第17話
四
上野へ向かう道すがら、電車に揺られながら、星野はこれまで考えていなかったことに考えを巡らせていた。
パリに誘われた本当の理由が分からないのだから、戻ってこいと言われている理由が分からないのも当然だ。大月には会社を辞めた理由も話していなかった。
篠原に言われた通り、自分達はどうしてこれで成り立っていたのだろうかと不思議に思った。
*
久しぶりの上野は外国人観光客の姿で賑わっていた。冬晴れの好天で、風は冷たいが日はよく照っている。公園口の改札を出て、横断歩道を渡ってから駅の方を振り返ると、左手にスカイツリーがはっきりと見えた。
ふと、以前勤めていた会社の入っているオフィスビルから、スカイツリーが綺麗に見えた事が思い出された。蛇行する隅田川、その傍で屹立するスカイツリー、平野に広がるジオラマのような灰色の都市、遥か向こうの山脈。
我ながら、あの頃からあまりにもかけ離れてしまっているのが恐ろしくなる。
連載小説は書籍化すれば売れるのか?今書いているSFは、はたして出版されるのか?いつまで篠原が担当でいてくれるのか?
考え続けるうちに、星野の足どりは生きる屍さながらの鈍さになっていった。そんな星野とは裏腹に、上野公園内の親子連れやシニアや観光客達は、少しの憂いもなく非日常への行楽を満喫しているように見える。
大学美術館は上野公園の奥まったところにあり、そこに至るまでの短いようで長い道のりは、星野の削られやすい脆弱な精神を削りまくった。
大学美術館は、横目に見てきた西洋美術館や東京都美術館に比べると、近代的でこじんまりとした印象だった。星野は這う這うの体でロッカーに上着と荷物を預けると、目当ての展示品のある地下一階へ螺旋階段を下りていく。
地下は照明が控えめで薄暗く、人もまばらだった。衣ずれの音さえ響きそうな程静かだ。物言わぬ、しかし一つ一つ迫力のある近代日本の洋画を鑑賞しているうちに、星野は再び不安の波に呑まれていった。
具体的な書籍化の話を聞いたばかりなのに、絶望的な気分になるというのは理屈が通らない。それでも急に暗い穴を覗き込んだような気分だった。自分はここでこんな事をしていて良いのかというおなじみの自責の念が頭をもたげて、いてもたってもいられない気分になる。
いてもたってもいられないからと言って、どこへ走って何をすれば良いのかも分からないのだ。
陰鬱に足元を見ていた星野は、ふと自分が目当ての絵の前にたどりついている事に気付いた。
「でっか……」
現物の迫力は、雑誌の縮小された写真で見るのとは訳が違った。星野は目を見開いて絵を見上げた。
そして、過去の事も未来の事も考えられなくなった。悩みも不安も忘れて、絵の中に入り込んでしまったような感覚があった。
不思議な夢のような絵だ。ここちよく、観る人を解き放ってくれるような絵だ。
この絵のように、目の前の現実とは少し違う所にあるものを示せる小説が書きたいと星野は思う。それなのに、自分自身がいつも現実にがんじがらめになっている。
最初は読む人に喜んでもらえるものが書きたいと思っていたはずなのに、いつの間にか自分の人生のために書くようになっている。
無性に悔しい気持ちになって、泣きたいくらいだった。気づけば先ほどまでの沈鬱な気持ちが嘘のように消えていて、それが腹立たしい。
会って話したい。この絵のイメージはどこからやって来たのか。高校生の頃、何故自分を置いて東京へ帰ったのか。どうして居候させてくれたのか。それを全部、話してみたい。当たって砕けても良い。
「久しぶりだな」
突然後ろから聞き覚えがある声がしたので、空耳かと思った。怖いものを見るような気持ちで振り向くと、この作品を描いた人間が立っていた。
自分が普通のファンだったら腰を抜かしていただろうと思う。テレビのどっきりか何かだと思うはずだ。
数か月会わなかっただけなのに、ずいぶん会っていなかったような気がした。
大月は見た目が少し変わっていた。ブリーチしたらしく、金髪になっている。明るすぎる髪色は、一瞬、高校時代の大月に戻ったかのように見える。
「……あれ、何してんの」
星野は我ながらものすごく間抜けな声で言った。おそらく顔も間抜けな事だろう。
大月は整った顔を歪めた。
「はあ?会ってそうそう言う事がそれかよ。俺は日本人だぞ。日本にいたら悪いか?」
「悪くはないけど」
星野は黙った。もちろん、少しも悪い事ではない。顔を見られて、自分でも思いがけないほどに嬉しい。
「作者が後ろにいたから、驚いたんだ」
「……ただの偶然だろ」
沈黙が流れた。星野は戸惑いのあまり、つい先ほど目の前の人物に当たって砕けようと決意したのが嘘のように何も言えなかった。ポンコツなのである。
インタビューでどう答えていようと、大月が日本に戻り自分の作品が展示されている母校の付属美術館を訪れるというのは、十分あり得る話である。全くおかしいところはない。ただ、それにしてもタイミングが良すぎるので驚いたのだ。
「それで、何か感想は?」
大月が顎を上げて聞いてくるので、星野はようやく自分の言うべき事を見つけた。
「すごく良い絵だ。なんか、救われた。泣かされるところだった。後でサインくれないか」
大月は無言で満足そうに破顔した。その笑顔をみて星野はふと気付いた事がある。自分がこの絵を観て感動するのは、おそらく、この絵の作者が―――才能があっても周囲にはなじめず、人と同じようにすることが出来ず、孤独で苦しんでいた人間が、それでもこんな絵を描いたという事を知っているからなのだ。
*
母親の完治祝い、WEB連載開始祝い、書籍化祝い、アルバイト合格祝いをまとめてしてやってもいいと大月が偉そうに言うので、星野は遠慮なく祝ってもらう事にした。翌日、大手町に焼き肉を食べに行く事になった。
大月に出会った日の晩、星野はニコラにビデオ通話で連絡した。やり取りが可能な時間帯はあらかじめ聞いてあった。夜、星野は実家の自分の部屋で体育座りをしてスマホを覗き込む。フランスでは昼過ぎ頃の時間である。
「大月が日本に来てるんだ。今日偶然会って、すごく驚いたよ。ニコラは知ってた?」
「知ってた。ごめんね、教えるなって言われてたの」
鈍い動きの映像の口元が動いた一瞬後に、音声が届く。
「あいつ、星野がいなくなって落ち込んでたよ。かわいそうだから、最近は店に来た時は声をかけてあげるようにしてるんだ。でもさ、どうせなら私も連れて行ってくれればよかったのにね。お前は関係無いとか言いやがって、やっぱりあいつは性格悪い」
星野に会いたかったから残念、と軽く言ってニコラは笑った。深刻な口ぶりでは無いのに、ニコラが本当にそう思っているのだという事が伝わってくる。
「バイト代貯まったら、絶対に遊びに行くよ」
「本が出るんでしょ?お金持ちになって、そのお金で来てよ」
「本って今時売れないし、お金持ちになんてなれないよ」
「でも、羨ましいよ。少し寂しい」
「寂しい?」
「私と星野は同じ側の人間で、大月だけ違う世界の人間だと思っていたから。星野が大月のいる世界へ行ってしまって、私だけ取り残された気分」
蛍光灯の下で星野は画面を見つめて、しばらく黙った。
ニコラが感じているのは、例えるなら浪人仲間が受験に成功して、自分一人だけまた一年浪人が決まったような気持ちに違いない。
星野も大月を別世界の人間だと感じているのだ。だから、ニコラの言葉の意味はよく分かる。
「こんな事言うべきじゃなかったね。おめでとう、星野」
そんなことないよ、というのは違う気がした。大したことないんだとか、売れる訳ないとか、星野がそういう言い方をしてもニコラは喜ばない。
「ニコラ、もうすぐ公演開始になるんだろ。舞台頑張って。応援してる」
だから言える事はそれだけだった。それだけが、星野がニコラのために言える事だった。
「もちろん。ありがとう。星野のおかげだしね」
ニコラは緑色の目で星野を見つめたまま、白い歯を見せて笑った。画像が荒くても、強く優しい笑顔だという事はよく分かった。
「明日は大月と二人きりで会うの?」
「そうなんだ。幼馴染も誘ったんだけど、急な話だから都合がつかなくて」
「じゃあ、気を付けてね」
「何に?」
「あいつが自分の耳をそいだり、星野の耳をそごうとしないか注意した方が良いよ」
「大月はそんな事しないよ」
星野は思わず笑った。ジョージも似たような事を言っていたが、大月がそんな事をする訳がない。何故皆同じ冗談を言うのだろう。
「どうして?あいつすごく落ち込んでて、精神的にヤバそうだったよ。神経を逆なでするような事は言わない方が良いかもね」
ここまで言われると、大月に当たって砕けようと思っているのだとは星野は言えなかった。
結局、ニコラが言った事が正しかったのだが、それに気付いた時はもう遅かった。
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