第15話
二
東京駅地下一階。銀の鈴の前に、背が高く線の細い、赤い髪の少年が立っている。
校内ではなんとなく見慣れていたが、改めて外で見ると大月がいかに整った顔立ちで、いかに変な格好をしているのかがよく分かる。
女性ものなのかハイウエストの水色のサテンのパンツを履いていて、トップスはハサミで切り刻まれたシャツだ。首には包帯が巻かれているが、怪我でもしているのだろうか。
周囲の風景から悪い意味で一人だけ浮き上がっている少年は、星野を見つけると大きな声で口を尖らせた。
「遅せえ!何年都民やってんだよ、迷うな!もう弁当買ったからな!」
「だって……」
そんな事を言われても、東京駅には数回しか来たことがない。JRではなくメトロから来たので、銀の鈴までは離れていて大変だったのだ。
しかし星野に反論の機会は与えられなかった。食えなくても文句言うなよと言われ、弁当の入ったビニール袋を押し付けられる。そして手首をつかまれて、新幹線の改札まで引っ張られていった。
グリーン車で首尾よく席を見つけると、大月は星野に窓際の席を譲ってくれた。星野の祖父母の家は前橋にあり、帰省する際も新幹線に乗る必要が無い。だから、飛行機はもとより、新幹線にもほとんど乗った事が無い。
星野が外の景色を眺めながらそう言うと、大月は興味深そうな顔をした。
「それってどっちのじいちゃんばあちゃん?」
「母方だよ。うちは、自分が小学生の頃に離婚してるから、父さんの方にはもうずっと会ってない」
大月は話を聞きながら、弁当を開封し始めている。山菜おこわと鶏おこわの弁当だった。意外と和風なものが好きらしい。
「お母さんは何してる人なんだ?」
「物流会社の事務だよ。去年やっと正社員になれたんだ」
「ふうん。俺の母さんは中学校の美術教師やってる」
「だからそんな風に育ったんだ」
「ああん?」
「いや何でもないです」
「父親は多分フランス人だってさ。なんか、夏休みにフランス旅行に行った時に知り合った男とワンナイトラブだって。変な話だよな、俺はそいつの顔を見た事が無いし、そいつは俺の人生の最初期を除いて全く関わりが無い野郎だぜ。それなのに、俺はそいつのせいでこういう外見に生まれて、他人はこの外見で俺を判断するだろ」
大月の容姿から片親は外国人であろう事は想像に難くなかったが、そんな事情は想像していなかった。そして、突然それを告白されるとも思っていなかった。
星野は大月の発生経緯について何と言っていいか分からず、フォローするように別の事を言った。
「……そんなに珍しい事でもないんじゃないかな。多分だけど。うちの父親なんて、別の家庭を作って出ていったんだ。自分には腹違いの弟がいる」
「どっちもどっちだな」
大月は屈託なく笑い、俺にもこの世のどこかに腹違いのきょうだいがいるかもしれないなと言った。
確かにそうかもしれないと星野は思った。そしてそのきょうだいは、この世のどこかで、大月の存在を知らず、大月とは全く違う人生を送っているのだ。星野と、星野が写真すら見た事の無い弟がそうであるように。
いつかどこかですれ違う日もくるかもしれないし、その時は気付くかもしれない、気付かないかもしれない。それは、そこまで悪い事ではないかもしれないと、何故かふと星野は思った。これまで、そんな風に考えた事はなかったのだが。
「星野はアートに興味あるか?」
「考えたことない。大月の絵はすごいなって思ったけど」
美術の成績は良くも悪くも無かった。実技が壊滅的な所をペーパーテストで補って、いつも真ん中くらいの成績だ。テストのために興味の無い知識を暗記して、テストが終われば忘れる。休日に家族で美術館へ行くような上品な家庭の生まれでもないし、美術館に行こうと誘われるような交友関係を持ったことも無い。
大月はおこわを咀嚼しながらニッコリ笑った。頬に米粒がついている。
「美術館に行く事は、全然お上品なんかじゃないぞ。これまでに見たことが無いものを見せてくれるのがアートなんだ。この世界の普通を忘れさせてくれるのがアートなんだ。すごく面白いから、勉強してみろよ」
「お母さんの受け売り?」
「違う。これは俺の持論」
星野が大月の絵を見た時に思ったのは、普通に生きていると忘れてしまう感覚を呼び起こすような絵だということだ。
暗い気持ちで通学して、誰とも話さずに授業を受けて、図書準備室で昼ご飯を食べて、授業が終わると帰宅して洗濯物を取り込んで風呂を洗って生協から届いたパウチに入った煮魚を湯煎して出すような夕食を作る毎日で忘れていく気持ち。人間的な感情。
大月の言った「この世界の普通を忘れさせてくれる」とは、そういう事だろうか。
星野が真面目に質問すると、大月は黙り込んでしまった。白い頬に赤味が差しているように見えるが、気のせいだろうか。
「……俺、もう寝るから」
話の流れを無視して一方的に宣言した大月は、星野と反対側を向いて寝始めてしまった。突然放り出された星野は何となく釈然としない気分のまま、一人で弁当の残りを食べた。
社内販売のワゴンを押したパ―サーが売り口上を述べながら歩いてくるのを見ていると、ふいにこちらに顔をそむけたままの真っ赤な後頭部から声がした。
「高校、早く卒業してえな」
寝たフリかよ、と星野は思ったが言わなかった。何となく茶化すことの出来ない声だった。
「自分も早く卒業したい。卒業したらきっと……」
早く高校を卒業したいとずっと思っていた。けれど、それを人前で実際に口にするのは初めてだった。星野はそう言った自分の声があまりにも切実で、少し震えているという事に気付かざるを得なかった。
「……きっと今より楽になる」
高校生でいる事より、大学生や社会人でいる事の方がずっと楽に違いないと思っていた。大学生や社会人にも相応の辛さはあるかもしれないが、少なくともクラス制ではなくなるのだ。大勢の同い年の人間と、一つの教室の中で一緒に過ごさなくても良くなるのだ。
星野は奨学金を借りて私大に進学するつもりである。同じ大学の同じ学部の人間というのは、似ている人間が多いものだと母が言っていた。だから、そこでなら友達が出来るかもしれない。学校も楽しいと思えるかもしれない。
「どうだか。隣の芝生は青く見えるってやつじゃねえの」
「……そうかな」
そうかもしれない。自分は、修学旅行をサボったような奴だから。
それを考えると、急に酸素が薄くなったかのように息が苦しい。
その時ふと、初めて疑問に思った。
大月が風邪を引いて修学旅行を休んだというのは本当だろうか。この四日間、一度でもせき込んだり、ダルそうな様子を見せたことがあっただろうか。
*
遥の手術は無事に成功した。術後一週間は入院して経過観察をしていたが、後遺症は見られず、リハビリの必要もないと判断され退院となった。
何もかもうまくいったことが信じられないくらいだった。嬉しくて病院の廊下で泣いていると、実の母親に「あんたはいつまでも泣き虫ね」と言われて馬鹿にされた。
手術から二週間後、遥は会社に復帰した。星野は実家に戻って遥の代わりに家事をし、連載予定の恋愛小説を書き続け、それは九月中旬には完成した。
『おめでとう。お母さんの事も、良かったな』
耳元のスマホから、ずいぶん久しぶりの大月の声がする。
重苦しい湿気に包まれた晩夏の黄昏時、JR池袋駅の山手線のホームには次々にグリーンとシルバーの車体が訪れ、去っていく。
こういう風景を見ていると、星野は自分が日本に戻ってきたという事を実感する。
これが自分の現実だ。自分はこの息苦しい精巧な社会の中の一員なのだ。中学ではいじめられ、高校ではぼっちで修学旅行に行けず、新卒二年目で会社を辞めた無職に近い作家、それが自分だった。
大月の属するアートの世界とも、ニコラが憧れる演技の世界とも無縁の存在だ。
パリから戻って以降、母親の手術や退院など色々な事があった。そんな中で、星野は自分の考え方が変わった事を実感していた。
人生は一度しかない。普通か特別か、そんな考えに囚われているのは勿体無い気がした。
自分が本当にやりたいことを、一つだけ、星野はずっと前から知っていた。誰かにやれと言われた訳でもなく、自分で勝手に始めて、続けたいと願っている事を。
どんな風に生きても苦しいなら、今はそのためにやれる事をやりたかった。
パリでの生活は今となっては夢のようだ。今になってやっと、未来に「勿体ない」と言われた事が理解出来る。
きっとあんな経験はもう二度と出来ないだろうと思う。
乗車案内のアナウンスが蝉の声と張り合うように響いている。まだ帰宅ラッシュには早く、次々とやって来る電車も満員ではない。
こうして何本か見送っても、時間には余裕があった。大きな書店に立ち寄りたくて、約束の時間よりかなり早く家を出ているのだ。
「ありがとう。ひと段落ついてホッとした。そろそろ連載が始まるんだ。篠原さんが記念に呑みに行こうって誘ってくれて、今日これから新宿のビアガーデンに行くよ」
西新宿の夜景が良く見えるデパートの屋上のビアガーデンだ。篠原が奢ってくれるらしい。
前半の内容はほぼそのまま、後半のプロットを作り直した。指定された条件は満たしつつ、SF風の展開を見せて意外性のある出来になった。
結果として、自分らしくなったと思っている。現実から乖離した状況の中で人間がどう行動するかを書くのが自分は得意であるという自信があった。そういう状況の中に置いてみて初めて、主人公二人の恋愛を真実味を持って書けたと思った。
こういう風に話を変更しようと思えたのは、ニコラのための台本を書いた事が大きい。
『いつからそんなに仲良くなったんだよ』
「自分には友達が少なくて、こういう時に喜びを分かち合える人間が少ない事を気遣ってくれているんだと思う」
電話口で噴き出す声がする。
『パリに来たら俺だって祝ってやる。最初に行った店より、もっといい店予約するぞ。ビアガーデンなんて、ほぼ席代みたいなもんだろ。料理は少ないし、美味くないし、酒は薄めてあるし』
「偏見じゃないか?どうせ、学生の頃に安くてしょうもないビアガーデンに行ったんだろ。ていうか、ほぼ席代だとしても別にいいんだ」
星野はビアガーデンに行った事が一度も無かったので、篠原が誘ってくれた事に感謝していた。たとえ熱帯夜でも、新宿の夜景を見ながらビールを飲むというのは想像するだけで楽しそうだ。大月の言う通り、ほぼ席代みたいなものだったとしても。
「パリにはしばらく行かないよ。ココちゃんの面倒、よく見てやってくれよ」
大月が黙ったので、白線の内側までおさがりくださいという駅員の注意がはっきりと聞こえた。今回の電車から降りる人の数は、一本前よりも多い。学生が多いが、勤め人の姿も増えてきた。
『……あの女が寂しがる』
「あの女って、ニコラ?ニコラとはずっと連絡取り合ってるよ。そうだ、ニコラがオーディションに合格したんだよ!あの子が主役なんだ。大月は接点無いから知らないだろうけど」
『店で顔は見てる』
「ニコラは自分でお金貯めて日本に来るって言ってた。自分も、まとまった貯金が出来るまでパリには行かないよ」
『貧乏臭いこと言ってんじゃねえよ。往復の交通費くらい出してやるって』
「そういう問題じゃない。日本に戻った時のチケット代も、ありがとう。返したほうがいいか?」
いらねえよ、という不機嫌な声がする。今回はその言葉に甘えさせてもらうにしても、さすがに今後の渡航費まで大月に出してもらおうとは思わなかった。
未来には気にしないように言われたが、さすがに物事には限度がある。自分はもう元気で、これからは働くのだから、行きたい所があるなら自分で貯めたお金で行くべきだ。
大学の卒業旅行だって自分のアルバイト代で行ったのに、いつまでもこの体たらくでは、あの頃の自分に唾を吐きかけられること請け合いである。
「実家の近所の郵便局で、郵便物の仕分けのアルバイト始めるんだ。この歳で、男で、変かな。でも生活にリズムが作れるし、ちょっと体も動かせるし」
ハローワークの担当者は、そんなことをしている場合ではないと言っていた。まだ第二新卒としてやり直せますよと、熱心だった。今時の人はすぐに転職するから二年目で辞めるのも珍しい事ではない、その年齢なら正社員の求人もたくさんある、未経験の事にも挑戦出来る。出版不況の今、専業作家は少ないのではないか。
何もかもその通りだ。しかし、星野は一年間はこれでやり通す気でいた。何とかならなかったら、その時にまた違う道を考えよう。
意外な事に、遥もそれを許してくれた。今後も格安の家賃で実家に住まわせてくれるというのである。
星野がそう言うと、大月はまたも黙り込んだ。
揃いのジャージを着たむわっと汗臭い学生の群れが、星野の後ろを通り過ぎていく。巨大なスポーツバッグが星野の背中に当たるが、背負っている学生は気づいていないようだった。この後カラオケ行こうぜ、宿題やった?そんな会話が交わされている。
学生時代、勇気を振り絞って運動部に入ればよかったのかなと星野は思った。超運動音痴なのでまるで戦力にはならないだろうし、部内カースト最底辺としていじめられていたかもしれないが、仲間が出来るチャンスだってあったのかもしれない。放課後にカラオケ行かないかとか、ファミレスで一緒に宿題やらないかと誘ってくれるような仲間が。
『……郵便局で仕分けのバイトをやることに必然性は無いだろ。ワーホリ申請して、こっちで日本人が経営してる寿司屋かどこかでバイトでもしたらどうだ。うちに住めば良い。部屋もそのままだし』
日本語の資料を探したければ日本で探すのが一番手っ取り早い。星野の語学力で英文を解読するより、ずっと早く調べ物が出来る。それにまだ母親が心配である。星野はごく当然の事と思われる理由を説明したが、大月は納得しなかった。
ずっと外で立ち尽くしているので、体が汗ばんでくる。篠原は臭いと口には出さないまでも、顔をしかめるかもしれない。あの人は不潔が大嫌いだ。そろそろ、涼しい車内に避難したい。
「じゃあそろそろ時間だから、行くな」
空はすっかり藍色に変わっていた。気づけば、西武池袋デパートの看板がライトアップされている。
『いいから、戻ってこいよ。星野がいないと俺の製作が滞る』
ものすごく渋い声で言い募る大月に、星野は思わず笑ってしまった。
「自分なんていてもいなくても関係ないだろ。母さんの事も、自分の事も、心配してくれてありがとう。じゃあまたな」
星野は通話を切り、次の電車を待つ列の最後尾に並んだ。あっという間に夜を切り裂くヘッドライトを輝かせた車両がやって来て、星野を次の場所へと運び去っていく。
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