第18話
恥ずかしむべきことに、焼き肉が好きだと公言しながら星野はカルビとタン以外の部位の名称知らなかった。寿司とイタリアンが好きだという大月も似たような認識である。
星野は値段を見ず、おすすめに従って注文した。店員は肉を出す度に名称を教えてくれるのだが、星野は毎回いざ食べる段階になるとこれは何だっけと思った。
何はともあれ美味しいお肉であることに違いはないという程度の認識でひたすら食べ、酒を飲んだ。それが悪かったのだ。酒が入ると星野はまったく真面目な話が出来ず、大月もいつも通りの自慢話に終始した。
デザートのアイスを食べながら、今日何の話をしにきたんだっけ、と星野は初めて愕然とした。一気に酔いがさめていく心地がした。
同様に大人しくアイスを食べていた大月が、ふいに尋ねてきた。
「星野、この後予定あるのか?」
「真面目な話、夜に予定なんてあった試しがない。深夜アニメは録画してるし」
「だよな。見せたいものがあるから、ホテルの部屋に来いよ」
こいつ絶対こうやって女の子連れ込んでやがる、と星野は直感的に思った。絵が見られるのかと思った女の子を餌食にして、自分の股間を見せたりするに違いない。破廉恥な野郎だ。
とはいえ、星野も話があるのだからちょうど 良い機会ではある。
「いいけど、どこ?」
「東京駅のあたり。ここから近い」
大月はやたらと高級そうなホテル名を口にした。そんなところに泊まらないで、実家が都内なんだから実家に帰れとは言えなかった。
子ども部屋が、物置と化しながらもなぜかいつまでも残っていて、いざとなれば毎月一万円の家賃で住まわせてくれるような家庭ばかりではない。大月は何も説明しないが、星野もそれは分かっていた。
東京駅の目の前にあるホテルなので、大手町からは近かった。なので歩いて行こうという話になった。
凍えるような夜で、コートの下にインターダウンを忘れた星野はポケットの中に手を突っ込んで震えた。
大月はまったく平気そうな顔をしている。一緒に暮らしていた頃、大月が熱心にジムに通ったりジョギングしたりしていたのを星野は思い出した。芸術活動には体力が必要らしいのだ。
再開発された大手町の街並みは、日本ではなくヨーロッパのようだった。夜を照らすシャンパンゴールドのクリスマスのイルミネーションが美しい。星野は己の孤独が浮き彫りになるクリスマスが嫌いなので、早く過ぎ去ってくれと願うばかりだ。
「あのさ、自分がどうして会社辞めたのか話してないよな」
「理由は聞いてない。でも、辞める一年前くらいからヤバそうな雰囲気だった。だから辞めるんじゃないかとは思ってた。辞めて良かったんじゃないか、って言わなかったか」
そんな事言われただろうか。言われたかもしれない。お前に向いている訳が無いとかなんとか。
「俺は就職活動してなくて、一度も日本の会社で働いたことが無い。学生の頃に、アルバイトをしたことがあるだけだ。だから俺が何を言っても、何も知らないくせに偉そうにするなって思うだろ?だから言わなかったけど」
でも心配してた、と唸るように言われる。
「……自分だけ仕事が出来なくて、毎日怒られるのが辛くてやめたんだ。普通の人が出来ている事が出来ないんだ」
星野は勇気を振り絞って言った。ひたすら情けないが、これが真実だった。
大月はしばらく何も言わなかった。聞こえていなかったのではないかと思う程の時間が経った。
ちょうど東京駅が正面に見えた頃、大月は突然立ち止まった。酔いを残していない白く美しい顔が、ものすごく真剣な表情をしている。金色の髪がイルミネーションの輝きを帯びて光って見える。
何もかもが眩しいと星野は思う。
「俺もお前も、他の奴に出来る事が出来ないのは今に始まったことじゃない。修学旅行にも行けなかったんだぜ。俺はもう諦めたし、お前もこれでいいだろ。それが今更何なんだ?」
違う、そうではない。自分達を一括りにすることは出来ない。大月だけが特別なのだ。
けれど、星野はそんな事はもうどうでも良かった。微笑んで友人の顔を見上げる事が出来た。
「そうかも。ありがとう」
「当たり前だ」
大月は怒ったように歩き出した。星野は後に続きながら、自分から言うべき事は言ったのだと思った。後は、聞くべき事を聞くだけである。
✳
大月の泊まっているホテルの窓から、東京駅の赤い駅舎を見下ろすことが出来た。星野は上着を脱ぐと、窓に飛びついてその景色を眺めた。
「もっと良いものがあるんだぞ。東京駅より感動する」
妙に得意げな大月は、部屋の隅から黒いポリエステルの長方形のバッグを持ってくる。バッグというよりも、黒い長方形の包みに持ち手がついて運べるようになっているという印象である。
「その前に一ついい?」
「何だよ?」
「東京駅とは大変思い出深い場所ですね、大月さん。我々は新幹線に乗ってどこかへ行こうとしていましたよねえ」
星野が持って回った言い方をすると、大月は嬉しそうな顔をさっと引っ込め、途端に気まずそうな顔になった。
「……そうだったか?」
「駅弁買ってきてくれただろ!」
「……そんな事もあったな」
大月はもごもごと言った。
「あれは悪かったと思ってる」
星野はセミダブルベッドの上の高級そうな枕を掴み、大月の顔に投げつけた。腹立たしい事に、大月は器用に避けた。
篠原にコミュニケーション能力の低さについて指摘された通り、早くも言語コミュニケーションを捨てて物理的な攻撃に移行してしまっているのだが、星野にはその自覚がない。
「悪かったと思ってるじゃねえよ!ふざけんな!しかもあれから一年以上も無視しやがって、かと思いきや突然悪気も無く話しかけてきやがって!こっちは傷ついていたんだからな!説明しろ!」
「どうしたらいいか分からなかった、だから帰ったんだよ!悪かったと思ってる」
「……は?」
「自分が自分じゃないような気がしたんだ。友達なんていた事ないんだぞ!あんなふうに人と話したことが無かったんだ!どうやって接したら良いか急に分からなくなって、怖くなって……帰った。その後気まずくて、ずっと話しかけられなかったんだ」
こいつ、何言ってるんだ。それが当時十六、七の人間のやる事か。
星野は急に脱力した。大月を無視し返すことしか出来なかった自分もまた、同じように幼稚だった。二人とも小学生レベルだ。
「……そうですか」
もっと早くに聞いておくんだった、と星野は思った。自分は何を恐れていたのだろう。
大月は星野に窓際の一人掛けソファに座るよう促した。星野がソファに腰を下ろすと、大月はいそいそと向かいにデスクチェアを引っ張ってきて座った。大事そうに抱えている黒い袋の中身が何なのか、星野には分かる気がした。
「なあ、星野が修学旅行行かなかったの、仮病だろ」
「うん」
「俺も仮病だった」
「そんな事、分かってたよ」
大月は星野から目を逸らし、ため息をついた。そのため息がどんな意味を持つのか、星野には掴みかねた。今この時の大月は、普段とは少し違っていた。いつも表に出している、自信満々で、自分勝手で攻撃的な部分以外が星野に見えても良いように、大月自身が意識しているように感じられた。
「何だ、知ってたのか。―――お前、昔、卒業したら今より楽になるって言ってたよな」
星野が頷くと、大月は横顔を見せたまま笑った。
「その通りだった。俺は日本で中学生や高校生をやるのには向いてない。でも、それだけの事だったんだ」
「そうだな。大月は高校生に向いてなかったかもしれないけど、本当にすごい奴だ」
星野は素直に褒めて、意外そうに目を合わせる大月の目を見返して言った。
「だから、一人でやっていけるだろ」
「……はあ?」
「この際言っておくけど、何度も誘われてその度に断るのは気まずいんだ。もうパリに来いって誘わないでくれ。自分はもう大丈夫だし、お前だって大丈夫だ。自分がいても、何の役にも立たないだろ。そもそも、七年近く一度も顔を合わせてなかったんだ。それがどういう事かというと」
星野は大きく息を吸った。
「お互い、いてもいなくてもいいんだよ。普通、社会人になったら毎日友達と会う事は出来ないんだし、たまに会えれば十分だろ。いつまでも学生気分でいないでくれ」
大月から反応が無い。反応を待つべきなのか迷って、結局星野は続きを口にした。
「少なくとも自分は、大月がいなくても何も問題ない」
喋る者がいなくなり、部屋は静かになった。
今、自分は間違った事を言ったと星野は思った。今、言い過ぎた。心臓がドクドクと鳴り、汗が噴き出るが、一度口にした言葉をどう撤回すれば良いのか分からない。
星野は大月が静かに、ものすごく怒っている事に気付いた。指先に強い力が入っていて、先ほどまで大事そうに抱えていた包みを握りつぶしてしまいそうに見える。星野はニコラが言っていた事を突然思い出した。
これまでの人生で一度も気にした事はなかったのだが、何故ホテルの客室には防犯カメラがついていないのだろう。もちろんプライバシーの問題はあるが、密室状態の客室内で殺人事件ないしはそれに類する事が起きかけている場合に、すぐに誰かが駆けつける必要があるのではないだろうか。
「……大月、大丈夫か?」
明らかに大丈夫ではなさそうな人間に大丈夫かどうか尋ねてしまった事を後悔した瞬間、大月はすっと立ち上がった。殺人事件もしくは暴力沙汰にならなかったとしても、怒鳴られ罵倒されて、友人関係はここで終わりになるだろうと星野は覚悟した。
大月がやろうとしている事はそのどれでも無かった。自分の持っていた黒い袋のチャックを開き、木枠のキャンバスを取り出した。大月はそれを星野に見せる事無く、それを持ったまま立ち上がってデスクの前へ行った。
大月がキャンバスを持ち上げ大きく振りかぶったので、何をしようとしているのかは星野でも分かった。
星野はこれまでの人生で咄嗟に動けた事も、機転を利かせられた事も、一度も無い。それでも、この時は何故か体が動いた。
作者本人の手によって作品が葬られ、永遠に失われてしまう事が恐ろしかった。
とにかく必死で、見境なく大月の手から絵を奪い取ろうとしていた。大月は星野を振り払おうとした。
だからそれは事故だったのである。
鈍い音の後、割れるような痛みがあり、頭から噴き出した血が涙のように星野の頬を伝って顎先から滴った。
見下ろすと早くも胸元が血で染まっている。頬を拭った指先が真っ赤でぬるぬる滑る。まったく血が止まる気配が無い。
顔を上げると、大月が蒼白な顔で立ち尽くしていた。
*
救急車で運ばれている時に星野が思い出したのは、大学時代に友人から聞いた、幼い頃に兄弟喧嘩で弟に頭を縫う怪我をさせてしまい親に激怒されたというエピソードである。まったく同じような状況だ。
母がくも膜下出血を患った事も思い出し、星野家の人間は頭に悪い事が起こる年なのかもしれないとも考えた。お祓いが必要だろうか。
篠原はこんな事を予想していただろうか。
大月と再会したタイミングが良すぎるので、篠原が大月に連絡を取ったのではないかと思っていたが、そうだとしてもこの結果を気にしないでほしいと思う。自分達が予想を超えた馬鹿なだけだ。
同乗している大月にはしょうも無い奴だという感想を抱かざるを得なかった。この世の終わりみたいな顔をして涙目で自分の手を取っている姿が、実にしょうも無く、本気で馬鹿だと思う。こんなにも頭が痛くなければ、お前そういうキャラじゃないだろと言ってやりたい。
先程から、大月が動揺のあまり色々と、かなり恥ずかしい事を口走っているのが聞こえる。ここは聞かなかった事にしてあげようと星野は思う。何しろ頭が痛い。
作家のくせに、相手の気持ちをまったく考えずに簡単にナイフのような言葉を使い、人を傷つけてしまう自分も、本当にしょうもなかった。
どうしようもない所がよく似ているから自分たちは友達で、もしかしたらお互いに必要なのかもしれないと思った。
*
そのライターの本日の取材相手は、とある若い作家だった。五、六年前のデビュー当時は話題になっていたが、ここ数年は筆を折っていた人物だ。
これまでの作品とは毛色の異なる恋愛小説を同じ版元の女性誌のウェブ上で連載し、その意外な展開がSNS上で話題になり、満を持して書籍化することになったのである。
ライターは作家との面識はなかったが、彼を担当している女性編集者の事は知っていて、以前一緒に仕事をした事もあった。この界隈では有名なやり手の美人編集である。
会議室で待っていると、女性編集者と若い作家の二人が入室してきた。編集の方は相変わらず目の保養になる美人だったが、初めて直接会う作家の方も意外な程見栄えのする顔をしている。
ただし、どう見てもその頭部から額にかけてがホチキスで留められている。
巨大なホチキスである。
ライターの目線に気付いたのか、編集が先に口を開いた。
「写真はキャンセルとお伝えしてありますが」
「ああ、はい!そうですよねえ、ジロジロ見てすみません」
作家は人見知りの雰囲気を全開にしてこちらを伺っていた。
「失礼ですが、頭の傷はどうされたんですか?」
「勢い余って、机の角に頭をぶつけてしまいました。切れただけなんですが、頭の傷ってすごく出血するので驚きました。縫う程でも無かったので医療用のステープラーで処置してもらっているんです。すみません、ニット帽を置いてきてしまって」
取材はつつがなく進んでいった。書籍化する小説の話、次回作の予定。次回作の出版はまだ未定のようだが、作家の希望としては最初の受賞作の続編らしい。これだけ時間を置いて、よく書く気になったものである。
有名な若手画家との友人関係について詳しく聞こうとすると、作家は言葉を濁した。彼は先ほどから画家の話になるたびに無意識に頭の方に手を伸ばしかけ、引っ込めるという事を繰り返しているのだが、自分では気づいていないようだ。
「いや……そうですね。びっくりするような事もありましたが……。…‥‥すみません、何でもありません!パリで暮らしていた時の話をすれば良いんですよね」
隣の編集者に冷たく睨まれている事に気付いたようで、作家は何でもないですと繰り返した。
ルームシェアの事実は事前の情報収集でも知っていたが、直接本人に聞いてみることでさらにエピソードを収集出来た。
「木原さんは、またパリで暮らしたいと思っていますか?」
「予定はないです。向こうは、日本に帰ってくるつもりのようですが……」
歯切れの悪い態度である。手放しで喜んではいないようだ。
「……ご友人ですよね?」
尋ねると、作家はまた片手を頭にもっていきかけ、それを途中で下ろして笑った。
「はい、友達です。色々ありましたけど」
色々と言うのは頭部のステープラーを指していそうだったが、軽く探りをいれても答えてはもらえない。
「彼の事はいちファンとして応援しています」
「良いご関係で羨ましいです。高校が同じだったんですよね。同じクラスだった事をきっかけに知り合ったんですか?」
作家は驚いたような顔をしたあと、視線を下にさまよわせ逡巡し、それから再び顔を上げた。
その時の笑顔を、晴れ晴れした笑顔だと言うのは語弊があるかもしれない。色々な感情がないまぜになった、それでも明るい笑顔だった。
この作家は黙っていても見栄えのする顔立ちではあるが、素直に感情を発露した時の笑顔が一番素敵なのだとライターは気付いた。
誰かの笑顔を、こんなにも美しく心打つものだと感じたのは、初めての事だった。
目を離せずにいると、作家は言葉を継いだ。
「違います。自分も彼も、修学旅行をサボっていて、それで話すようになったんですよ。修学旅行に行かなかった事を全く後悔していない訳ではないですが、でも―――そうでなきゃあいつとは一言も話さなかっただろうから、行けなかった事にも意味があったと、今では思っています」
了
月と星 あき @nozo-30
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