第13話


 三人でジヴェルニーへ行く日は、珍しく夏の雨の日となった。朝八時、星野と大月と篠原が外へ出た時にはすでに、白っぽい薄曇りの空からパラパラと小粒の雨が降り注いでいた。


 パリのサン・ラザール駅からノルマンディーのヴェレノン駅までは、約四十五分の鉄道の旅である。ヴェレノン駅からモネの家と庭までは、さらにバスで二十分だ。


 鉄道の車窓に細かな音を立てて雨が当たっている。四人掛けのボックス席に篠原と大月が並んで腰かけ、向かい側に星野が一人で座っていた。


 雨音に紛れるように篠原と大月の会話が静かに交わされていたが、星野はそれに参加せず一人で物思いに耽っていた。


 昨日オープンテラス席で恥も外聞も無く泣いた後、妙にすっきりとした気分だった。夜中、ベッドで目を閉じながら台本のストーリーを考え初め、明日はジヴェルニーだぞと自分に言い聞かせて何とか眠りについたのだが、空いた時間が出来るとつい台本の事を考えてしまうのだ。


 篠原と大月はここ数日行動を共にし、ずいぶんと仲良くなっているようだった。篠原は年下のイケメン画家が満更ではないらしく、星野と話す時より格段にソフトな声色を操っている。大月もまた、篠原には他の人間と接する時よりも敬意を払っている。


「ココちゃんはとっても可愛らしいですよね。どうして大月さんは猫を飼っているんですか?猫が好きなんですか?」

「愛護団体の譲渡会で貰ってきました」

「それは自発的に?」

「動物を描けるようになりたかったし、自分以外の生き物が同じ部屋にいるのは気が休まります。今は星野がいるけど、その前は一人でしたから。そうだろ、星野。星野?」 


 星野は名前を呼ばれ、キョトンとした表情で顔を上げた。車窓から覗く景色は都会から夏の花の咲く田園地帯へと移り変わろうとしていた。


「……ごめん、何の話?」

「初めて三人で出かけるんですから、少しくらい協調性を持ってください。だから友達少ないんですよ」

「すみません」


 その後、星野は何とか二人の会話に集中しようとしたが、やはりふとすると意識は台本のストーリーへ飛んでいくのだった。



 ジヴェルニーに到着しても雨は止まなかった。同じ観光名所を目指し、列になって歩く観光客達が差した色とりどりの傘に、パラパラと音を立てて雨粒がはじかれる。 


「ここから、モネの庭ですよ」

 大月の言葉に反応して、星野はやっと目の前の現実に意識を戻した。


 たくさん花の咲いている野原だ、と言うのが第一印象だった。しかし、庭と言うからには人の手が入っているのだろうとぼんやり思う。


 辺りを見回しているうちに、星野はやっと空の広さに気が付いた。視界を遮る高い建物のない空だ。草花が高く生い茂り、濃い土の匂いがする。背の高いひまわりの茎に、水滴が滴っている。赤く燃えるようなポピーの花弁が雨の重みで震える。風が吹くと、一斉に葉が揺れる音がする。


 誰かの美しい夢のような場所だと思った。

 そして三人は長い緑のアーチの下をくぐり、モネの家を目指した。


 緑に埋もれるようにして建っている家は、紺色の屋根と鮮やかな緑色の窓の桟が美しかった。各部屋で壁紙や家具が色分けされていて、女性の部屋はピンク、ダイニングは黄色、台所は水色になっている。


 日本画とモネ自身の絵が大量に飾られた居間を見ていると、星野はやっと感嘆する気持ちが湧いた。かつてここで暮らしていた画家が感じた光や風を、自分たちは同じ場所で追体験しているのだ。


 その後、睡蓮で有名な池と太鼓橋を見に行くことになった。篠原は傘を差し、雨など気にしない様子でまくしたてている。


「とても可愛いお家でしたね。こんなところに住みたいです。今日は雨ですけど、おかげでちょっと人も少ないですし、本当に良かった」

「喜んでいただけて良かったです」


 相変わらず大月はまともオーラを振りまき、愛想笑いまで浮かべていた。普段の星野であれば信じられないとか蕁麻疹が出そうとか色々な感想を抱くところだったが、今は違っていた。



 7歳の誕生日、ニコラには双子の妹が出来た。それは父親の経営する企業が製造したヒューマノイドだったが、ニコラはその事実を理解していなかった。


 自分と瓜二つの容姿をした表情の乏しいロボットを、発達の遅い双子の妹だと認識して(だからこの年になるまで病院で育てられていたのだろう)、その時からもう彼女を愛していた。


 それはロボットの人工知能がどこまで人間的な情緒を取得出来るかという実験だった。そのためにニコラはその妹と一緒に育てられる事になったのである。


 喜ぶニコラとは対照的に、母親は曇った表情で二人を見つめていた―――これはニコラの成長に悪い影響を与えるのではないかと懸念していた。


 二人は一卵性の双子のフリをして同じ学校に通った。長ずるにつれ、ニコラはジョゼという名前の妹がロボットであることを理解したが、それでもまだ愛していた。ジョゼはニコラ自身よりも完璧な理想のニコラで、そうでありながらニコラの言う事には何でも従う存在だった。


 ジョゼはニコラの虚栄心を満たし、自己愛を満たし、支配欲を満たしてくれる。

自分にとってこのジョゼ以上に愛すべき存在がいるだろうか?


 ニコラの十六歳の誕生日に、別れは唐突に訪れた。

「この実験は失敗だった。自分の手でジョゼを壊しなさい。それが、お前が一人の、一人前の人間になるのに必要な事だ」


 ニコラはジョゼと名付けたロボットの、自分自身と同じ顔を見た。ジョゼはいつもと同じ無表情で、ニコラが命令するのを待っていた。ジョゼを壊す事は出来ない。ここから逃げなくてはならない。



「大丈夫か?」

 星野は横から肩を叩かれ、我に返った。傘を落としかけ、慌てて柄を掴み直す。


 ザアッと音を立てて、竹林が生暖かい風に揺れた。紺色のウィンドブレーカーを羽織った大月が隣にいて、星野を見下ろしていた。


 しだれ柳が池の水面に影を落とし、今が盛りの白い睡蓮がけぶるような雨の中咲いている。


 三人はモネの水の庭園に来ていた。篠原は一番良い場所から太鼓橋を撮影したいと言って観光客の群れの中に消えてしまったので、星野と大月で帰りを待っているところだったのだ。


「お前、モネに興味無いよな。ジヴェルニーじゃなく、モン・サン・ミッシェルに付いて来ればよかったんだ。オムレツ美味かったぞ」

「いや、モネは好きなんだけど、他の事を考えてて……」

「仕事か?」


「あ、その…‥‥いや、ニコラに頼まれて、彼女が一人芝居するための短い劇の台本を考えてたんだ。劇の台本なんて書いた事無いから、とりあえずショートショートのような短編を書こうかなと。……愛を題材にして」


 星野は自分が仕事とは全く関係ない事に没頭していた事に気付き、しどろもどろに弁解した。その様子を大月は笑って見ていた。


「愛だの恋だの忙しいな。同じような内容なら仕事の方から先に手を付けりゃいいだろ。篠原さんも喜ぶぞ」

 突然吹き付けた雨風に髪が乱れ、髪の毛が顔に張り付くのを払いのけようともせずに星野は必死で言いつのった。必死になるのは、もちろん後ろ暗いからである。


「いやいや、分かってる!それはもちろん分かってるよ!社会人として物事に優先順位があるって事は分かってる。…‥でも、目の前で困ってるニコラを助けてあげたいだろ。これを書き終わるまで待っていてほしいなんて言えないよ。それに、恋愛ってテーマだと考えが深まらないけど、愛は広義だから考えやすいんだ。主役のキャラクターもはっきりしてるし。演劇の古典といえばシェイクスピア。自分は、SFとロボットが好きだろ。そういう連想が…‥‥」


「よく喋るな。楽しそうだな」

 星野は目を見開いた。楽しい?


「良かったな、パリに来たかいがあっただろ。俺に感謝しろよ」


 そうだろうか。そうかもしれない、と初めて星野は思った。目からうろこが落ちたような気分だった。


 透明な傘を差した大月が、得意げな顔で嬉しそうに笑いながら自分を見下ろしている。雨音はバラバラという大粒の音に変わり、傘を差していても顔にまで水滴がかかるようになってきた。


 大月のその表情を見て、星野の口は緩んだ。ここが画家の愛した美しい庭で、こんなにも夏の雨が降っているから、妙に非現実的な気分になったのかもしれない。


「なあ。未来ちゃん、高校二年の時クラスでハブられてただろ。大月も知ってたか?」

「知ってた。それを言うなら俺なんてほぼ三年間ほぼ全校生徒からハブられてたけどな」


 そういえばそうだなと星野は思った。それもそうだ。そして自分も、入学してから卒業するまで友達ゼロだった。


「マジでキモイって思われるのは承知の上で言うんだけどさ、恋愛小説を書くに当たって、人を好きになるとはどういうことなのか真面目に考えてみたんだ。自分は高校生の時、未来ちゃんの事を好きだったのかどうか。好きなら、未来ちゃんのために修学旅行に行ったはずだろ。だから自分は、未来ちゃんの事が好きではないんだと思ってたけど―――でも、必ずしもそう考えなくても良いんじゃないかって気がしてきたんだ。自分はそれでも未来ちゃんの事が好きだったんだ」


「そうかよ」

 大月の適当な相槌に傷つきながらも、星野は喋り続けた。


「なんかさ、これって歳を取ったって事なのかな。意外と、もう七年も経ってるんだよな。自分はどうしようもないヘタレだけど、それでも好きだったって事で良いんじゃないかと思えてきた」


 未来が好きだった。好きだったが、自分可愛さが勝り、修学旅行に行かなかったのだ。そんな情けない自分を認めるのが苦しくて、ずっと考える事から逃げていた。


 あの頃はたった一人の少女を守るために世界を敵に回すとか、そういうストーリーに憧れていた気がする。自分はそういう人間にはなれなかったが、それでも人を好きになれない訳でも、好きになってはいけない訳でもないだろう。


「残念だったな。あいつ今、銀行員の彼氏がいるぞ」

「いや、そういう話じゃなくてさ。ていうか彼氏いるんだ……何で大月が知っていて、自分は知らないんだ……」


 はあーっと星野は長い溜息をついた。大月には、こんなどうしようもない気持ちは分からないに違いない。


 池の水面にいくつもの水紋が現れては、新たな雨粒にかき消されていく。土や草の匂いより、水の匂いが鼻孔を満たす。早く篠原を探して帰った方が良いかもしれないと思った。


「こんな話、興味ないよな。大月先生は人を好きになるというのはどういう事か、よく理解していらっしゃるから」

 星野が嫌味を込めて言うと、大月は当然のように頷いた。


「もちろん分かるぞ。当たり前だろ」

「じゃあ、言ってみろよ」

 星野は、半分本気で大月の答えに興味があった。普通の人間とは違う感性で、斜め上の回答をくれそうだと思ったのだ。


 大月は一瞬口元を歪めたが、照れる様子も無くはっきりと答えた。


「そいつと一緒にいた時の事を何年経っても思い出して、しまいには時々夢に見ちゃあ良い夢だったなと思うようになる。ありそうにない事だとしても、いつかどこかで偶然そいつと出会わないかって何年も期待している自分にある日気付く。すげえ、馬鹿みたいだ。人を好きになるっていうのはそういう事だと思う」


 大月にとっては、すげえ馬鹿みたいな感情を抱いているという事が好意を抱いているという事らしい。

 何年もという言葉が引っ掛かり、未来を連想して星野は不安になった。とはいえ、未来には銀行員の彼氏がいると先ほど大月自身が口にしたはずだ。星野には知る由もない小学校、中学校の頃の知り合いかもしれないし、大学で出会った人という可能性もある。


 誰の事なのか、聞けば教えてくれるかもしれない。口を開いた瞬間、星野は篠原が向こうから手を振って歩いてくるのに気が付いた。


「雨の中お待たせして申し訳ございませんでした。写真も撮れましたし、もう帰りましょう」

 星野は笑顔で手を振り返した。それきり、大月の好きな人の名前を聞き出す機会は訪れなかった。



 一週間の滞在の後、篠原は帰国の途に着いた。星野は数日で台本のための短編を書き上げており、せっかくなので篠原にもデータを送って読んでもらった。


 遠い未来の話だ。自分と同じ顔のロボットと本当の姉妹のように育てられた少女は、何でも出来て自分の命令に従うロボットに強く依存する。どんな人間もロボットに比べれば不完全であるため、ロボットの事だけを愛するようになる。


 自分と同じ顔ですべてが完璧なロボットは、完璧に自己愛を満たしてくれる存在でもあるのだ。

 十六歳の誕生日、父親がロボットを壊すように少女に告げる。彼女はロボットを連れて逃げ、会社の雇った探偵や警察に追われながら街を彷徨う。

 ロボットは人間の命令に必ず従う存在だから、少女には背かない。しかし少女が自分を連れて逃げている状況は少女の身の安全を危険に晒すため、彼女が自分を壊すように仕向ける。 


 最後―――少女はロボットのため自らの命を絶つ。ロボットは人間として月への移住者の列に紛れ、この地球からいなくなる。


 問題はこのラストをニコラが気に入るかという事、台本に落とし込まなくてはならない事、日本語版を仏語訳しなくてはならないというはかばかしい手間である。


 だからこんなものはただの自己満足かもしれないとも思う。



 篠原が帰国する日、大月はちょうどロンドンで別の予定があり、見送りは星野だけになった。


 タクシーの車窓を流れるパリの景色を、篠原は悲しそうに眺めていた。その様子を見て、普通の会社員が気軽に来られる場所ではないのだと星野は改めて気付いた。なんとなく過ごしていたので、そういう意識を持っていなかったのだ。


「最後の見送り、大月さんについてきてもらいたかったなあ」

 単に大月がいないのが悲しいのかもしれない。篠原は本当に大月が好きになったのだろうかと星野は不安に思った。この二人のカップルなんて想像するだけで恐ろしい、というのが正直な感想である。


「すみません、自分なんかが見送りで……」

「まあいいです。そもそも、先生の様子を見に来たようなものですから」

「え?」


 篠原は外の景色から目を逸らさないまま、淡々と話し続けている。今、何と言われたのだろう?


「……初めてお会いした時の先生は大学生で、今よりもお洒落でした」

「お……お洒落でしたか?」


「訂正します。人からすごくお洒落な人だと思われたい訳ではないけれど、ダサいとも思われたくない、人並みの恰好をしていたいというごく一般的な男子大学生でした。少なくとも、最近の先生のような身なりで出歩こうとは思わないような」

「……すみません」


「出発前にお会いした時は、本当に最悪でした。顔は土気色、頭はボサボサ、だらしない服装に不愉快な体臭。だから、あの頃からあまりにも変わってしまった先生を心配していました。良いご友人をお持ちのようなので、心配無用かとも思ったのですが」


 篠原と初めて出会った時、星野はすでに就活を初めていた。専業作家になる気は全く無く、副業として続けられるなら続けていきたいというくらいにしか思っていなかった。篠原と接する態度にも、そういう思いは表れていただろうにと思う。


「……今はまともな格好をされているので、もう大丈夫そうですね」


 星野は自分の服装を見下ろした。大月が自分の買い物のついでに何故か買ってきた新しいTシャツとパンツだ。明らかに自分の趣味とは異なる、いわゆる陽キャのおしゃれピープルが着ていそうな服で、今日までタグがついたまま引き出しの中に放り込んでいたものだった。


 今朝は洗顔後化粧水と乳液をつけ、髪はワックスで整え、伸び放題だった眉毛の形を整えた。もちろん肩にフケも落ちていない。何故今朝になってそういう事をやってみる気になったのか、自分でも説明が出来ない。


 あの家の洗面所には大月のスキンケア用品やヘアケア用品が所せましと置いてある。今日までそれらには見向きもしていなかったのだが、初めて、使ってみてもよいかと大月に頼んだのだ。

 大月は妙な顔をして黙り込み、使用禁止とは言ってないだろとだけ言った。


「こ、これは今日初めて着てみたんです。Tシャツの柄とか、は、派手じゃないですかね。な、なななんか、こんな膝上のズボンとかもチャラいって言うか、すかしてるって言うか。あんまり自分のキャラじゃないですよね。大月が買ってきたから、ずっとタンスの肥やしにしとくのも悪いかなって……。ワックスとかホントに久しぶりに使ったから、妙にべとべとしちゃって。逆に清潔感ないですよね。いやあ、動画とか見て勉強してからにすればよかったなあ!」


 星野は初めてお洒落したのを友人にからかわれた中学生のように言いつくろい、赤面した。大学生くらいの頃は毎日普通にやっていたことなのだが、あまりにも久しぶりなのでものすごく恥ずかしい。


「先生の大好きな雑巾色のお洋服よりは似合っていますよ」

「あ、あ、ありがとうございます」

 頭が混乱してくる。褒めてくれるなんて、今日の篠原はどうしたのだろう。まさか、今日は地球最後の日だろうか。


「大月さんは先生がその服を着ても着なくても何も言わないでしょうが、きっと本心では喜んでいますよ。それがあの人の良い所であり、悪い所でもありますね。無関心なのではなくて、常に一方的なコミュニケーションしか出来ない」


「……悪い奴じゃないのは知っています」


 悪い奴ではないが、変な奴なのだ。星野が自分の身なりに気を遣う余裕を取り戻し、新しい気分になりたいと思った時のために、頼んでもいない趣味ではない服を勝手に買ってくる。


 かといって、星野がその服を着る気になれず、ずっと放置していても特に何を言ってくるでもない。


「私は仕事なので、先生を放置する気はありませんけど」

「ですよね!」

「仕事はしっかりしてください。続きを待っています」

「もちろんです」


 それから篠原はスマホに目を移し、お互いに何も話さなくなった。篠原がようやく口を開いたのは、もうすぐ空港という所だった。


「先生の短編、良かったです」

 篠原は、驚いて振り向いた作家の目を見ながら、ゆっくりと続けた。


「先生の一作目が、私は大好きです。だから、先生の担当になれて嬉しかった。あの短編を読んだ時、昔の先生が戻ってきたと思いました。白石先生にも読んでいただいてはいかがでしょうか。白石先生は、あなたが処女作を出した年、雑誌のインタビューで『今年の一冊』だと紹介されていました。先生の著作を読んだ事も無いというのは嘘です。白石先生は、きっとまだ期待しています」


 篠原が自分の作品を大好きだという事も、白石が自分の作品を推薦してくれていた事も、知らなかった。


 最初に感じたのは、こういう自分が恥ずかしいという事だった。だから、人に興味が無いと言われても言い返せないのだ。


「篠原さん、自分は……」

「見送りはここまでで結構です。このまま、このタクシーでお帰りください」


 タクシーが停車すると篠原は一人でさっさと下車し、トランクから出された荷物を受け取っている。星野は窓を開けて首を伸ばし、その様子を見ていることしか出来なかった。


「あー、月曜から会社行きたくない。日本に帰りたくない」


 篠原は、義務的に丁寧な言葉遣いではなく、冷たい声でもなしに、普通の会社員のような事を言った。SNSに溢れかえっているような呟きだ。


 星野は意外だった。この人でも、こんな事を言うのだ。この人でさえ、会社員だった頃の自分と同じような事を思って、毎日を生きている。


「……篠原さん、仕事大好きなんじゃないんですか?」

「勿論好きですが、それとこれとは別の話ですよ。それでは先生、また東京でお会いしましょう」


 淡いベージュのワンピースを着た編集者は軽く頭を下げ、ちらりと微笑みを浮かべると、重そうなキャリーケースを押しながら歩き去っていった。


 星野の脳裏には、篠原と再び会う時の情景がありありと思い浮かんでいた。真夏の東京で、あのアスファルトと高層ビルの都会で、きっとまたこの人に会えるだろう。



「やっと帰ったか。やっと静かになったな。マジでこの一週間は疲れた」


 ロンドンから戻ってきた大月が、篠原のいないアパルトマンを見て放った第一声がこれだった。


 几帳面な篠原がやって来たことによって一定の秩序が生まれたかに見えた生活だったが、星野とココだけになるとすぐに元通りの適当な暮らしに戻っていた。


「おかえり。……読んだ?どうだった?」

「飛行機で読んだ。短いからすぐ読めたな。面白かった」

 大月はあっさりと自分の部屋に引っ込んでしまった。星野は肩透かしを食らってその後ろ姿を見ていた。


 大月は部屋から飛び出してくると、アトリエに行ってくると言い放ってすぐにアパルトマンから出ていこうとしたが、玄関で振り向いた。


「夕飯、またあのイタリア料理屋に行こう。お前の絵の続きもやりたいから、夕方くらいになったらアトリエに来いよな」

 空の東西が橙色と藍色の二色に染まる時間、星野はアトリエを訪れた。大月は一階にいて、縦二m横三mはありそうなキャンバスを苦労して運んでいる所だった。


 星野はそれを手伝い、その後二人は前回と同じロフトの窓際の定位置についた。イーゼルの前の大月は、しかし一向に手を動かそうとはせず、上機嫌に喋っている。


「やっぱりこのアトリエにいるのが一番落ち着くよな。観光に振り回されるのはいい加減うんざりだったんだ」

「……色々ありがとう」

「ロンドンで商売の話をして―――次は香港のアートバーゼルに参加するから、それに向けて製作していく事になった。今、すごく調子が良いから期待していてくれ。星野も香港に行きたいだろ」


 星野は曖昧に頷いておいた。何故大月の調子が良くなっているのか、何故自分が香港に行く事になっているのか、よく分からなかったからだ。


 まあ、調子が良いに越したことは無いよな。


 窓の外では夕日が最後の残照を輝かせていた。星野の胸に、やっとジワジワとした嬉しさがこみ上げてきた。ニコラの為になるかもしれない事が出来て嬉しい。


「自分も、調子が良い。あの短い小説はこれから台本の形に直すよ。白石先生が仏語訳するって言ってくれているんだ」

「あれはお前らしい話だった。あれくらい当然だ。次はもっと長い話を書け」


 大月は何故ここまで自分を買ってくれているのだろう。星野自身は、自分に自信など全く無いのに。


 夕日が落ち、気づけば綺麗に晴れた夜空が広がっていた。星野はふと思いついて口を開く。


「今、調子が良いんだろ。じゃあその絵の出来はどうなんだ?全然見せてもらってないけど、少しくらい……」

「断る」


 にべもない。大月は、嫌だと言ったら絶対に譲らないのだ。星野はため息を付いて椅子に深く座り直した。


 きっと、完成した暁には見せてくれるだろう。それは高校時代の絵と比べて、どんな絵になっているだろうか。

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