四部 元作家、帰る

第14話

四部 元作家、帰る



 十七時を過ぎ、チャイムが鳴った。それで終わりだった。


 修学旅行の最終日は何事も無く過ぎた。土日を挟み、月曜からはまたいつも通りの日常が戻ってくるのだ。


 修学旅行に行かなかったお陰で、四日間こんな風に過ごせたのだと星野は思った。その代わりに失ったものについて、今は考えたくなかった。


「辛気臭い顔してんじゃねえよ。腹でも痛いのか」


 得たものといえば、クラスメイトだった去年は一言も口を利かなかったこの変人との交流くらいだ。けれど星野には予感があった―――月曜に校内ですれ違っても、大月は星野を無視するだろう。もしくは、一瞬気まずく目を合わせても見なかったフリをする。


 そういうものだ。


「星野、今週の土日暇?」

 立ち上がった大月が思い出したように言った時、星野は驚いて言葉が出なかった。


「……暇だけど」

「金ある?」

「無い!」

「金沢行きたくないか?」


 星野は生まれてこのかた海外旅行どころか関東から出たさえ無く、金沢に行った事は無かった。東京から北陸新幹線で行けるという事は知っているが、それだけだ。


 授業終わりの生徒たちが何人か図書室へ入って来る。他学年の生徒たちは、赤い頭の大月を物珍しそうに見ている。


「俺のばあちゃんの家があるんだ。物心ついてから会ったことはないけどな。沖縄行けなかった腹いせに、ババアの面でも拝みに行こうかと思ってさ。金沢21世紀美術館にも行ってみたいし、日本海も見たい。古いけど広い家らしいから、タダで泊めるくらいはしてくれると思うぞ。一緒に行くか?」


「どうして自分が行かなくちゃいけないんだ?」

 口では精一杯つれなくしながら、星野は必死にお年玉貯金の残高を思い出そうとしていた。


「そりゃお前、修学旅行に行ってねえ奴同士だから誘ってやってんだろ」

 大月はニッと笑った。


 遊びに誘われるのは、高校入学以来初めての事だった。祖母の家に行かないかなどと誘われるのは、生まれて初めての事だった。 


 星野は気づくと頷いていた。


 

 酷い気分だった。 


 星野は薄暗いアパルトマンの廊下で立ち尽くしていた。仕事でミスをした時や、白石に駄目出しされた時に感じたショックなど、ほんの些細なものだったのだと思い知る。


 つい数秒前まで、大月と昼食を食べていたのが嘘のようだ。近頃の星野は生活への気力を取り戻し、この家の家事全般を担当するようになっていた。今日の昼食も、星野の手作りだった。


 料理をして大月に喜んでもらうと、大きな達成感を得られた。些細な事かもしれな

いが、自分には何かを成し遂げる力があるのだという事を思い出す事が出来た。


「くも膜下出血?」

 今ここにまっすぐ立っているはずなのに、足元の感覚が無い。突然平衡感覚が失われて、どこが床なのか、壁なのか、天井なのか、分からない。


『そう。頭痛持ちでもないのにずっと頭が痛くて、おかしいなと思って脳神経外科のクリニックに行って検査してもらったら、くも膜下出血だったの。総合病院に入院して手術する事になったから。本当に、早く病院に行って良かったわ』


 星野の母、遥はあっさりした口調で続けた。星野は、プチプラコスメと流行りのグルメが大好きな母親に、新大久保や原宿を連れ回された高校時代の日々をありありと思いだした。 


 当時は面倒くさいとしか思っていなかったが、今思えば、友達のいない星野が土日に家にこもってばかりいるのを心配して連れ出してくれていたのだ。


「すぐにそっちに行くよ」

『今、パリのお友達の家にいるんでしょ?未来ちゃんから聞いてるわよ。あんたってホント親に何も言わないんだから。パリに住んでる友達って、いつの友達よ』


「ごめん……」

 東京で普通に再就職していればよかった。四月に無職になってから八月の現在に至るまでの歳月、自分は何をやっていたのだろう。母さんがこんなことになっているとも知らず、パリで何をしていたのだろう。


『珍しい経験が出来て、良かったわね。東京で会社勤めする事だけが人生じゃないわよ。そのために大学行かせた訳じゃないんだから。でもまあ、来てくれるなら有難いわ。あんたって車の運転出来たわよね』


「免許はあるよ。すぐ帰るから」

 そして通話は切れた。星野はしばらくスマホの画面を見つめ、それから震える指でくも膜下出血について調べ始めた。


 くも膜下出血とは、脳の動脈に発生した瘤から出血している状態の事を指すようである。脳動脈瘤の発生の原因には高血圧、喫煙、過度の飲酒等があるが、星野の母のようにそれらに該当していない人間にも突如起こりうる。手術では頭蓋を開けて瘤を取り去るが、術後に死亡したり後遺症が残るケースも多いらしい。


 小学生になったばかりの頃、人はいずれ死ぬという事を理解して、恐ろしかった。死んだ人間はどこへいくのか、永遠の無になってしまうのか、しばらくは気に病んでいた。

 

 しかし、次第に死後を心配する事に疲れ、中学生になる頃には死よりも生の方が恐ろしいものだと思うようになった。


 けれど、それはあくまでも自分自身についての話だ。突然母が永遠に喪われ、この世から家族が一人もいなってしまうという想像は星野の体から力を奪った。


 とっくに成人しているのに、母のいない世界で自分一人どうやって生きていくのか、途方に暮れる程分からなった。


 気付くと、足元にココがいて星野の足に熱心に体をこすりつけていた。大月が背後に立っていることにも気付いたが、それがいつからなのか、どういう気遣いによるものなのか、星野は考える事が出来なかった。


「星野、大丈夫か?」

「母さんが病気みたいで……すぐに日本に帰るよ」

「ちょっと聞こえてた」 


 それなら何故わざわざ聞くんだろう、と星野は思った。今はただ口を動かす事すらこんなに大変なのに。


「航空券は買っといてやるから、早く荷物まとめろよ。持って帰れない分は送る。聞いてるか?大丈夫か?」

 星野が何も言えないでいると、大月に肩を揺さぶられる。


「星野の家も一人親だろ。早く帰ってやれよ。何か困った事があったら、俺に相談しろよな。金の事でも、何でも。聞いてるか?」

「聞いてる」


 聞いていなかったし大丈夫でもなかったが、星野はとりあえず頷いた。大月はそれをお見通しらしく、どうしようもないと言いたげな顔をしていた。


 星野はその日の便で日本に戻った。どうやって自分が空港まで行き、スーツケースを預け、搭乗口まで辿り着いたのかほとんど覚えていない。大月がギリギリまで一緒だった事を覚えているので、おそらくは大月が段取りをしてくれていたのだろう。 


 大月にもココにも別れの挨拶をしなかったという事に気付いたのは、機体が雲の上に到達した直後のことだった。



 星野が東京に戻ってから二日後、手術は速やかに行われた。人生で初めて手術に付き添った星野が知ったのは、星野と遥にとっては人生の一大事であることが、この病院では一日に何回も行われる手術のうちの一つでしかないという事だった。


 星野の生物学的な父である人は平日は仕事があると言い、来なかった。群馬の祖父母は、祖父のぎっくり腰のせいで来られなかった。


 星野は当たり前のように一人で手術が終わるのを待つ気でいたが、その時間に思わぬ同伴者がいてくれることになった。


 手術が始まると、待合室の中で星野は黙って時計の針だけ見つめていた。

 口を開いたのはしばらくしてからである。


「未来ちゃん、どうしてついて来てくれたの」

「当然。友ちゃんママには小さい頃からお世話になってるし、友ちゃんの事もほうっておけないでしょ」


 そうだろうか、と星野は思う。これはけして当然の事なんかじゃない。


 有休を取って来てくれた未来は、昔と同じ笑顔で微笑んだ。抜け感のあるメイクも、白のスキッパーシャツに明るいチェック柄のワイドパンツも、高校生の頃の野暮ったさの欠片もない今時の女性らしいものだった。


 けれど、顔をくしゃくしゃにした笑顔や、笑うと前歯のすきっ歯がのぞくところ、真っ黒で艶々した髪は昔と少しも変っていない。星野の好きだったところはすっかりそのままだ。


 不思議な事に、同じ高校に通っていた時より、卒業後の方が未来と親しくする機会が多かった。デビューして自信がついたからなのか、同級生という枠組みが無くなった事で卑屈な気持ちを抱えずに済むようになったからなのか、自分でも分からない。


 それでも、どうして未来が今日ここへ来てくれるのか、星野には分からなかった。限りなく狭い交友関係しか持たない星野にとって未来は重要な存在だが、未来にとっての星野など取るに足らない存在のはずだ。


 星野には分からない事をきちんと分かっていて、誰かのために行動出来るのが未来だった。そういう所が、眩しかった。


「そうだ、レオはどんな感じだった?」


「元気だったよ。高校の頃とは違って……普通の人間っぽい格好をしてる。中身も多少は落ち着いたかな。そういえば、金に困ったら俺に言えみたいなムカつく事言ってたな。ちょっと見下されている気がした」

「あはは。それは本気の親切のつもりで言っているんじゃないかな。レオは友達少ないから友ちゃんに恰好良い所見せたいんだよ」

「……二ヵ月以上も居候させてもらってただけで十分だよ」


 普通に考えて、同い年の人間が同い年の他人の衣食住を数か月も面倒を見るなんておかしな話だ。星野に、どうしても働けない不幸な事情がある訳でもないのに。


 星野がぼそぼそと言うと、未来は笑った。共通の知人である大月の話をしていると、母親の手術の事を考えなくて済む。だから未来はこの話題を続けてくれているのかもしれない。


「友ちゃんは真面目馬鹿だね。レオが誘ったんだから、そんなこと気にしないで押しかけてやればいいんだよ。もしかして、せっかく長い間パリにいたのに、どうして自分は働いていないんだろうとか、こんなところで何してるんだろうとか、早く小説を書かなくちゃとか、そんな事ばっかり考えて過ごしてたの?」


「……考えてた」

 星野は肩を落とした。真面目馬鹿と言われたことが少しショックだった。


「そっか、勿体なかったね。でも、友ちゃんらしいなあ」 


 友ちゃんらしいとはどういう事だろう。思わず未来の顔を見ると、未来は真面目な顔をした。


「友ちゃんの両親が離婚したのって小学校六年生の時だったよね。あれから友ちゃん、引っ越したんだもんね。友ちゃんママは契約社員で働き始めて、正社員になれたのは私達が高校生の頃くらいでしょ。だから友ちゃんにとっては―――大人になって働ける年齢の自分が働いていない事って、すごく罪悪感なんだろうなと思って」


「……そうかも」

 未来の言う通りだった。星野家はずっと貧乏だったので、星野は今現在の自分が無収入で働いていない事に罪悪感と恐怖がある。


 自分は過度に怯えているのだろうかと、星野は初めて疑問に思った。今の自分と同じ状況にあっても、例えば安定した収入のある両親が健在であるような人は、これを機にヨーロッパで心機一転して新しい人生を始めたりするのだろうか。


「ついでに、もう一つ言ってもいい?友ちゃんはもっと周囲の人に頼った方が良いよ。自分には友達がいないって思い過ぎるのは良くないよ」

「え?」


「私という幼馴染だっているし、もちろんレオも友ちゃんの友達だよ。だから、困ったら頼らなきゃ。あいつの事を同い年の他人なんて言い方、どうかと思うよ」


 大月を素直に友達と呼ぶのには抵抗があったが、星野は言葉を飲み込んだ。未来に笑い飛ばされるような気がしたからだ。そして、未来が正しいのだという事を本当はどこかで自分も分かっている。


 だから代わりに違う事を言った。


「未来ちゃん―――高校の修学旅行、行かなくてごめんね」

 未来は虚を突かれた顔をした。そして、破顔した。


「それ、流行ってるの?最近レオにも同じ事言われたなあ。そんなの超前の話じゃん。前前前世だよ。あれ、これちょっと古い?」

「うん。でも、ずっと謝りたかったから」


 謝りたかった。それがどういうことか知っていた。どういうことか知っていて、行かなかったからだ。


「友ちゃんが修学旅行行かなかった事と私って、何か関係ある?」

「あるよ」

「あはは、関係無いよ。別に良いのになあ。もしかして友ちゃん、沖縄に行きたくなったの?」


 友ちゃんとレオの失われた修学旅行を取り戻しに、みんなで沖縄に行こうか、と言って未来は小声で笑った。


 それがあまりにもいつも通りの笑顔なので、本当に気にしていなかったのか、今はもう気にしていないという事なのか、星野には分からなかった。


 星野は未来の強さに寄り掛からせてもらうことにして、一緒に少し笑った。そして、唯一の家族である母の手術が終わるまで、二人でそこで待っていた。


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