こういうミス多いよ。大丈夫?」

「すみません……」

「茉奈ちゃんがこれまでしっかりとやってきたのは知ってるし、怒ってるわけじゃないんだ。心配してるだけ。何かあったの?」

「実は――」


 明音さんの優しい声音に、私は思わず泣いてしまった。そして彼氏と別れてしまったこと、それで他のことが手に付かなくなってしまった、と私が話すと、彼女は親身になって相談に乗ってくれた。勢いに任せて、もう限界でこの仕事もやめようかなと思っているんです、とまで言ってしまったが、明音さんは私を非難しなかった。


 そして泣いている私を抱きしめてくれた。


 本当に良い人だと思っていた。

 思っていたのに……。


 他人なんてそう簡単に信じちゃいけないんだ。


「上野さん」

 と後日、帰ろうとする私を呼び止めたのは、お店の責任者にあたるひとだった。


「はい」

「あぁ、いや……なんていうかね」と、はっきりとものを言う性格の店長だが、その時の歯切れは悪かった。「ちょっと小耳に挟んだんだけど、正直に聞くね。店、辞めようと思っている、って?」


 それを聞いた瞬間、頭が真っ白になった。


 店長がその後、私を引き止めるような言葉を並べていたが、ほとんどその内容は聞いていなかった。そんなことよりも重要なのは、誰が店長に言ったか、だ。考えるまでもない。だって私が言ったのは、たったひとりだけ。


 明音さんは、彼氏に振られたことまで店長に言ったのだろうか。きっと言ったに決まっている。ふたりで話しながら、馬鹿にして笑ってたんだ。大嫌い。みんな本当に嫌いだ。


 明音さんを問い詰めたりはしなかった。


 そんなことをしたところで、どうせ嘘をつくに決まっているんだから。別れた彼と同じだ。好意の色が強ければ強いほど、憎しみの度合いもさらに濃くなっていく。あんなひとともう話したくない。私は明音さんをほとんど無視するようになった。白々しく不思議そうな表情を浮かべていて、それがまた腹立たしかった。


 そして私はアルバイトを辞め、大学にも足が遠のくようになり、ひとり暮らしの自宅にこもる時期が続いた。こういう時、実家が恋しくなるが、帰れば理由を話さないといけなくなるので、それもできなかった。


 その時に出会ったのが、


『私のいない場所で』


 だった。


 ちょうどいまから半年くらい前に、〈ノベリス〉で連載のはじまった恋愛小説だ。ランキングに載るような人気の作品というわけではない。現実を舞台にした地味な恋愛小説で、異世界を舞台にしたファンタジーやラブコメが隆盛を誇っている〈ノベリス〉では、かなりマイナーに位置する作品だった。だけど、こういう身近な現実の息吹が感じられる作品のほうが、私の好みに合ったのだ。


 そして『私のいない場所で』は特別だった。

 物語が鏡となり、私自身を映し出すような共感を抱いたのだ。


 主人公である恋に不慣れな大学生の女の子が、ひとりの同い年の男性と出会い、恋に落ち、そして人生最大の失恋をする。ありふれた恋愛小説と言えば、そうなのかもしれない。だけど主人公の性格や行動が私にどこか似ているのだ。私は自身を主人公の女の子に重ね、気付けば祈るような想いで応援していた。あらすじでは再生していく主人公が仄めかされているが、まだ連載は途中で、今後どうなるのかは分からない。


 物語の力は強い。


 彼女も頑張っているのだから、私も、と。はっきりそう意識したわけではないが、すこしずつ、また学校へと通い出すようにもなったのは間違いなく、この作品がきっかけだ。ただ講義に出て、教授の声に耳を傾けるだけの、他のひとからすれば大した一歩ではないのかもしれないが、私にとってはあまりにも大きな一歩だった。


『私のいない場所で』は、私の救いだったのだ。

 途中までは。

 だけど私はこの物語に、違和感を覚えてしまった。


 似ている? いや、違う。あまりにも似過ぎている。これは私自身だ。最初は馬鹿な考えだ、と首を横に振ろうとしたが、駄目だった。違う、と思えば思うほど、この物語の中にいる私の存在に気付いていく。


 例えば主人公の女の子はアルバイトをしていて、そのバイト先にはなんでも相談できる女性の先輩がいる。小説投稿サイトで恋愛小説を読むのが趣味、というのも私と同じだ。外見の描写も、私は黒の長い髪に眼鏡を掛けている。自己出張が弱い、と指摘される場面なんて、まさに私そのものだ。


 更新されるたびに、私と、物語の先にいる語り手の〈私〉が同化していく感覚は強まっていく。

 怖くなった。


 きっとこのひと、私の知り合いだ……。


 私のことをモデルにして、笑っているんだ。


 恐怖と、そして強烈な怒りを覚えた。明音さんの件があった時と似た感情だ。私は、みんなから馬鹿にされている。


『私のいない場所で』の作者は、SNSを運用している。【オータム】というアカウント名だ。私も以前からフォローしていて、秋にSNSの運用を開始したから、この名前にした、というつぶやきを見たことがある。


 あまりプライベートのつぶやきはしないひとだが、オータムさんは自分が女性だと明かしている。逆に言えば、私にはそのくらいしか情報がない。


 内々のやり取りがしたい、と私は彼女にダイレクトメッセージを送ることにした。普段はめったに使わない機能で、送信ボタンを押す時には緊張で指が震えた。これがファンとしての応援メッセージなら良かったのだが、そんな感情はひとつもない殺伐としたものだった。


 くどい文章で、読んでもらえなかったら、本末転倒だ。単刀直入に伝えることにした。


【はじめまして。『私のいない場所で』いつも読ませていただいています。上野茉奈です。知ってますよね。この名前。あなたは誰ですか? 私の知り合いか、もしくはストーカーだと分かっています。私を物語のモデルにして楽しいですか? なんでこんなひどいことするんですか? こんな陰湿な、嫌がらせみたいなことはやめて、いますぐ作品を削除してください】


 送って、一時間くらいした後、反応があった。

 私のアカウントを、ブロックする、という形で。


 謝れば、許してやったのに。最低な人間だ。こんな反応、黒に決まっている。絶対に許さない。


 しかもこんな最悪なタイミングで、スマホに別のメッセージが届いた。怒りがさらに増した。誰だよ、と思わず舌打ちが出た。別れた彼からだ。最近、よく送られてくる。内容は馬鹿のひとつ覚えみたいに、一緒だ。


【ストーカーみたいな嫌がらせはやめろ】


 こっちが本当のストーカーみたいなやつに苦しんでいるのに、なんで彼はこんな冗談みたいなことが書けるのだろう。最低。ちょっと何度か会いに行ったくらいで、こんな騒ぎ方するなんて。別れて良かったのかもしれない。


 彼のメッセージは無視することにした。私が誠実に返信したって、どうせ、まともに受け取ってくれないんだから。

 それより、私のいま一番重要な問題はこっちだ。


 こいつは、誰だ。


 いや、……あぁ、そうか。いるじゃない。というか、なんで気付かなかったんだろう。そもそも私に〈ノベリス〉を教えてくれたのは、あのひとだ。〈ノベリス〉で小説を読むのが趣味なんて言っていたが、隠していただけで、小説を書いていたって不思議じゃない。逆にあのひと以外、考えられない。こんなに符合が合うのに、偶然なんて、そんなこと絶対にありえない。


 私はよく悩みを彼女に相談していた。私のことを、これくらい事細かく知っていてもおかしくない。


 そりゃ、私だってやめる直前、わざとミスしたりとか、ほんのちょっと困らせることはしたけれど、こんな仕返しは卑怯だ。


 アカウントを外した状態で、【オータム】……いや、明音さんのアカウントを確認すると、私の本名が隠された状態で、私の先ほど送ったダイレクトメッセージの画像が晒されている。


【さっき、変なDМが届いた。これなんだけど。本当困る、こういうの。私が登場人物にするのは、どこにでもいる、ありふれた人生だけで、現実の誰かを直接的にモデルにしたことはありません。まぁ部分的にくらいならあるけど、すくなくともこの名前のかたを、私は知りません】


 嘘ばっかり。嘘は、小説だけにしてよ。明音さん……。

 それにこれ以上、もう幻滅させないで……。

 信じてたのに……。


 相手が分かれば、もう面倒くさい方法は必要ない。彼女の自宅の住所は知っている。こんなこともあるかもしれないと思って、やめる時に、こっそり従業員の連絡先一覧はコピーしておいたから。


 必ず、絶対的な証拠を掴んでやる。


 こっそり調べるため、私は彼女の居る場所へと向かうことにした。

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