最終話 夢

早乙女らしき女性はあくまで自然体で屋上の真ん中に立っていた。昨日まで杖をつかなければまともに立てなかった人物とは思えない。海堂はまたも辻妻があわない現象にあっけに取られていたが数秒後思考が動き出す。


「先輩、でいいんですよね?」


海堂は疑いの眼差しを向けながら、本当にあの世話になっている先輩かどうか確認を取った。お世話をしてきた後輩に疑われているにも関わらず早乙女らしき人物は飄々とした態度で答える。


「当然です。私は私ですよ」


その掴みどころのない態度と答えにいつもの先輩だと、海堂はほっと安堵のため息を吐く。だが一つ疑問が残った。目の前の女性は大怪我を負っていたはず。なのになぜ昨日まであった治療の跡がないのだろうか。それを海堂は尋ねようとした。


「海堂君、よく見てごらん。私は誰に見える?」


突然の早乙女の問いかけに一瞬体が硬直した。いつもの彼女なら決してしない人懐っこそうな笑み、友達口調。海堂は別の意味で深く息を吐く。目の前の早乙女によく似た誰かに向かって海堂は言葉を吐き捨てる。


「悪趣味すぎないか? おっさん」

「そうかい? ふざけているつもりはないんだがね」


海堂が瞬きをした一瞬で目の前の女性はブラウンのコートを着た丸刈りの中年男性に変わった。海堂は視線を屋上の外の方に向ける。無数のビル群が景色を埋めていた。ここは渋谷で一番高い場所。高層ビルが乱立した鋼鉄の街をよく見渡せる。世界の終わりを眺めるといったこの男がいるのも当然の話だった。


「まさか君が来るとは思いもしなかったよ。どうやって来たのかな?」

「普通にエレベーターとエスカレーターを使って。そんなことよりあんたに聞きたいことがたくさんあるんだ。……ちょっとまて。俺が来ると思いもしなかったらなんで先輩の姿になってたんだ」


この街から人や黒い亀裂がいなくなった理由を目の前の男なら知っていると思い、問い詰めようとする海堂。だが伊達丸が発した言葉に矛盾を感じそのことを聞いた。


「だから言っただろう。ふざけているつもりはないと」


海堂の疑問に伊達丸は肩をすくめた。伊達丸の姿が長い黒髪の若い女性、早乙女美幸に変わる。


「こっちも本当の私というだけですよ。簡単な話です」

「……信じられるか。そんな話!」


海堂は思わず語気を強めて否定する。目の前の女性の話が本当ならば四年の間、自分は未確認生命体に背中を、命を預けていたことになる。未確認生命体を送還する立場でありながらナニカに命を救われてきたことになる。海堂の退魔師としての誇りと思いが汚された気がした。


「私は人間のナニカです。人間とは男だけを指すものではないでしょう。人間のナニカであるなら男の姿だけでは足りない。当然、女性の姿もありますとも」


伊達丸幸雄に早乙女美幸、分かりやすいでしょうと早乙女は微笑む。

海堂は奥歯を強く噛みしめる。そうしないと煮え滾った怒りの感情が爆発しそうになる。震える声で早乙女に問いかけた。


「本当に未確認生命体なんですか? 先輩」

「ええ。あなたにとっては残念なことですがこればかりは事実です」


ショックを受けて目線を下げる海堂にほんの少し憐むような視線を送る早乙女。


「今度はこちらから質問をします。あなたはどうやってここに来ましたか?」

「さっきも言いましたが俺は……」


海堂は先程と同じ答えを繰り返そうとした。早乙女は海堂の答えを遮る。


「ああ、違います。屋上に来た方法ではなくこの世界に来た方法です」

「この世界?」

「海堂君、あなたは勘違いをしています。この世界は現実ではありません。ここは夢現。現実とも夢とも違うどっちつかずの世界。夢と現実の狭間。人間である私が生まれた場所」


早乙女はそう言いながら屋上を囲うガラスの壁に近づき手を添える。彼女にとってはこの異界は言わば生まれ故郷。そんな場所に海堂は偶然にも入ることができた。


「ここに来れた理由は分からないっていうのが正直なところです。未確認生命体を送還して夢から覚めたと思ったらこの場所にいた」


海堂は怒りを鎮め努めて冷静に答える。早乙女は顔だけ振り返り海堂に起きた現象の仮説を話す。


「なるほど。おそらくですが無数のナニカの侵攻により世界が我々が想定したもの以上に不安定になっているんでしょう。だからナニカの夢から覚めたとき現実に戻ることができなかった」


早乙女の言葉を聞いてなおのこと戻らなければいけないと海堂は気持ちばかり焦った。この夢現の世界からの脱出方法はないか早乙女に聞く。


「ここから戻る方法は?」


早乙女は少しばかり考えてかぶりを振る。


「分かりません。いくつか考えられますがどれも確証がもてません」

「そんな……。くそっ」


早乙女の答えに海堂はイラつき地面を蹴る。早乙女は苦笑しながらそんな海堂に近づく。


「別にいいんじゃないんですか? 世界は終わるんです。片意地張らずに私と世界の崩壊を眺めましょう」


早乙女は少し頭を下げて海堂を見上げる。世界が終わると言うのにいつもの調子で

薄く微笑む。海堂はそんな目の前の女性を睨みつける。


「言ったでしょう。俺は最後まで諦めるつもりはないって。どうにかして俺は現実に戻って世界崩壊を一秒でも長く伸ばしてみせます。業腹ですが先輩も手を貸してください。暇なんでしょ?」


そうですかと早乙女は笑顔を保ったままくるりと反転し、海堂から背を向けてもと来た道を戻る。


「この世界から脱出する手伝いをするのはやぶさかではありません。一人で終末を迎えるのは寂しいですが。ただあなたは私の手を借りたいとは思わないでしょう」


早乙女は背を向け歩きながら言葉を紡ぐ。海堂は少しばかり過剰に反応し過ぎたかと反省した。息をゆっくりと吐き、浮き沈む気持ちを落ち着かせ彼女の背中に言葉を掛ける。


「確かに先輩が未確認生命体で俺をだましていたことはムカつきます。けど手を借りないって程、状況が見えていないわけじゃないですよ」

「いいえ、あなたは間違いなく激情に駆られるでしょう。海堂君にはこれは知らせるつもりはありませんでした。」


どうやら早乙女は他に何かを隠しているようだった。海堂は一番あってほしくないことを口に出す。


「なんですか? もしかして美代も先輩ってわけじゃないですよね」

「いいえ、彼女は違いますよ。私は女と男一人ずつです」

「じゃあ何です?」


海堂の問いに早乙女はようやく振り返る。今までの張り付けたような笑みはどこかに消えていた。口を真一文字に引き締め、真剣な眼差しで海堂を見る。まるでナニカと戦っているときのような重い雰囲気。海堂はそんな雰囲気を出す彼女に昨日の美代を重ねた。早乙女はゆっくりと重い口を開く。


「私はあなたをずっと見守ってきました。あの日以来、ときに姿を変えてまで。ひとえに罪を償うためです」

「…………」


罪を償う。とてつもなく重い言葉。六年の間そのことばかり考えていた。だからこそ早乙女が嘘をついいていないことが分かる。しかし海堂は早乙女に償われるほどの何かをされた記憶はなかった。話が見えない海堂は黙って早乙女の話を聞くことにした。


「あなたがなぜ十歳という若すぎる年齢で退魔局にスカウトされたのか。それは私が介入したからです。ナニカを送還することはある意味あなたのご家族の敵討ちになるからと思ったから」

「なっ」


なぜここで家族の話が出るか海堂は分からなかった。ナニカと家族は無関係のはずだ。嫌な予感に海堂は背中に冷や汗をかく。


「分かりませんか?周りがいつも言っていたあなたが悪いわけではないというのは正しい。なぜならあの日、あなたの家で私の仲間が生まれようとしました。その際に生じた黒い亀裂に当てられたあなたの家族は気を失い、火事に逃げ遅れてしまった。あなたが家族を失った原因は私の仲間です」


海堂の頭が真っ白になる。少しずつ言葉の意味を咀嚼していく。意味を理解した瞬間抑え込んでいた感情が爆発した。


「お前ええええええええ!!!!!!」


感情の爆発に呼応するかのように右手が赤黒い炎で燃え上がった。海堂は駆けだして早乙女の顔を横殴りにしようとする。だが海堂は早乙女に触れることすら出来なかった。突然現れた第三者に体を地面に押さえつけられたからだ。


顔を後ろの方に向けて押さえつけている誰かを見る。黒い塊のような、人型を模したナニカ。黒い泥人形のような見た目。そんなナニカ達がどこからともなく現れ早乙女を守った。両足に一体。左腕と背中に一体。右腕に一体。計三体が海堂の身体を押さえていた。


早乙女は身動きの取れない海堂に近づきしゃがみこんで目線を合わせる。彼女の瞳は悲しげに揺れていた。


「海堂君には申し訳ないですが、ここであなたに殺される訳にはいかないんです。私は世界の終わりを見届けて世界と一緒に死にたいんです。」

「じゃあなんで今更そんな話をする!? 黙って死ねばいいだろう!!」


海堂は早乙女の身勝手な振る舞いに噛みつく。もがこうと身体に力を入れるがびくともしなかった。


「海堂君、私はあなたには穏やかな最期を迎えてほしかった。退魔師としてではなく一人の人間として。でもあなたは世界が終わる最後の最後まで退魔師であり続けようとした。だからですかね、あなたへの罪悪感とほんの少しの意地悪です」

「先輩は勝手すぎる!」


海堂はこの圧倒的に不利な状況でも言葉を吐き出すのを止めなかった。怒りと悲しみがないまぜになった感情が少年の心の内で渦巻いた。海堂の心の動きを見抜いているのか早乙女は物悲しそうな表情で微笑んだ。まるで幼子を慰めるかのように。


「あなたにとって最良の選択をしているつもりですがね。受け入れられないようで悲しいです。世界が終わるまでそうしてください」

「くそっ!」


早乙女は言い終わるやいなや立ち上がりガラス壁の方へ歩いて行った。海堂は目の前いる家族の仇の仲間を殺したいとさえ思った。だが深呼吸してその考えを心の隅に追いやった。自分は退魔師だ。今は世界の終わりを防ごうとして動いている。感情的になって本来の目的を見失ってはいけない。今しなければいけないのはこの世界から現実に帰還すること。


この世界で生まれた早乙女ですら方法は知らないと言っていた。


海堂はこれに関しては彼女は嘘をついていないと思った。なぜなら世界の終わりと共に死にたいのなら殺そうとする自分は邪魔な存在だ。真っ先に送り返した方が良い。それをせずに自分を拘束する面倒なことをしている。つまり彼女も本当に帰しかたを知らないのだろう。


ここから先は自分で考えなければならない。答えのない問題を解くような気分だ。だが必ずやり遂げなくてはならない。自分のためにも。みんなのためにも。


海堂は空に走る巨大な黒い亀裂を見上げる。問題はこれだ。ここは夢現。夢とも現実とも違う場所。海堂は先ほど自分が出した炎を思い出す。あれは夢の中でしか出せないものだ。だがこの床の冷たさも目覚めた場所で触れたベンチの木の感触も現実と遜色はなかった。彼女の言った通りここは夢と現実の狭間なのだろう。


だがあの巨大な黒い亀裂は現実に存在しなかった。この世界の夢の部分。あれは一体何なのだろう。早乙女はここで生まれたと言っていた。彼女に関係があるものだろうか。ここで生まれたと言ったがどうやって生まれた。どうやってこの世界に入ってきた。


一つ一つに仮説を立てる。仮説を何度も立てては反証していく。塗りつぶしてさらに塗りつぶしてそこで海堂は思いついた。現実に帰る方法ではない。この世界の終わりという最悪な状況をひっくり返す方法を。



海堂は深く息を吸い目を瞑る。このやり方を試したことは無かった。だが難しいこの状況を打破したいならやらなくてはならない。海堂は右手の指を鳴らして。掴んで押さえていたナニカ達は海堂に接触していた部分が激しく燃え上がり悲鳴をあげる。


早乙女は視線だけを海堂の方に向けてため息を吐く。


「身動きが取れなかったとはいえ無茶をし過ぎでは?」

「いいや、無茶じゃないですよ。俺は燃えない。


海堂は炎に包まれながらも不敵に笑って返事をした。もう一度指を鳴らす。炎は誕生日ケーキのろうそくの火のように揺らめいて消えていった。海堂の言った通りその身体には焼けた跡は見られなかった。


「世界を救う方法を思いつきました」

「……どうやって? まさかと思いますが一体一体ナニカを送還するわけじゃないですよね。もう世界の終わりは始まっています。焼け石に水ですよ」


それは無駄な努力だと早乙女は否定する。海堂も今更その方法をとるつもりはなかった。それは終わりに向かう世界の寿命をほんの数秒程度稼ぐいわば延命措置。終わりは確実に訪れる。だが今思いついた方法なら世界は救われるかもしれない。


「違います。送還する未確認生命体は一体だけでいい。そうでしょう先輩」


二人の間に風が吹き抜ける。早乙女の長い髪がたなびいた。これを言ってしまえば何かが決定的に終わってしまう予感がした。それでも海堂は口に出す。


「あなたを送還すれば世界は救われる」


早乙女は海堂が出した結論に薄くうっすらと笑みを浮かべた。大事な人との別れを惜しむようなそんな笑顔。早乙女が纏う雰囲気が変わるのを海堂は肌で感じる。彼女から今まで感じたことのない感情を向けられていた。針で肌を刺されるような感覚。敵意を。


海堂は怯むことなく言葉を続けた。自分の考えを伝える。なぜそう思ったか、なぜそう考えたか。


「銭湯で自分のことを世界の番人と言いましたよね。あなたが二十二年前までこの世界を守ってきたんだ。そしてあなたがこっちの世界に来てから未確認生命体が出現し始めた。ソトのあなたの仲間だけだと世界を外敵から守るのはどうしたって力不足だったんです」


家族の仇の仲間だとしても、今から決別する相手だとしても知っていてほしかった。海堂にとっては何度も命を救ってくれた先輩には変わりなかったから。


「だから私がソトに戻ればいいというわけですか。でも残念ながら私は完全受肉しています。いまさら戻れません」


確かに早乙女は現実に人間として活動している。通常の未確認生命体ならば完全受肉しているといって間違いはなかった。だが海堂が出した答えでは早乙女の場合それに当てはまるかといわれれば少し違った。


「先輩は他の未確認生命体と生まれた場所が違う。未確認生命体は夢から現実に生まれようとする。けれど先輩は夢現の世界で生まれた。完全受肉しようとも夢は終わらない。あの巨大な黒い亀裂。あれは今から未確認生命体が産まれるんじゃない。あれは先輩の亀裂ですよね」


海堂の問いかけに早乙女は答えなかった。ただただ微笑むだけ。


「先輩は完全受肉しながら黒い亀裂があるという矛盾を抱えている。この世界と同じどっちつかずの存在なんです。だから完全受肉してもまだ送還できる」

「お断りします。私はまたあの凄惨な場所に帰る気はありません」

「いいえ、帰ってもらいます。今すぐにでも!」


海堂は右手に赤黒い炎を纏いながら早乙女に一直線に駆けだす。対する早乙女は右腕を振るった。海堂と早乙女の間に黒い無数の手が地面から湧いて出てきた。


海堂は細かいステップを刻みながら掴もうとしてくるナニカの手を避ける。避けつつ左手をくるりと回す。地面から湧いて出ようとするナニカの頭上に玄関扉が横向きに出現する。それを海堂は踏み台にして足に力を籠めた。ナニカの身体をバネ代わりにして跳ねる。そのまま早乙女に拳を振るおうとして後ろから何者かにフードを掴まれた。


海堂は驚き、後ろを振り返ろうとするがそのまま投げ飛ばされる。二回ほどバウンドして早乙女とは反対側のガラスの壁に衝突した。背中を思い切り叩きつけられ呼吸の仕方を忘れてしまう。どうやらこの世界での痛みは現実と同じらしいと今更気づく。


震える膝を押さえながら海堂は立ち上がろうとする。海堂が正面を見ると玄関扉の上から人型のナニカが湧いて出ていた。どうやら早乙女に自身の武器を逆に利用されたようだった。


人型のナニカが数秒前の海堂と同じ動きをする。玄関扉を踏みしめ一直線に海堂に向かう。海堂はガラスの壁を背にして立ち上がる。ナニカは大きく右腕を振りかぶり少年の腹に拳を叩きつける。


「ぐっうう!?」


拳を叩きつけられた海堂の身体はくの字に折れ曲がった。身体が一瞬浮き上がる。


「しばらくそのままじっとしていてください。これ以上私も痛めつけるつもりはありませんから」


うつむく海堂に早乙女は優しく声をかけた。拳を叩きこまれ膝立ちになる海堂だったが地面に伏せることは決してなかった。


「グオオオオオオオオオオ!!?」


海堂を殴ったナニカが悲鳴を上げる。苦痛にまみれた声を出すナニカ。少年を殴った右手が赤黒く燃えていた。その右手から全身に炎が回る。ナニカは地面に倒れこんでのたうち回り火を消そうとする。それでも炎は消えることなく人型のナニカを燃やし尽くした。


海堂はガラスの壁に寄りかかりながらもう一度ゆっくりと立ち上がった。だらりとたれさがった右手は赤黒い炎を纏っている。


「拳に右手を重ねましたか。その状態でよく合わせられたものです」

「夢の中で嫌というほど戦ってきましたからね。先輩もよく知っているでしょ」

「ええ、知っています。当然、あなたの手の内も」

「俺は知りませんでしたよ。先輩が鳥以外も創り出せるなんて」


海堂は喋りながらも呼吸を整えていく。少しでも身体のダメージを回復しようとする。早乙女はその場から動かないのは海堂には好都合だった。時間を稼ごうと会話を引き延ばす。


「鳥よりもこっちの方が創りやすいくらいです。なにせ私はこの世界の誰よりもナニカとの付き合いが長い人間ですから」

「それにしては種類が人型だけとは少ないですね。それともソトの世界のナニカは人と同じ形をしてるんですか。意外です」

「ああ、それは私がソトのナニカの姿を知らないからです。私にはナニカを見る目も聞く耳も、嗅ぐ鼻もありませんでしたから。だから初めて目にした生命体の形を模しているんです」


海堂は早乙女の平然とした様子で発した言葉に息を呑んだ。ソトの世界はお互いを貪り喰らう場所と言っていた。なら目の前の女性はいったいどれほどの過酷な状況に身を置いていたのか。


「私は気が遠くなるほどの長い間ナニカに喰われ続けていました。奪うことは出来ずただただ奪われ続ける自分の身を呪い続けて、それでもソトが暖かい世界になると信じていたんです。けど駄目でした。進めば進むほど夢が遠のいていくんです。諦めかけたときこの宝石箱を見つけました。あれほど欲した夢の世界はすぐ近くにあったんですよ。こんな素敵な場所があるなら私はソトなんてどうでも良くなりました」


早乙女は目を爛々と輝かせながら目から鼻筋、唇を指でゆっくりとなぞる。


「あなたに分かりますか。五感のうち、触感でしか世界を知ることができなかった私がこの世界に来てどれほど救われたか。痛みでしか世界を理解できなかった私が初めて世界の優しさに触れたときの感動を」


だからと早乙女は顔を俯かせる。海堂からは髪が顔にかかり表情が見えない。

声を震わせながらおもむろに顔を上げる。その頬には涙が流れていた。


「海堂君、お願いです。私を人間として死なせてください」


海堂は目の前の女性のここまで弱々しい姿を見たこともなかった。今すぐにでもどうにかしたかった。伸ばしそうになる右手を握りしめる。それは許されない。なぜなら今から海堂は救われていた女性をもう一度地獄の底に突き落とすのだから。


「それはできません。死なせたくない人達がいるんです。生きて笑っていてほしい人達がいるんです」


左手で腹をさする。まだ腹の鈍痛は消えてはいないが走れる程度には回復した。右手の赤黒い炎を消して海堂は走り出す。


「先輩もその一人でした」


小さく付け足した思いは届かず空気に混じり消えていった。


「そうですか。あなたは私のささやかな夢すら奪おうと言うんだね」」


早乙女は髪を掻きむしり足元に涙を落とす。

感情の高ぶりに合わせて彼女の声に雑音が混じる。全く違う二種類の声を無理に重ねたような。


「「私がこんな感情を抱いたのは久しぶりだ。ああ、憎い! ソトの奴らのように私の邪魔ばかりして!!」」


狂乱する彼女の周りを囲うように三体の黒い泥人形が湧いて出てきた。黒いナニカは我先にと振り子のように左右に揺れながら走る海堂に迫る。


海堂は目の前の障害物を掃おうと右腕を水平に振るう。海堂の目線から右腕と重なった黒いナニカが燃える。だが三体全てが燃えることは無く、ちょうど別のナニカの背後にいることで、火の手から逃れた一体の泥人形が飛び出す。


顔のないナニカの身体が縦に裂けた。即席のアイアンメイデン。体内に針がびっしりと生えた巨大な口が海堂を飲み込もうとする。


少年は足を止めることなく突き進む。走りながら左手の指を鳴らす。巨大な口の間に横たえた玄関扉が出現した。肉が裂ける嫌な音を出しながらナニカは真っ二つになった。


海堂は玄関扉の下をスライディングしながら潜り抜ける。今は一分一秒でも惜しい。時間を許せば泥人形がまた生まれてしまう。足を止めることなく最短距離を全速力で駆け抜ける。


どこでもいい。赤黒い炎が触れさえすれば早乙女を送還できる。必要なのはもう三手だけ。


一手。右手に赤黒い炎を宿す。相対する早乙女は自身の体をかき抱きながら新しく泥人形を生み出そうとする。


二手。前に出した足で無理やり急ブレーキをかける。予想もしない行動をとった海堂を早乙女は訝し気に見つめた。


三手。左手の人差し指を折り曲げる。早乙女の後ろのガラス壁から玄関扉が出現し、彼女を海堂の方へと押し出す。這い出ようとしたナニカを押しのけ迫る形になった早乙女に右の拳を合わせた。


結氷が割れるような音が響いた。両腕を十字に重ねる形で伊達丸は拳を受け止めている。姿を変わったことに海堂は驚きつつもそのまま拳を振りぬいた。伊達丸は吹き飛ばされながらも振り上げたつま先で海堂の顎を下から叩く。


「「「ぐっ!!!」」」


両者が相手の攻撃で吹き飛ぶ。海堂は地面を転がり、伊達丸はガラス壁に叩きつけられる。


地面に伏せる海堂はすぐさま立ち上がろうとするが腕に力が入らない。少年の視界は衝撃で揺れている。それでも殴り飛ばした伊達丸の全身が燃えているのは見て取れた。


これで世界は救われる。自分が守りたかった日常が返ってくる。それなのになぜか胸に寂しさが去来する。送還したのは自分自身。そんな資格はない。振り払おうと奥歯を噛みしめ拳を強く握りしめる。


そんな海堂に声をかける人物がいた。


「燃やせるのは一人が限界みたいだね」


その声に海堂は息を呑む。ようやく歪みが収まった視界で燃えた伊達丸がいるはずの場所を見る。


口調が違えど無傷な早乙女がそこにはいた。


海堂は唇を噛んだ。目の前のナニカは伊達丸、早乙女の二人で一つの存在。しかし、一人を燃やしてもう一人もそのままなんて都合のいい話はなかった。


海堂は立ち上がろうと震える体に鞭を打つ。勝敗は決まったと思っているのか早乙女が話を続ける。


「海堂君は失念しているよ。私がソトに帰されたところでこの世界を素直に守ると思う? 守るわけがない! 手に入らないなら壊れてしまえばいいんだ。こんな世界!!」


激昂する早乙女を身体を起き上がらせ座った体勢で見つめる。


「先輩は世界を助けてくれます」


海堂は目をそらさず断言した。


「何を根拠にそんなことを。私の正体も何一つ分からなかったくせに!」

「確かに俺は先輩のことを何一つ分かっていませんでした。けど今なら理解できる。先輩は夢を諦められないんです。それは生きている限りずっとついて回る。夢は先輩が唯一誰からも奪われることのなかったものだから。だから断ち切るために死のうとした」


戦いの最中、海堂は考えていた。どうやってこの世界を守ってもらうか。ソトに出ても彼女に世界を守ってもらえるかどうか保証なんてない。彼女は夢を諦めたと言ったから。


「夢は雪山の焚火のように暖かい。一度温もりを得たらそれを失うのが怖くなる。俺も同じです。先輩のお節介で夢を見れました。周りを見れば誰かが笑っている、なんてことのない日常を過ごすのが俺の夢になりました」


けれど本当にそうか?


「先輩の火は消え夢は終わりましたか?」


海堂は答えを分かっていた。だって自分だってそうだから。


「まだ消えて終わってないでしょう」


この世界にちじょうが壊れるのは嫌だ。そう思っている。


海堂は立ち上がる。右手に赤黒い炎を灯して一歩ずつ歩き出した。


「最初は傷つけられるのが嫌なだけだったんです」

「誰だってきっかけは些細なものです」


炎が黒から赤へと鮮明になっていく。


「自分の仲間が増えていくのは嬉しかったです。けど、いつまでも叶わない夢に怖くなりました」

「先輩一人で背負い過ぎたんですよ。もっとみんなの力を借りましょう。俺も手伝いますから」


赤から黄金へと色を変えていく。


「……私にできますか?」


早乙女が前に立つ海堂を見上げる。


海堂は早乙女を強く抱きしめた。目の前の臆病な女性の背中を押せるように。彼女が道の途中で折れないように。ソトの冷たい世界でも彼女の火が消えないように。


「先輩にならできますよ」


黄金色の炎が早乙女を包む。


「……ああ、あたたかい」



陽光が街を照らす。あれほどの事件が起きていたのに、空は何事もなかったかのように雲が流れて鳥が飛んでいる。


美代の家のレンガの外壁に海堂は寄りかかり空を見上げていた。地上はてんてこ舞いなのに空の住人は気楽なもんだなと睨む。睨んだところで空は模様を変えず素知らぬ顔をした。


「お待たせ! 待たせてごめんねー!」


玄関から準備ができた美代が小走りで出てきた。


「いや大して待ってない。行こう」


海堂は背を預けていた壁から離れ歩き出す。


あれから日常は様変わりした。あの日を境に過ごしてきたそれは過去のものになった。けれど、失った代わりに得たものもある。


「今日も楽しんでこう!」

「そうだな。精いっぱい今日を楽しもう」


この陽だまりと共に歩いていこうとそう思った。


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夢現ハルシネイション 雨空りゅう @amazora_ryu

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