彼岸

いとうみこと

彼岸

 無音の世界で僕は目覚めた。微かに開けた瞼に見慣れた室内が映るところをみると現実の世界らしい。二度と目覚めなくても良かったのにと思いつつ目を閉じると音が戻ってきた。朝を告げる鳥の声、近所の人たちが交わす挨拶、時折走り抜けるエンジン音、聞こえ辛くなった僕の耳にいつもと変わらぬ音が届く。今日もまた一日が始まったようだ。


 僕は軽く伸びをして分厚い毛布の掛かったベッドを出た。二月の寒さは僕の予想を超えてくる。心臓がキュッとして身震いがした。少し動悸もする。咲子さんが起きてくるのはまだ先で食事はそれからだし、今朝は特別寒いからベッドに戻ろうかと思っている自分に気づいてふと笑いがこみ上げた。飯だの寒いだのと、とっくに生きることを諦めた者の言うことか。笑いが咳に変わって、僕はコホコホと暫く咳き込んだ。若い頃に咳き込んだことなんてあったかな。


 僕はとぼとぼと歩き出した。昔は脚力には自信があったのに、今では僅かな移動にもかなりの時間がかかってしまう。何とか水を飲んで喉を潤し、それから仏壇の前の座布団に座った。紙おむつがガサガサして気持ち悪いけれどそれも仕方ない。あれ、いつからおむつするようになったんだっけ。


 仏壇にはついこの間までここに座っていた母さん、その横には母さんが折に触れて話しかけていた父さんの写真がある。咲子さんは忙しいからかほんの少ししか話をしない。だから代わりに僕がここに来て時々話しかけている。返事はないけれどね。


 そういえば母さんはよく言っていた。


「もうすぐそっちへ行きますよ」って。


 父さんも母さんもある日突然いなくなってしまった。そっちがどこなのか知らないけれど、父さんや母さんがいる場所なら僕も連れて行って欲しかった。いつか行けるかな。行けたらいいな。


 少し眠くなってきた。ベッドに戻るのは億劫だ。僕は座布団の上で体を丸めた。もう何も感じない鼻なのに、懐かしい母さんの匂いがする。いつもそうしてくれていたように、温かい手が背中を撫でている気もする。


 凄く眠くなってきた。遠くで母さんの呼ぶ声がする。父さんの声がそれに重なる。迎えに来てくれたのかな。起きて走って行きたいな。でも、もう走れないや。


 夢で逢えるかな。


 逢いたいよ、か、あ、さ……

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彼岸 いとうみこと @Ito-Mikoto

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