俺の幼馴染に、なにやら猫の尻尾が生えているらしいのですが。
ぺろりの。
モフモフと幼馴染
――おはようございます。
本日は2255年7月6日、天気は、晴れのち曇り。
気温は23度、湿度は42%です。
降水確率···46%···にわか雨に、ご注意ください。
念の為に、折り畳み傘のご準備を致しますか? ――
右耳のピアスに埋め込んだAI-アドニス-から聞こえる、機械とは思えない程、
「要らない···セット・ワン」
俺の指示を受けたアドニスから、青い光が零れ始め、俺と寝室全体を包む。緑のカーテンが気に入っている、爽やかな寝室の景色は、瞬く間に、洋風なリビングへとモードチェンジした。
それと共に長年、部屋着に愛用している、灰色の安物トレーナーが、俺が通っている第一
茶色のブレザーは、しわひとつ無く、俺は左袖を撫で、手触りを確認する。
――うん、大丈夫そうだ。今回も
食卓へ着くと、ご丁寧に朝食セットが出来上がっている。
今日のメニューは、旧式ベーグルとベーコンエッグ。
作り立てのそれらは、ほかほかと湯気を出し、ベーコンの焼ける香ばしい匂いが、俺の食欲を
ここ2、3日は新式の食事ばかりだったから、嬉しいな。
――あの四角いキューブよりは、100年前の食事の方が食べている感覚がある気がする。
初めて旧式の料理を食べた時の事は、よく覚えている。
俺は母の手料理を、食べたことがない。
と言うよりも、母は幼い時に心臓病で亡くなり、正確には手料理どころか、顔すらも覚えていない。
ただ写真に残っている母は、笑顔が可愛い人綺麗な女性だった。
碧い瞳でさえ目立つのに、金髪だと更に悪目立ちするので、今は黒髪に染めている。
AI-アドニス-の容姿テクスチャで隠すより、直に染めた方が安心だったので、その方法で染め続けている。
···髪の根本が金色になってきたし、また追加で染めないとな···。
親父は、と言うと俺が高校へ入学する前に、仕事の都合とやらで、突然パリへと海外赴任になった。
頑なに、仕事の詳細を明かさない親父にイラつき、当時は何度も喧嘩した。
最近は特に忙しいのか、連絡すら取れないが、あの親父の事だから、おそらく元気にしてるのだろう。
いつもは何だかんだと文句を言いつつも、晩飯は必ず、親父と一緒にとることが多かった。
親父がパリへと旅立った日、1人で食べる晩飯は、いうもより味気なく、と言うよりかは、食べていてつまらなかった。
誰かと食べる飯程、美味しいものは無いのかもしれない、と気付いたのは、その時だ。
そんな中、初めてまじまじと旧式のビーフシチューを見た。
何故だか、写真で見た母の顔が浮かび、まるで母が作ってくれたかのように感じ、泣きながらビーフシチューを頬張った。
あのビーフシチューの味が、未だに忘れられない。
そう言えば、新式のみを食べる人が最近増えたと、ニュースキャスターが言っていたな。
アドニスのメニューでは、日々の献立を細かく設定できる。
当然、旧式を毎日選び続ける事も出来るのだが、なんだか毎日食べるのは勿体なく感じ、今はランダムに設定している。
やはり、旧式を引き当てた日は、何となく気分が良い。
毎日の運勢占いとやらは、こんな感じだったのかもしれない···――と言っても、今ではもう、占い自体が廃れてしまい、占い師が居なくなった為に、滅多に見かけなくなったが···。
リビングのテレビ横にある時計に、ちらりと目を向けると、時刻は7:30を過ぎようとしている。
···もうこんな時間か···朝は苦手だ。
もたもたしていると、すぐに時間が過ぎてしまう。
慌ててベーグルの一口目を、口いっぱいに頬張り、味わっている時だった。
軽快な着信音と共に、視界上に【-着信中-
いつも通りの幼なじみからの着信に、応答した。
「――···むぐっ···みく。おはよ」
「···いおちゃん···っ うっ···く···」
「···え? みく、どうした?」
「······ぐす···っ」
「おまえ···もしかして、泣いてる···?」
明らかに、いつもの様子とは違う声色。
しおらしい幼なじみの様子に、戸惑いを隠せない。
「···が、···たの···」
「え? 何だ? ···何て言った?」
「私の腰に、猫の尻尾が···っ! 生えた、の···」
「···はぁ?」
コイツ、何言ってんだ?
いや、俺が寝ぼけてるのかもしれない。
「なんだ? 寝不足か? 昨日寝れなかったのか? 人間に、尻尾なんて生えるわけ···」
刹那、みくの顔が視界上に浮き出る。
俺は思わず「うわっ」と、変な声を上げてしまった。
「みく、イメージモードを起動する時は、一言かけろって···なんども――?!」
寝起きなのだろうか、いつもは整えられた筈の彼女の栗色の髪には、くるりと寝癖がついている。
耳たぶまでリンゴのように真っ赤になった、みくの顔の後が映った直後。
映像画面が切り替わり、今度はみくの顔ではなく、腰元が映し出され、その次は彼女の背中が映った。体勢からして、どうやら彼女は、ベットにうつ伏せになっているようだ。
背中部分のパーカーがはだけ、もこもことした白のショートパンツの腰の辺りから、白と水色の縞々パンツが、ちらりと見えている。
だがそれ以上に、目を疑う物が、そこにはあった。
――なんだ、これ···? 本当に、猫の尻尾なのか···?
みくの腰元からは、もふもふとした白い尻尾が生えおり、それはまるで、己の意思を持ったかのように、ゆらゆらと動いている。
俺の親友、
「! な、な···なんだそれ、なんで、そんなもんが?! ···つか、みく、お前···パンツ見えてるぞ···!」
「~~~っ!?」
彼女は、声に鳴らない悲鳴を上げ、慌てた様子で、ぷつりと映像が途切れると共に、視界上に【No image】と表示され、音声モードに切り替わったのだと分かった。
しばらくすると、視界上の文字表記は消え、先程まで見ていた、リビングの景色が戻ってくる。
「···いおちゃん···どうしよう···」
情けないようにも聞こえる、弱々しい声を出す幼なじみに、俺は頭を少し抱えた。
「みく、迎えに行くから、待っててくれ」
すっかり冷めてしまった、食べかけの朝食を残し、俺は急ぎ足で、自宅であるマンションを後にした。
* * *
5軒先の角地に建っている、みくの家に来た。
門扉を開け、玄関の扉へと辿られた、赤レンガの道を歩く。
ガーデニング好きの、みくのおばさんの趣味で飾られた、色鮮やかな庭を横目に、玄関の横に設置されたインターホンを押し、彼女の応答を待つ。
――すぐ出ないということは、おばさん達は仕事行ったんだろうな。
ちらりと足元を見ると、幼稚園の時にみくと一緒に植えた、紫色のアサガオが目に入った。
朝からたっぷりと水分が与えられたのだろう、まだ花びらには、水やり後のしずくが残り、それ等は太陽の光を一身に浴び、キラキラと笑っている。
幼稚園時代の、おぼろげな記憶を、ぼんやりと思い浮かべている時、赤い屋根の一軒家――みくの家の2階部分から、バタバタと階段を駆け下りる音がする。
ガチャリと玄関扉が開くと、うるうると瞳を潤ませたみくが、顔を覗かせた。
まだ支度が整っていない、と言わんばかりに、制服ではなく、手触りのよさそうな、もこもことした白のパーカーを着ている。
「おっす···」
「うん···」
何となく、彼女と視線を合わせるのが気恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまった。チラリと彼女を見ると、彼女も恥しそうに、ぎこちなく小さく手招きしている。
玄関の中に入り、見慣れた造りの廊下の先にある、階段を彼女の少し後ろから上がる。
彼女の腰周りからは、それらしき尻尾は見当たらない。
みくは、階段を上がりきった先の右角にある、彼女の自室の扉を開き、俺を再び招いた。
日当たりの良い、幼なじみの部屋は、昔の面影を残しつつも、前とは違った、ふわりと甘い彼女の匂いが、俺の鼻をくすぐる。
きれいに整理整頓され、女の子特有の可愛らしい小物に囲まれた部屋に入るのは、何故だか、より一層、恥ずかしく、一気に緊張感が増した。
部屋の中心にある、白い円形のラグの上に、なぜか正座で座る彼女。
ゴクリ、と唾を飲み込み、俺も意を決し、彼女の部屋へと、足を踏み入れる。
「···お、おじゃましまーす」
「ど、どうぞ〜」
緊張のあまり、敬語になってしまった俺に、同じくカチコチと音がなりそうな程、固まったみくの返事が返ってきた。
俺は彼女につられて、彼女の近くで、同じように正座で座った。
「これ···」
白いパーカーの中から覗かせる、ふわふわとした尻尾。
「まじか···これテクスチャとかじゃないんだよな···? ···触っていい?」
「···うん···」
恐る恐る尻尾に触れると、みくは「ひゃ···っ」と小さな悲鳴をあげ、身をたじろいだ。
白い尻尾は、見た目通り手触りが良く、俺の手から逃れようと、必死に動いている。
「すっげ! まじで尻尾だな!」
「~~っ!? そんな強く、握らないで···っ」
「ごめんごめん」
驚きのあまり、無意識に握っていた事に気づき、俺は手を放した。指の間からするりと、尻尾が逃げていく。
「あの···どこか体調悪かったりしないのか? ···大丈夫かよ」
「それは、大丈夫···。不思議なくらい普通なの···。朝起きたら、腰の辺りがもふもふってして···鏡みたら、もう尻尾が···。とってもびっくりしたの···」
「···そりゃあ、びっくりするだろうな」
朝起きて、尻尾が生えていたら、俺だったら、もう一度寝るな。
そして、起きて夢じゃなかったと絶望するだろう。
「何か変な物でも食べた?」
「んーん。そんな変な物、食べた記憶ないよ···」
「うーん···」
暫く頭を抱え、どうしたものかと、うなっている俺の前で、彼女は白い尻尾を、己の右太ももに巻きつけ、ベットにあった手触りの良さそうなクッションを、抱えていた。
ベッドの枕元にある、テディベアの形をした置時計の時刻は、もう8時を回ろうとしている。
「···学校休むか?」
「やだ! 生徒会長になりたいもん。休みたくないよ···」
「そうか、確か、皆勤賞近い生徒が推薦されるんだっけ」
「うん。でも···どうしよう。今日プールあるのに···」
「あー···今日プール開きの日か···」
ぽりぽりと人差し指で、眉間をかきながら、女子の水着を連想した。
学校指定である、脇腹部分に白い縦ラインが入った、紺のスクール水着には、とても尻尾を隠せる隙間は無いだろう。
つい彼女の姿を、想像してしまう。
当然彼女が、恥ずかしそうにたじろいでいる姿は
我が幼なじみながら、全然アリだ。
――いやむしろ、大アリだ。
まぁ、猫耳は完全に俺の脳内オプションだが。
「···いおちゃんのえっち」
俺の良からぬ妄想が、バレたのだろうか。
目前の彼女は、ぷくーっと頬を膨らませ、不機嫌そうにしている。
「···コホン···。
わざとらしく咳払いをした俺だが、なにも、闇雲に提案したわけじゃない。
誰だったか···。開発者の名前はJなんとかバーターソン?
···思い出せないが、ここ何十年かの、グランドクロス社のテクスチャ技術により、衣服だけでなく、室内や家具まで自由に、自分でデザインできるようになった。
俺の親父世代は、まだ衣服のテクスチャが浸透してないらしく、未だに昔の服を好む人が多いと聞く。
だが、俺たちの世代では、テクスチャが当たり前だ。
今では、制服までテクスチャを適応し、学校公認になっている。
可愛くない制服でさえ、自由にカスタムし、アレンジ出来るので、女子達が『可愛い制服が着れる!』と喜んでいた。
テクスチャの実装当初は、装置の不具合で、上手く反映されなかったり、酷い時は肌が透けたらしいが、今では安定し、不具合も起きない為、学校公認になったらしい。
ブランドやジャンル事に、振り分けられたテクスチャのデザインは、色形が数えきれない程ある。自分で好きなように組み合わせることが可能で、しかも直ぐその場で、適応される為、かなり便利だ。
もちろん、新規のテクスチャを購入するのには、多少お金はかかるけれど。
お洒落に疎い俺でも、カスタムしているくらいだ。
今後、皆が昔の服を外で着ることはないだろう――。
目前の彼女は、見ているこちらが
「テクスチャは、もう試した···。でも、どんなテクスチャでも···尻尾の根元までしか隠れないの···」
「まじか···。もふもふだからか?」
「! ひゃっ···急に触らないでっ」
白い尻尾が、またするりと俺の右手から離れ、バタンと地面に打ち付けると共に、彼女の顔から、湯気が出そうなほど真っ赤に染まっていく。
こんな彼女の顔を見るのは、久しぶりだ。
最後に見たのは、思い出せる範囲では、中学2年だろうか、今から3年前か···。
その年も、同じクラスだった俺達は、明らかに周りと比べ仲が良かった。
···そりゃ。自分でも、仲が良いとは思っていたが···。
幼なじみだし、それくらいは普通だと思っていた。
今思えば、堂々としていたからか、周りから面と向かって、冷やかされることも無かった。
――忘れもしない、中学2年のバレンタインの日までは。
みくは
今の時代、手作りなんてする必要はなくなり、ほとんどの人が、料理など作らなくなった中で、わざわざ「食材を取り寄せ、毎年張り切って作るのよ」と、みくのおばちゃんが、こっそり俺に教えてくれた。
俺はこれからも、彼女が作ってくれたチョコレートを受け取るのだと···。半ば、儀式のような
このままずっと続いていくと信じて、疑わなかった。
――でも、違った。
俺が知っている、みくの姿――恥ずかしがり屋で、泣き虫な甘えん坊だった、幼なじみは、徐々に、見慣れない、冷たく凛とした雰囲気を纏うようになり、まるで別人かのように、お淑やかで清楚な、気品ある生徒会長に憧れる女の子になっていった。
だから思わず、考えてしまう。
――そんな風に恥ずかしがられると、昔に戻ったのではないか、と。
「みく。生徒会長に、なるんだろ?」
俺は立ち上がり、意気消沈した彼女へ、右手を差し出す。
彼女は、俺の手を取り、ふらりと立ち上がった。
「···うん···。なりたい」
「じゃあ、行くしかないだろ!」
「セット・ワン」と彼女が呟くと、彼女の右耳に着いていたアドニスが反応し、青い光が瞬く間に彼女を包み、第一明鏡高校の制服に切り替わった。
俺は視界上で、あるカスタマイズ品を選択し、彼女にその場でプレゼントを送信する。
我ながら、成績が良いとは言えない俺は、彼女が大切だと思っているであろう、生徒会の事などは全く分からない。
だが今まで頑張ってきたみくが、後悔する姿は見たくない。
例え、俺が贈ったプレゼントを、受け取ったと思われる目前の彼女が、涙目になり、今にも火山が噴火しそうなほど、ふるふると怒りに震えていたとしても。
「〜〜っ!! いおちゃん···最低っ!!」
* * *
先ほど、
ようやく怒りが静まったらしい彼女を隣に連れ、俺たちは何とか予鈴がなる前に、教室に辿り着いた。
2-A組と書かれた教室の扉を開くと共に、クラスメイト達からの視線が、一斉に俺達へと集中した。
つい先程まで、教室の扉を抜け、廊下へと漏れ出る程に賑やかだった教室内が、俺達を見るなり一瞬で静まり返った。
――分かってはいたが、見ず知らずの人に、後ろ指を刺されるより、はるかにクラスメイトから送られる、冷ややかな眼差しの方が、何万倍もキツい。
ひそひそと話をしている奴らを一睨みし、居心地の悪さを感じながらも、俺たちは堂々と席へ向かった。
「おっす」
「いおりん、なにそれ!」
俺の隣の席で突っ伏していた俺の友人、
「いおり〜ん···。そういう性癖ィ? あーナルホド、ハイハイ···」
「うっせ! これが最新のトレンドなんです~。ほら見ろ! こっちもあるんだぜ!」
「···これを制服でカスタムして登校しちゃうあたり、お前マジでイカついわ···よっ! 黒歴史決定! おめでと〜」
ひらひらと片手を振り、完全に茶化された。
――アイツが笑うのも無理はない。
何せ俺の頭には、黒い猫耳がしっかりと生えている。
腰に生えた黒い尻尾は、ゆらゆらと揺れ動き、本物と
「みくち、ちーっす···ってあれ···君らお揃いな感じ? かーわいい~」
「颯太くん、おはよう。貴方の声を聞くだけで、酷い頭痛と、目眩と、吐き気がするわ···。もう一生、私に喋りかけないでもらえるかしら」
「ほわ〜。いつもながら、みくちゃんの塩対応、頂きましたわ! あざっす!」
俺の隣に居たみくは、へらへらと笑う颯太を見るなり、こめかみを抑えた。
そして大きく溜息をついた後、いつも通りゴミを見るような目つきで、颯太を見下ろし、足早に窓際の席へと移動していった。
彼女の後ろ姿には、ブレザーの隙間、俺と同じく腰の辺りから出ている白い尻尾が、バタバタと激しく揺れ動いている。
···あれって本人の意思とか、何かしらの感情が出てたりするのか?
そんな呑気な事を考えつつ、俺も席へ座った。
ふと黄色い声が、みくの方向から聞こえる。
「――なに、何!?
「カップルではないのだけれど···いえ、お揃いという意味では、違わないわね···。ただ、これには複雑な訳があって···」
俺の席とは、反対側に位置する窓辺に居る彼女の様子を見る限り、今度は彼女の友人である
涼村さんは、すっかり興奮した様子で、自分が教室の隅まではっきりと聞き取れる程、大声が出ていると気付いていないらしい。
「えぇー!? まさか、みく···伊織くんと···?」
「いえ、それは違うわ。
「あ、ごめん···」
余裕が無いのだろうか、友人へ向けて冷たく言い放った彼女へ向け、俺の後方から「うざ。頭が痛いのは、朝からそんなもん見せられてる、私らだっての」と罵倒する声が、はっきり聞こえた。
その声は、当の本人へも届いた様子で
彼女の肩はぴくり、と小さく震えた。
だが彼女は前を向き、決して俯く事はなく予鈴が鳴り終わってからも堂々としていた。
* * *
「はーい、皆おはよ〜ふわぁ···。出席とりまぁす」
気だるそうに教室の扉をあけ、入ってきた新任教師。
明らかな寝癖に、傷んだ金髪。なぜこの高校に異動できたかも謎な、とても高校教師とは思えない2年A組の担任教師。
今年に入ってから、第一明鏡高校に異動してきた
明らかに寝不足な担任教師は、うつらうつらと船を漕ぎながら、出席を取っていく。
「田中ー」
「はーい」
「長瀬〜」
「はい」
「初雪···あれ? ···おかしいな···」
とろんとした佐倉の瞳が、突如見開き、みくを凝視した後に、教卓に居たはずの佐倉が、即座に彼女の席にかけより、彼女の席に両手をつき、その場で声を荒らげた。
「俺の目の前に天使が居る!!」
酷く興奮した、異常なまでの担任教師の姿を前に
クラスメイト達がざわめき始める。
「みーくっ! 何それ!? かわいいじゃん!」
「···っ」
酷く不愉快なその光景に、俺はくらりと目眩がした。
彼女は少し眉をひそめ、一瞬酷く冷たい視線を佐倉先生へ向けたが、次の瞬間には笑顔になった。
「···佐倉先生?
「···あ、あはは。ただの冗談だよ、初雪さん」
興奮した様子の佐倉先生が、みくの言葉を聞くなり目を泳がせた後、すっかり覇気を失い、
そんな先生の姿は、ヒソヒソと交わされる噂話を盛り上げるスパイスにしかならず、出席確認が再開した事など関係なく、やがて噂話は教室内を包んだ。
「やっぱり、あの噂。本当なんだ」
「あの、佐倉が初雪さんをストーカーしてたってやつ?」
「え、なにそれ、気持ち悪」
「てかさぁ、平気な顔してぇ、普通に佐倉と会話してる初雪さんも、凄くなーい? あーしだったら絶対ムリ〜」
「それな〜! なんか、男に媚び売る感じの慣れてるんじゃないの?」
「あはは。そんな事言ったら、初雪さんが可哀想だよぉ〜」
「てかストーカーが本当なら、なんで佐倉、他校に飛ばされないの?」
「なんかぁ〜、初雪さんが警察届け出すの、やめたらしいよ〜」
「え、意味わかんないじゃん。2人が付き合ってたとか?」
「あの猫耳も、松山くんの趣味じゃなくて、佐倉の趣味だったりして! なんかめちゃ喜んでたしさぁ」
「うわ、キツいって」
後方で話している、ギャル4人組の会話は、最早内緒話とは程遠く、わざとらしく大声で話しているように感じたが、俺の感覚は間違って居ないはずだ。
今までだって、みくにヘイトが向くことは多々あった。
容姿端麗な上に、真面目で頭脳明晰な彼女へ向けた、一部の女子達の明らかな僻みは、少なからず昔からあった。
まるで獲物の弱点を見つけた、と言わんばかりな獣の様に、彼女達がみくのプライドを傷つけようとしている事は、明白だった。
湧き上がる、ふつふつとした怒りに任せ、彼女達へ向け、立ち上がろうとした矢先――颯太に強く左腕を捕まれ、強引に座らされた。
「···なんだよ···」
「やめとけ」
「···邪魔すんなよ」
「お前、少しは冷静になれ。ただの噂話だろ? それとも、みくちゃんから、
「···聞いてねぇ」
「じゃあ尚更、今お前が出たらどうなるか、分かるだろ?」
「······。···颯太、サンキュ」
何時になく真剣な面持ちをした颯太に止められ、我に帰った。
颯太が止めてくれなかったら、今頃もっと、みくへ向けて、彼女達から不満の声が出ていたに違いない。
息が詰まる程苦しいが、今はひたすらに怒りを堪えるしかなかった――。
窓際に座る、彼女の小さな横顔は、後ろを振り向く事無く、 只々前を向いていた。
* * *
4人組の
結局佐倉先生は注意する事、否。注意する素振りすらも、一度も見せず、そのまま朝礼が終わり、午前の授業が始まった。
みくの様子を心配したが、特に変わった様子はなく、10分休憩の合間に、みくに話を聞こうと何かと近づくも避けられ、気付けば昼休みになった。
今度こそは、逃げられないように。
チャイムが鳴ると同時に、彼女に近寄り教室から連れ出した。
みくを連れ出す時に、また随分と周りが騒がしかったが、気にならなかった。
彼女を連れ廊下を抜けた先に、旧校舎へと繋がる人通りの無い渡り廊下がある。
そこまでたどり着くと、今まで沈黙を保っていた彼女が、口を開いた。
「···いおちゃん、うで、痛い」
「あ、悪い」
無意識に、力が入りすぎたのだろう。
謝罪と共に、手を放す。
彼女は、右手首を撫でながら俯いていた。
「みく、佐倉と···」
「付き合うわけないじゃない。大体教師と生徒よ? ――あのバカ4人組の言うことなら、全部違うわ。ストーカーも、されてない···」
ふと右手首を丁寧に撫でていた彼女の手が、止まった。
「いえ、正確には···未遂で終わったの」
「未遂···? ストーカー未遂って事か? ···あの野郎···っ! みく! なんでそんな大事なこと、俺に言って」
「言うわけないじゃない···っ!」
彼女からしからぬ予想外の大声が、俺の耳を貫く。
俺と彼女の距離が、少しでも縮まったと思ったのは一方的な俺の勘違い、否。勘違いと呼ぶ事すらおこがましい、欲望だったのかもしれない。
「···は、···そうか」
俯いたまま動かない彼女の元を離れ、俺は屋上へと向かった。
去り際に見た、彼女の白い尻尾はだらりと項垂れ
心做しか悲しそうに見えたが、それすら俺の心の中の願望なのだろう。
――松山伊織が去った、旧校舎へと続く渡り廊下の真ん中には、白い猫の耳を持つ少女。
「···言える、わけ···ないじゃない···」
消え入りそうな声でぽつりと呟き、小さな肩を震わせると、彼女は人知れずひっそりと泣いた。
* * *
階段を一気に駆け上った後。
――この扉が開かない事は、馬鹿な俺だって知っている。
だがここが一番、人が来る確率が少ない事も知っていた。
見上げていた天井の
上を見上げれば、涙が落ちてこないと至極原始的な考えを抱きながら、必死に
瞳からぼたぼたと、溢れた涙は、もはや止める手段が無く、流れ続けている。
――なんで、気づかなかったんだ。
これまで毎日話して、沢山数え切れないほど、時間を共有して。
彼女の事を分かった気になって···アイツが一番頼ってるのは、俺なんだって···。
その心地よい独りよがりな優越感に浸っていた時期ですらあった。
――否。その思いは、今もそうだ。俺は何をやっている?
あのクソ野郎とやってる事が何も違わないじゃないか。何やってんだ、俺は···。
何をしたら、あいつはまた頼ってくれる?
何をしたら、俺はみくを···。
太陽が一番高く昇り、容赦なくジリジリと塔屋を照り付ける日差しの中、昼休みの終わりを告げる予鈴が聞こえた。
5限目の授業は、確か体育か――。
俺はよろりと立ち上がり、プールがある体育館横へ向けて歩き出した。
* * *
「酷い顔ですよ? 松くん」
プカプカとプールに浮いている俺へ向け、頭上付近から声がしたが、太陽の光がプールの水へと反射し、顔がよく見えない。
俺の事を『松くん』と呼ぶのはクラスメイトの
太陽が一瞬陰り、顔を隠した時、白い麦わら帽子を被った田村の顔がはっきりと俺の目に映った。
彼女は、三つ編みを揺らし、俺の顔を覗き込んだ。
普段のメガネをかけている時のように、くいっと持ち上げる仕草をした後、俺の頭の真横にしゃがんだ。
「それに。松くん、猫耳似合ってないです。世界の猫さん達、全員に謝ってください」
「うっせ。田村も、あの丸メガネ無いと違和感しかないな」
「メガネは私の本体じゃありませんので。松くんのそういう発言が、初雪さんに嫌われるのでは無いですか?」
「···今回は、まじで嫌われたかもしれないな」
ぼそっと呟いた俺の本音は、男子共の湧き上がった歓声で見事にかき消された。プールサイドを歩く山本と
「俺、猫耳いけるわ」
「いやー、あのテクスチャの完成度はやべえよな。俺も彼女に着てもらおうかな」
「く〜! 彼女持ちはいいよなぁ。つかやっぱうちの学校のスク水エロいっしょ! スク水に猫耳と尻尾···! たまんねぇ〜っ!」
紛れもなく、みくの事を話している山本は見るからにデレデレしている。
自分の額に青筋が、浮き出ているのが分かる。
山本に向け、言い及ぼそうとした刹那。
――柔らかくあたたかい感触が、俺の唇を通して伝わった。
「あ?」
パチリと、0距離で田村と目が合った。
白い麦わら帽子の彼女は、俺の惚けた顔を見るなり、満足気にくすり、と笑って、その場を後にした。
――は? 今···俺、キス、されたのか?
あれは、何だったのか。田村、まさか俺の事を···?
キスと呼ぶには、あまりに短すぎる一瞬の出来事で、ただの事故だったのかもしれないし、いやでも唇···柔らかかったな···。
――しっかりしろ、俺。ただのタチの悪い田村のイタズラに、惑わされている時間はない。
今はみくの事に集中するんだ。
俺は両手で、自分の頬に気合いを入れ、みくを探した。
女子から大ブーイングが沸き起こる声の渦中には
急遽、体育の教師が腹痛で監督できなくなったからと
サングラスを頭にかけた、傷んだ金髪の
「えぇー!? なんで佐倉が居んのー?」
「俺は先生なのでぇ、今日は俺がプールの監督しまぁす」
「やだー佐倉キモイから、たけもっちがいい〜」
「竹本先生は腹痛なのでぇ、今日は俺が全部見まぁ〜す」
「何その手の動き、まじでキモいって〜!」
意味深な動きをしながら、女子生徒と戯れるクソ担任の姿に、俺は勿論、他の男子生徒も一気に興醒めしたようだった。
プールサイドの端に居たみくを見つけた時、彼女は午前中とは違った絶望した表情で、カタカタと震えていた。
俺は気づいた時には、そのいけ好かない高校教師に殴りかかっていた。
* * *
「さてと、松山くん。落ち着きましたかな?」
校長室のローテーブルを挟んで、前に座っている校長先生は、たっぷりとたるんだ顎に生えた髭を、指で撫で俺の顔を凝視している。
「···はい」
佐倉の顔を殴り、馬乗りになった所辺りから、記憶が曖昧だ。
親父と喧嘩した時以上に、頭に血が上ったのは、初めてかもしれない。
「君が何をしたか、分かっていますかな?」
「···佐倉先生を、殴りました」
「そうですねぇ···。佐倉先生の怪我は幸い、致命傷には至らなかったものの、全治3ヶ月の怪我を負ったそうなので、暫くは学校に来ることは難しいでしょう」
俺がそれを聞いて、まず安心したのは、少なくとも3ヶ月は、みくが佐倉に怯えなくて済むであろうと言う、僅かな期待と安心だけだった。
「残念ながら、君を停学処分または最悪の場合、
――退学にせざるを得ないかもしれません」
「···はぁ、そうですか」
「ですがもし、君が心を入れ替え、佐倉先生に謝罪しに行くと言うのであれば私も鬼ではありません。3日間の謹慎のみにしましょう」
退学という重い言葉よりも、あの佐倉に謝罪しなければならない事実に、酷く落胆した。
我を失いアイツを殴った俺は、もちろん一般的には悪でしかない。
だが、アイツに謝罪するくらいなら、大人しく退学になった方がマシだ。
俺は間違った事をしたと、全く思えなかった。
意を決して、佐倉へ謝罪する事を断ろうとした時、重厚感のある、校長室の木製の扉が勢い良く開いた。
「校長センセ〜、竹本先生が大事な話があるらしいっスよ〜」
そこには水着姿の颯太が、頭から血を流した大柄の竹本先生に肩を貸し、佇んでいた。
颯太が、竹本先生を校長室のソファに横たわらせると、校長先生は慌てて彼に駆け寄っていった。
「竹本先生!? どうしたのだね、その傷は···! 血がでているじゃあないか、は、早く救急車を···!」
「もう呼んだっス」
「そうか、ならば良いが···」
竹本先生は、途切れ途切れにゆっくりと口を開いた。
「···校、長···先生、やっぱり
「!」
「だから···この子、たちは···」
「···本当なんだな···」
校長先生の問いかけに、こくりと、竹本先生は頷いた後そのまま意識を失った。
校外から、サイレンの音がけたたましく鳴り響き、救急車の到着を知らせている。
首尾よく駆け付けた救急隊員によって、手際よく運ばれていく竹本先生の姿を見届けた後、校長先生は深々と俺達に頭を下げた。
「君たち、今日はひとまず帰りなさい。また後日、ゆっくりと話そう。宮下くん···竹本先生の事、助けてくれて本当に、ありがとう」
「···ういっす」
俺たちは、校長先生の想定外の行動に、戸惑いながら校長室を後にした。
* * *
日が暮れはじめ、オレンジ色の夕日が差し込む放課後の校舎に向かう廊下を、俺と颯太はゆっくりと歩いた。
互いにテクスチャを起動し、普段の制服姿になる。
普段の制服、と言っても相変わらず猫セット付けている俺を、颯太は横目にチラリと見たが、深くは追求してこなかった。
「颯太···」
「あー?」
「助かった、ありがとな」
「別にぃ〜。なんかさァ、お前が佐倉をぶん殴った瞬間に、
「···笑った?」
颯太の話曰く、颯太がプールサイドに出た時には既に、俺がブチ切れて殴りかかる直前だったらしく、大層驚いたらしい。そりゃ、そうだよな。
颯太の位置からは、佐倉の顔が良く見えたそうで、佐倉は背後から殴りかかっている俺の存在に気づいたかのように、わざと振り向き、まるで当たりに行ったように見えたそうだ。
そして俺に、
佐倉の体は、颯太が想定していた以上に吹き飛んだらしく、そのまま体勢を崩し転倒した。
転倒先のプールサイド際にあったコンクリートの飛び込み台で、ぶつけた左手首が、変な方向に折れ曲がった――。
いつもはオーバーリアクションな佐倉が不自然にも、全くもって痛がる素振りは見せず、救急車はおろか、他の先生達にも頼らず、その場に居た生徒に口止めしたそうだ。
ブチ切れている俺を止めるには、他の先生が必要だったらしく、結局誰かが先生を呼んだそうだが。
心配する生徒たちをよそに「折れたのは利き手じゃないから、大丈夫だよ」と他の先生が来る前に、佐倉はそそくさと自らの車に乗り込み、機嫌良く病院に向かったそうだ。
女子達から竹本先生の話を聞いた颯太は、嫌な予感がしたそうで、校舎中、竹本先生を必死に探し回り、やっと旧校舎の男子トイレで、竹本先生が頭から血を流して倒れているのを見つけた。
竹本先生は、佐倉から「男子生徒が旧校舎のトイレで煙草を吸っていた」と聞き、旧校舎の男子トイレに着くなり、何故か背後から佐倉の声がした後、何かで殴られたと言っていたらしい。
竹本先生は、自分の身よりも一刻も早く校長先生へ話がしたいと言うので、颯太は竹本先生に気付かれないよう、状況をアドニスで救急隊と共有し、そのまま校長室へと向かったそうだ。
颯太は言わなかったが、旧校舎から校長室まではかなり距離がある。
身長が180cm以上はある大柄の竹本先生を運ぶのに、かなり苦労しただろう。
颯太は、普段のチャラさからは考えられない程、いざと言う時は頼もしい男だ。
このへらへらとした親友に、俺は、何度助けられてきたか···。
俺は颯太の話を聞く中で、静かに颯太への感謝の気持ちを噛みしめていた。
全て話終わる頃には、俺たちは2-A組の教室前まで移動していた。
* * *
夕日が赤く差し込む教室に1人、猫耳見つけた少女の影が伸びている。彼女は、窓辺に佇んでいた。
「みく···」
「いお、ちゃん···っ、ごめん。ごめんなさい···」
「みくのせいじゃない。俺こそ、ごめんな」
俺の声を聞くなり、彼女は駆け寄り、隣にいる颯太の目も気にせず、俺にしがみついた。
彼女の小さな肩が震えるのと共に、彼女の尻尾もまっすぐと上に伸びている。
「ほわ〜。しっかし、よく出来た尻尾だな、これ。オレん家の猫そっくり···」
颯太が関心するように、彼女のよく出来すぎた、非現実的な白い尻尾に、興味本位で手を伸ばした瞬間だった。
俺が止める前に、触れてしまえたのだ。
テクスチャならば、掴めるはずの無い、尻尾を。
颯太が掴んだ、みくの尻尾は、颯太の手をすり抜ける事無く颯太の手中に収まっている。
「···あ、れ?」
「ひにぃっ! ···〜〜っ!!?」
変な声を出し、瞬く間に顔面を真っ赤に染め、颯太を睨む、みく。
一方、普段から猫を飼い、彼らに触りなれているであろう颯太にして見れば、触り慣れた感覚そのものだったのかもしれない。
へらへらと笑う颯太の額から、次第に大量の冷や汗が出ており、ついに颯太の顔面が蒼白になった。
「みくちゃん···。···これガチの奴じゃないよね?」
* * *
俺達は、一通りお互いの経緯を報告しあった。
佐倉の話はもちろん、俺の退学の話も解決していない。
俺達の話を聞くなり、彼女の表情が強張っていくのが分かった。
少しの間、静かになった教室内に、壁に掛けられた大きな丸い形をした、壁掛け時計の秩序正しい秒針を刻む音が響いた。
みくの斜め後ろに座っていた颯太が、いつも通り頬杖をついたかと思えば、彼女の尻尾で遊ぶように、ツンツンとつついた。
「へえ···しっかし、
「ちょっと、颯太くん···無暗に触らないでくれるかしら。酷くイラつくのだけれど」
暗かった彼女の表情が、少しだけ明るくなった。
それは怒りかもしれないが、今は、それでよかった。
俺は、幼なじみと親友のやり取りを見て、自然と笑みがこぼれていた。
「まあ、俺も未だに、触ってても信じられないしな」
颯太の横に座った俺も、叩きつけるように、バタバタと暴れまわる彼女の白い尻尾に、いたずらし、人差し指でつつく。
「偽物であってほしいけど、何かこんなに元気なら、本物なんだろうな」
「まあでも? いおちゃん的には良かったんじゃねぇー? 気になる幼なじみの気持ちとか、分かるかもよ〜?」
「お、俺は別に気になって···」
――気になる幼なじみ、か。
確かに颯太には、色々と話してきたがまさか、みく本人が居る前で言うとは。
俺が言葉を言い淀んでいると、俺の顔を見るなり颯太は飽きた、とでも言うように立ち上がり、窓へ向け、両手を上げると、ぐぐぐと伸びをした。
「はあ···。だから颯太くんと話すのは嫌なのよ···。貴方はデリカシーってものが無さすぎる」
俺は何となく、彼女の顔を見るのが
彼女がどんな表情をしていた分からないが、彼女の颯太へ向けた凛とした声はひどく冷たく感じた。
みくは机の横にかけていたスクールバックを持つと足早に教室を出て行った。
ぼんやりとしている俺の視界上に【受信-宮下颯太-】と表示された。
「なんだこれ···」
「親友からのプレゼント」
颯太はひらひらと片手を振ると、「じゃ、また明日な」と残し教室を後にした。
颯太から、送られてきたURLを開く。
視界上に映し出されたブログには【これを読んだらあなたも猫マスター!? -猫の気持ちと尻尾の動き4選! 愛猫の気持ち、教えます! -】と、なんとも怪しげな、謳い文句がつらつらと書かれている。
普段の俺とは縁遠い、見慣れないジャンルのコラムに、ためらいつつも、俺はすべてに目を通した。
* * *
みくへ向け、何度か着信を入れるも、応答がない。
仕方なく帰宅する頃には、辺りはすっかりと暗くなり、空には一番星が出ていた。
帰り道のいつもの道路には、ぽつりぽつりと街灯が灯っている。
夏にしては涼しい夜の気温が、無性に寂しく感じ、彼女に会いたくなる気持ちを高めた。
自宅マンションのエントランスから、中に入ろうとした時、みくから折り返しの着信が鳴った。
「もしもし···」
「いおちゃん、連絡遅くなって、ごめんね···」
物腰柔らかな口調は、学校の時の彼女とは違い優しい。
「いおちゃん?」
「···あ。おう。なぁ、みく···」
「んー?」
「今からちょっと会えないか?」
「···いいよ。どこで会うの?」
「迎えに行く」
「わかった。もう家にいるから、待ってる」
通話を終了した俺は、エントランスから道路へと踵を返し、みくの家へ向かった。
* * *
赤い屋根の一軒家、みくの家に着いた時、玄関が開く音と共に中から彼女が出てきて、ふいに目が合った。
家の中から籠れ出る照明の光が、彼女の姿を照らしている。
白いふわりとしたガーリーなトップスと、デニムのショートパンツ姿に、薄手のロングカーディガンを羽織っていた彼女からは猫耳のテクスチャが外され、すっかりと元に戻ったように見えた。
よく見ると、白い猫の尻尾はロングカーディガンに隠され、目立ちにくい。
ショートパンツから見える、いつもとは雰囲気が違う、きれいな足に、ドキリと心臓が鳴り俺は慌てて彼女から視線を別に移した。
「みく、少し三角公園に行こう」
「ん。わかった」
俺の左隣に並んで歩くみく。
「三角公園、2人で行くの懐かしいね」
「そうだな」
三角公園へは歩いて5分ほどで、今の俺達なら目と鼻の先だが、当時は公園へたどり着くまでも、大きな冒険だった。
――可愛らしい猫の髪飾りで髪を2つ結びし、白いレースのワンピースを着た小さな女の子は、三角公園の看板前で膝を抱えひとりで泣いていた。
「どうしたの?」
「おにいちゃん、だあれ?」
しゃがんだまま、俺を見上げた女の子の右膝は、転んだのだろうか、擦り剝け、血が出ていた。
「ふ···びええぇえん···!」
俺が声をかけるなり、大声で泣き始め、俺は慌てて、先ほど駄菓子屋で買ったばかりの、水色の包み紙に包まれたサイダー味の飴玉を取り出し、女の子に差し出す。
「これ、シュワシュワしておいしいよ! 君にあげる!」
「ふぇ···? ···! ほんろだ···! しゅわしゅわ、すりゅ!」
先程まで泣いていた女の子が、あっという間に笑顔になった。
「オレは、まつやまいおり! 君のなまえは?」
「わたしは、はつゆき、みく···」
「みくか! よろしくな」
「うん! いおちゃん! よろしくねっ」
これが俺と、みくが初めて出会った日の事だ――
公園の白く光る照明が、ポップな塗装をされたブランコを照らす。
ブランコ横の木製のベンチに2人並んで座る。
「今日は色んな事があったな」
「そうだね、この尻尾、このままずっと無くならないのかな···」
「どうだろうな、明日には消えるといいな。まぁ安心しろ、消えないとしても、みくの尻尾が消えるまで俺も一緒に猫になるよ」
「···いおちゃん、ありがと···」
そっと左手の甲に温もりを感じると共に、みくの小さな右手のひらが俺の手を握っていた。
「なぁ、みく···」
「なぁに···?」
「何で
「···」
俺たちの中で、自然と――否。
話題にする事を深く避けてきた
あの日以降、彼女は突如学校にいる時だけあの口調になる。冷たく凛とした口調に酷く驚いたが、今まで触れてこなかった。
俺の問いかけ以降彼女は、口を噤み俯いている。
「···いおちゃんには、関係ない」
「関係なく、ないだろ」
「···っ···! 関係ない!」
みくの言葉とは裏腹に、彼女の右手には、力が入る。
俺はその手を、優しく握り返した。
「俺が、みくと関わりたいんだ」
「···どうしてそんなにしつこく聞くの···? いつもは、こんな話しないのに···」
「好きだよ、みく」
「え···?」
「幼なじみとかじゃなくて、俺は、みくが好きなんだ」
俺の告白をきくなり、みくはぴくりと肩を震わせ、俺の瞳をまっすぐ見つめた。
彼女の大きな瞳は、潤み、震えている。
「···らい···! きらい···! いおちゃんなんて、嫌い···!」
――嫌い、とみくが否定する度に、みくの顔に猫のヒゲが一本ずつ生えていく。
彼女の右目から、涙が一粒零れた時、彼女の頭には、テクスチャを外した筈の猫の耳がふわりと現れた。
妙にリアルで、テクスチャとは思えない
「嫌いなの! ···いおちゃんを好きになる、自分が···!」
みくの右手の爪は、鋭く尖り俺の左手を押しやり、俺の左掌からたらりと血が垂れ、痛みで顔が歪む。
みくの顔に、猫のヒゲが生え揃い彼女の片方の瞳、黒目部分が猫のように鋭くなった時、俺は咄嗟に彼女を抱きしめていた。
「――ッ···! 俺は、みくが例え猫になっても、お婆ちゃんになっても···どんな姿になっても、好きだよ、――大好きだ!」
「···ほんと?」
ぽろぽろと、涙を流す彼女から、蛍の光のように淡くあたたかみのある光を纏っていく。
「私もいおちゃんのこと、だいすき···」
みくが打ち明けたあと、彼女を包む光が消え、猫耳も、ヒゲも、しっぽも徐々に透過され、薄れていく。
「みく、尻尾消えかかってる」
「え!?」
みくが気付く頃には、彼女に生えていた不思議な尻尾は、すっかり元に戻り、淡い光と共に消えていた。
* * *
――おはようございます。
本日は2255年7月15日、天気は、快晴。気温は26度、湿度は40%です。降水確率···0%···。
熱中症にご注意下さい。水分をしっかり補給しましょう。
スポーツドリンクをご用意致しますか? ――
気温26度って···今日は昨日より、もっと暑くなりそうだな。
「いや、要らない」
いつも通り、寝室をリビングにモードチェンジし、食卓に着く。
本日の朝食は、旧式の和食セットか···。
大根と玉ねぎとワカメの味噌汁と、白ご飯。
おかずは、丁寧に巻かれた、焦げひとつ無い、綺麗な色をした卵焼きと、パリッと焼きあがった、ジューシーなウインナー。横には、新鮮なミニサラダがついている。
うん、今日も美味そうだ。
「いただきます」
手を合わせ、味噌汁の一口目を啜ろうとした時、インターホンが鳴った。アドニスを使い、応答すると視界上には、嬉しそうなみくの姿。
「いおちゃん、おはよう」
「ん、まだ朝食食べてないからとりあえず上がって」
「ご、ごめん! いおちゃんと一緒に登校するの嬉しくて···早かったかな···?」
「いや、みくは時間通りだけど、俺が寝坊した」
「えぇー?」
「も〜!」と不満げに唇を尖らせている彼女の姿に、猫の気配はない。
結局、俺は退学も、停学すらもならず、通常通りの登校が許可された。
一方佐倉は、竹本先生の一件で逮捕され、みくへのストーカー未遂も、処罰されるそうだ。
竹本先生は、頭に包帯を巻いたままだが、かなり回復し、先日、佐倉先生に代わって2-A組の担任になった。
俺の幼なじみ兼、俺の初めてのカノジョは、学校でも、彼女そのものになった。
もうあの冷たく、凛とした口調で、彼女は気持ちを誤魔化したりしない。
あの日の彼女に生えた、白猫の尻尾は、あの夜以降、現れる事は無かった。
あれが何だったか、何でみくに生えたか、なんて、俺には分からない。
ただ猫耳姿のみくが、世界一可愛いと思った、なんて。
――···本人には、絶対に言わないけれど。
* * *
【これを読んだら、あなたも猫マスター!?⠀】
猫の気持ちと尻尾の動き4選! 〜愛猫の気持ち、教えます〜
······
·········
···貴方を見て、尻尾を上に向け、真っ直ぐと立てる仕草は――。
――···あなたのことを、好きな証拠です。
俺の幼馴染に、なにやら猫の尻尾が生えているらしいのですが。 ぺろりの。 @perorin_nosuke
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