第16話


 図らずしも、WEB連載の開始とアルバイト出勤の初日は同じ日だった。おかげで星野は連載の評判や反響の有無にそれほど気を取られずに済んだ。


 もし何もする事が無ければ、一日中一喜一憂して悶え苦しんでいたかもしれない。しかし六ヵ月ぶりの労働という目の前の現実の過酷さがそれを一時的に忘れさせてくれた。


 星野が自身の作家名義でのSNSアカウントを持っておらず、自力で宣伝活動をしていない事も世間と薄膜を一枚隔てているような感覚の一因だった。


 今時の作家なら自分から情報発信をするべきではないかと考え、一度は篠原に相談したが、チベットスナギツネのような目付きで一言言われただけだった。


「不用意な発言をしない事、クソリプを間に受けて落ち込み、次の執筆に支障を出さない事が約束出来れば」

 どう考えても無理だと判断した星野は早々に諦め、宣伝は出版社の力に頼る事にしたのである。


 アルバイトが始まると星野はやはり物覚えが悪く、細かい事に気付かず、言われた事が一度で理解出来ない落ちこぼれだった。こうなるだろうと予想していた事はほとんど起きて、帰り道にすすり泣いた。


 とはいえ、ある程度は次第に慣れるのだという事も分かっていた。突発的な事に対応する力は弱いが、定型的な事を覚えてこなせない訳ではないというのは、星野自身がよく分かっている。だから今回心に決めているのは、なるべく絶望しないように、何とか最初をやり過ごそうという事である。


 自分から終わりにしようとさえしなければ、たった一つの失敗で何もかも終わりになる訳では無いという事は、二年間で学習している。


 幸運な事に、人間関係の良い職場でもあった。年上の女性が多かったので、珍しがられてチヤホヤされたのである。星野と歳の近い人間は十九歳の男子大学生ただ一人で、彼はアルバイトとしては星野より少し先輩だった。


「パイセンは真面目っすね!」と「それより、どうしたらモテると思いますか?」を連発する島の存在は、職場で常に気を張っている星野にとって救いになった。


 星野はそうこうしている間に徐々に仕事に慣れていった。シフトを増やし、合間に別の小説を書き進め、WEB連載は進んでいった。時間はあっという間に過ぎて、気付けばクリスマスも目前である。


 今年の春から夏にかけてパリで暮らしていたことが、同じ一年の事とは思えない程遠く感じられた。



「実は母さんとは仲が悪い」


 大宮を過ぎたあたりで目覚めた大月が、伸びをしながら急にそんなことを語りだした。星野の肩にズッシリともたれかかり、半開きの口からよだれを垂らして爆睡していた事は無かった事にするらしい。


 星野は高校の図書館で借りたアイザック・アシモフの文庫本から目を上げた。昼下がりの新幹線の車内は静かで、穏やかな空気だった。


「芸術性の違いで大喧嘩したんだよ」

 そういう事もあるのか、と星野は内心で感心した。さすが芸術一家。バンドの解散理由みたいだ。


「おい、冗談だからな。何でも真に受けるのはただの馬鹿だぞ」

「……悪かったな」


「星野の家は?」

「仲良いよ。休みの日に一緒に出掛けたりする。二人しかいない家族で、ずっと喧嘩してるのって逆に難しくないか」 


「そうか?家に二人きりでいると、無性に嫌にならないか?二人で差し向かいでメシ食って―――すごく静かになる瞬間とか」 


 大月のような反応が普通なのかもしれないと星野は思った。自分は反抗する気力が無いし、反抗するのも申し訳ないと思ってしまい、喧嘩にすらならない事が多い。精神的に自立していないという事かもしれない。星野がそう言うと、大月はふーんと呟いた。


「食い物は何が好き?」

 急激な話題転換である。

「……お肉」

「肉って、何肉だよ」

「特に牛肉。焼肉かなあ」

 星野の家では、ごちそうと言えば焼肉だった。


「俺はイタリアン。寿司とか、和食も好きだけど」

 そして大月は、次々と自分の好きなものを挙げていった。好きな画家、音楽、映画、漫画、本、スポーツ、場所、教科。星野から尋ねてもいないのに、切れ目なく一方的に話し続ける。


「お前は?」

「自分は……」

 星野は同じように好きなものを挙げていった。大月は全然普通だなあと言った。


「普通で何が悪いんだよ。お前も普通だろ」

「そうだよ。俺って結構普通なんだぜ」

 真っ赤な髪に舞台衣装のような服を着た人間は普通ではないという言葉が出かかったが、星野は咄嗟に引っ込めた。大月はそれを察したように自分の頭をかき乱して大笑いした。


 星野は、自分は大月と仲良くなれたのだと思った。金沢に行く事がより一層楽しみに思えてきた。日本海に面した金沢では、回転寿司でさえとても美味しいらしい。大月の好みに合わせて、寿司を食べるのも良いだろう。


 だから、軽井沢に到着する前に大月が荷物を持ってトイレに立って戻ってこなかった時も、特に疑問に思わなかった。上越妙高でやっと不信に思い、トイレに探しに行った。しばらく扉の前で待っていると、サラリーマンが出てきて怪訝な顔をされてしまった。


 あいつ軽井沢で一人で下車してやがる、と気付いた時にはもう金沢が目前に迫っていて、車窓からは青々とした日本海が見えていた。



 十二月、クリスマスの数日前。新宿駅西口は平日にもかかわらず、多くの人が行き交っていた。特徴的なコクーンタワーと林立する高層ビル群を眺め、白い息を吐いて、星野は待ち合わせ場所に向う。


 都庁に近い雑居ビルの一階にある珈琲店で篠原と待ち合わせをしていた。星野が店に着いた時、篠原はもう席でコーヒーを飲んでいた。


 ネイビーのVカラージャケットのスーツ姿で、髪型もメイクも完璧にきまっている。社会不適合者の星野とは違って、絵に描いたような出来る会社員の姿なので、対面に座る事に引け目を感じてしまう程だった。


 篠原からWEB連載小説のアクセス数の推移等の説明を受けた後、紙の書籍化や電子書籍化についての話をした。二月頃の刊行になりそうだ。


 篠原はいつも通り平静な表情のように見えたが、よく見ると微妙に口角があがっている。


「情報誌のインタビューの話もありますので、よろしくお願いします。先生もすっかりお元気そうですので、良いカメラマンに撮ってもらうようにしましょう。販促になりますから」

「……あ、はい!」


 気が進まなかったが、よろしくお願いしますと言われれば星野は元気に頷くほかない。これは提案ではない、命令なのである。


「仕事の話とは関係ありませんが、よろしければ先生にお渡ししたいものがあります」

 篠原はA4が入るサイズの鞄から青いビニールの袋を取り出し、星野に渡した。中身は雑誌のようだ。


 今ここで中を見て良いのだろうかと星野が戸惑っていると、篠原はふいに尋ねた。


「先生はパリに戻りたいですか?」

「……そうですね。向こうで出会った人達と、ココちゃんにまた会いたいです。パリだけじゃなくて、フランスの色々な所を見て回れば良かったとも思っています。アルルとか、グラースとか、マルセイユだとか」

 これはガイドブックかもしれないと星野は思った。フランスが恋しいのではないかという篠原の気遣いだろうか。


「ガイドブックではありません。特集記事が興味深かったので、つい買ってしまいました。御覧になってください」


 絵画から漫画まで、幅広い分野を対象にした美術系の雑誌のようである。表紙は星野でも知っている名画で、新国立美術館で開催される企画展の特集がメインになっているようだ。星野は目次を見て、小特集が「大月レオ」である事に気付いた。作品の紹介、本人のインタビューが掲載されている。


 九月には大月から再三パリに戻れと言われていたが、何度も断っている内に大月からの連絡は途絶えた。星野からも連絡がしづらくなり、以降大月とは連絡を取っていない。こんな雑誌の特集の話も聞いていなかった。


 温かいココアを一口飲んで、星野はまず作品紹介のページを見た。大月の代表作と最新作が並んでいる。最新作を見て、驚いた。


 これは本当に大月の絵なのだろうか。

 サイズ表記からして、横長の巨大なキャンパスに描かれているらしい。よく晴れた夏の日のカフェのオープンテラスの絵だった。画面手前で頬杖をついて横顔を見せているのは黄色い肌の青年で、膝の上に大きな花束が載っている。


 大月の絵にはこれまで人物の後ろ姿すら描かれていたことが無かったのに、この絵は人物で溢れている。現実離れした夢のような鮮やかな色遣いで、これまでのような寂しさや凄まじさを感じさせる事もない。何しろ空はピンク色で、地面は薄水色、人々の肌色も髪色も様々なのだ。


 非現実的な美しい絵だった。見る者の抱える現実とは違う何かを見せて、新しい世界を見せてくれる絵だ。


 同じページで紹介されているこれまでの絵と比べて、全く違うという事が一目で分かる。これまで人一人いない寂しい絵を延々と描いていた人間が、どうしてこの絵を描くに至ったのかが不可解なくらいだ。


 どうしてここまで世界の見方を変えたのか。

 インタビューでは、もちろんそれを指摘されていた。星野は素早く文字を追った。


『高校時代の友人と、今年の春から夏にかけてルームシェアしていました。彼から影響を受けました』

『どんな方ですか?』

『何もしてない奴です。あ、間違えました、小説家です。美術的な創作活動とは一切無縁ですし、最近の私の作品に対しては理解を示してくれません』


『あなたにとってはどのような存在ですか?』

『思春期の象徴のような存在ですね』

『どのような思春期だったのでしょうか?』

『家庭でも学校でも孤立していて一人でした。高校の修学旅行にも行けなかった。仮病で休んだんです。苦しくて、突然大声で泣き叫びたいような気持と、そうしても誰も反応してくれないのではないかというような恐怖が常にあった。現実と折合いが付かず、絵を描いている時間だけ本当に生きている気がした。そういう時に彼と友人になりました』


『唯一の理解者という事になりますか』

『一緒にいると楽しくて、自分自身から自由になれる気がします。お互いの理解者とは言えないかもしれませんが、私にとってはそういう存在です』

『今も良いご友人という訳ですね』

『それは分かりません。昔の言動の罪滅ぼしの意味でパリに呼びましたが、向こうがどう思っているのか分からないので』


 最後にインタビュアーは、大月に日本に戻る予定があるかと尋ねていたが、大月は今の所その予定はないと答えていた。


 そこに書かれていたのは星野の知らない事ばかりだった。

 大月はこの話を自分にする機会がいくらでもあったはずなのに、何故雑誌のインタビューに恥ずかしげもなく答えておいて、自分には何も話さないのか。その方がずっと簡単な事に思えるのに。


 星野が顔を上げると、篠原と目があった。


 そして星野は堰を切ったように高校時代の話をした。修学旅行に行かなかった事、それがきっかけで大月と話すようになった事。金沢に行こうと誘われてついていったら途中で逃げられ、一人で寿司を食べて東京に戻った事。


 月曜、校内ですれ違った大月は星野を完全に無視していた。ある意味で、それは最初に予想した通りの事でもあった。星野は大月に問いただす勇気が持てず、同じように大月を無視するのが精一杯だった。


 高校で初めて友達が出来たと思っていたが、からかわれていただけなのだ。苦しかった。常日頃から自分はゴミのような存在だと感じていたのが、ますます、より一層強くそう感じられた。


 星野は在学中にある文学賞の新人賞を受賞し、卒業後の出版が決まった。その事は全体集会で表彰されたので、学内の全員が知っていた。


「恥ずかしいとは思いませんでした。受験シーズンでそれどころじゃなかったし、卒業すれば二度とかかわりの無い人達だと思っていたので。ただ、その頃から大月がまた自分に話しかけるようになったのが嫌で……本当に嫌で、憎かった」


 卒業後も大月は何くれとメッセージを送って来たり、たまに電話をかけてきたが、何年経っても金沢の件については説明も謝罪も無かった。


 そして星野は怒るのも、悔しいと思うのもやめた。大月があまりにもあっけらかんとしているので、馬鹿らしくなったのだ。自分には理解出来ない大月なりの事情があったのだろう、と思う事にした。


 相手は変人なんだから何を考えているのかなんて理解出来るはずがないと思い、見くだす事で、自分を納得させようとした。


「私だったら説明を求めます」

「……自分が真剣だったと告白するようで、惨めな気がして」


「先生と大月さんは、コミュニケーション能力が低すぎます。どちらもそのレベルで関係が成り立っているのが不思議で仕方ありません。大月さんは説明しないし、先生は大月さんに関心が無く、信用していない」

「関心が無い訳では……」


 篠原は大きな瞳で星野を見つめたまま表情を変えず、長い睫毛で瞬きをした。


「本当にそうでしょうか。そもそも先生は、大月さんを本当に友人だと思っていますか。もう一度フランスに行ってやりたいことを尋ねても、猫の名前は出ても大月さんの名前は出ない。大月さんがどんな思いで先生をパリに誘ったのかまで、考えていない。もしかしたら大月さんは心から先生を心配してくれていたのかもしれないのに。これを関心が無く、信用していないと言わず、何と言ったら良いのでしょか。――当時は余裕が無かったかもしれませんが、今はそのくらい考える余裕はあるでしょう」


 星野は言葉に詰まった。大月が本当に伝記を書いて欲しがっているとはさすがにもう思っていない。自分のスランプ脱出のためにきっかけを探していたのだろうか?よく分からない。


 それよりは、自分を心配していたというのが一番あり得そうな気がした。あの部屋に飾られていた花は、両手を広げて星野を迎え入れる大月の気持ちそのもののような気がした。


 けれど星野はそれを真剣に考えた事は無かった。


「説明しないのは大月さんの怠慢です。理解されなくても良いと思っているのか、説明しなくても理解してもらえると思っているのかは分かりませんが。でも、もし先生が大月さんと本当に友達になりたいのなら、一度腹を割って話し合ってみるべきです。きちんと話し合うという事は、一方的に相手を追い詰めるより、自分だけ我慢するよりずっと難しいですが、その価値があります」


「……そういう、まっとうな人付き合いをした事がないので」

 星野は蚊の鳴くような声で言った。隣の席でオーダーを取る店員の声にかき消されそうだった。


「……きっと失敗すると思います」

 篠原は笑った。それはふつう編集者が作家の前で見せる笑顔とは、ずいぶん違った笑顔だった。


「先生と大月さんのレベルでやりあったら、お互いに当たって砕ける以外の途はありません。でも、一度くらい当たって砕けてもきっと大丈夫ですよ。先生にとって砕けるに値する間柄だと思うので、一度くらい、砕けてみろと言っているんです。長々と喋ってしまい、失礼致しました」


 何故大丈夫なのかと尋ねたかったが、篠原は有無を言わさず素早く片づけを初めてしまった。篠原にはこの後も仕事があり、いつまでもここで星野と喋っている訳にはいかないのだ。


 むしろ、自分のために本来あり得ないほどの時間を割いてくれているのだと、星野はようやく気付いた。


「この後お時間があるようでしたら、気晴らしに美術館でも行かれたらどうですか。その絵は、今ちょうど上野にあるようですから」

 星野は頷き、会計を済ませて店から出ていく篠原を見送った。


 そして、一人になった星野はもう一度よく雑誌を読んだ。この最新作はまだ売りに出されていない。今ちょうど、大月の母校の付属美術館のコレクション展に貸し出されて展示されているらしい。


 パリには簡単には行けないが、上野なら山手線で一本だ。本人に会うのは先の事になりそうだから、その前にこの作品の実物を見てみたいと思った。

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