第12話
三
「おい、行ってくるからな!」
大月の声で星野は目を覚ました。ベッドサイドの窓のカーテンの隙間から朝日がこぼれ、ブルーグレーのタオルケットの上に光の模様を描いている。
瞼が重くて仕方がない。
「……今何時?」
「朝六時。言っとくけど、俺だって好きで早起きしている訳じゃないんだからな」
「……今日は、二人でどこ行くんだっけ?」
「モン・サン・ミッシェルって言っただろ」
アパルトマンへやって来た篠原は、翌日に星野と仕事の打ち合わせをした。観光に行くようになったのは二日目からで、それには時間の許す限り大月が付き合う事になった。
星野が腕を伸ばして少しカーテンを引くと、一明るい光が差し込んで大月の姿が確認出来た。Tシャツとハーフパンツ、それにサングラスで、いかにも丸一日遊びに行きますという格好である。
中身はどうあれイケメンだ、と星野は朦朧とした意識の中で認めた。篠原さんも、こんなイケメンのガイドが付けば楽しさ倍増に違いない。思い出に残るフランス旅行になるだろう。
「篠原さんは、その……フランスに行きたいとずっと思っていたって言ってたから、ちゃんと案内してあげろよ」
寝起きの星野は不明瞭な口調で言う。
「せっかくだから、星野も来ればどうなんだ」
「そんな事してる場合じゃないんだ……」
いくら篠原に肯定されても、この先の展開について打ち合わせを済ませてみても、どうしても今書いているものを先に進められなかった。篠原の言う事に従順に頷いてみても、自分が本当に納得している訳ではない事は分かっていた。
出来事の面白さはあっても、人間の変化が無い。だから、読む人の感情を大きく動かす事も無い。白石に言われた事は事実だった。
白石に言われた事を何度も考え、考えている内に、そうではない小説を書きたいと思うようになってしまった。
けれど、頭の中の冷静な声は、そんなものお前には書けやしないと囁いている。
そんなに眠いならまだ寝てればどうだと言った大月がベッドに膝をついて、星野が中途半端に開けたカーテンを閉めてくれた。
大月の重さでベッドが軋む音を聞きながら、星野は目を瞑った。眠りに落ちてからまだ数時間しか経っていない。
「…‥‥担当が篠原さんじゃなかったら、とっくに切られてるんだ」
「何でだ?」
「篠原さんは自分が大学四年生からの担当で、つまり、篠原さんが担当になってくれてから何一つまともに書いてないんだ。普通だったら、自分みたいな作家はとっくに忘れられてる。作家になりたい人間なんて山ほどいて、ベルトコンベアー式にどんどん新人が出てきては消えていくんだ。つまり、大月とは違って替えはいくらでもいるんだ。なのにあの人は自分を見捨てないから」
理由を尋ねても、それが仕事だからだと篠原は冷たい声で言うだけだろう。しかし、本当は仕事という以上に自分に思い入れてくれている人だと星野は知っている。
もし新しく本を出せたら、その喜びを一番に分かち合いたいのは、母親でも無く未来でも無く、篠原だった。
「―――だから、篠原さんをよろしくお願いします」
「まかせとけ」
大月の声は、錯覚でなければ優しかった。薄目を開けて盗み見ると、口を開けて笑っているようだった。
星野はぼんやりした意識で、親切で素直に笑う大月なんて調子狂うなと思いながら眠りに落ちた。
*
星野は無人のアパルトマンで目を覚ました。この世の終わりのような声で鳴くココを必死に捕まえてシャンプーし、確実に嫌われていると、唐突に玄関のチャイムが鳴った。
「これからそっち行くってメッセージ送ったけど、読んでないの?」
白いノースリーブのブラウス姿のニコラが、びしょ濡れの星野を見て首を傾げた。
「相談があるから、ちょっと来て。そのままで大丈夫、外出れば乾くよ」
「え、このままで……?」
そういう事で、星野はボサボサの頭とびしょ濡れの服のまま、ニコラに手を引かれて夏の日差しの下に飛び出したのだった。
*
星野がこれまでに行った事のある劇場は、小学校の演劇鑑賞教室で訪れた近場の区民劇場くらいで、下北沢にあるような小さな劇場にも、東京劇場のような大規模な劇場にも、一度も足を運んだ事が無かった。
ニコラに案内されたのは、アパルトマンと同区内にある三百人が入るくらいの小さな劇場だった。アリーナスタジアムのように、中央のステージを客席がぐるりと囲んでいる。
受付で中を見たいとニコラが頼み、無人の劇場内の様子を見る事が出来た。星野はよくこんな格好の自分を入れてくれるものだと感心した。
まだ新しく、綺麗な劇場だ。無人のステージと客席はシンとした静寂に満ちている。
客席が人で埋まる時、ステージの上の誰かがライトを浴びる時、ここはどんな場所へと変わるのだろう。
ニコラは無人のステージの上に飛び乗り、歩き回りながら話し始めた。さして大きな声で話しているわけでもないのに、音響が良いせいなのだろう、よく響いて聞こえる。まるで台本を朗読しているかのようだった。
「今度この劇場で、有名な演出家兼劇作家が新しい劇をやるんだ。主役はオーディションで、全部で三次試験まである。一次の書類審査は通った。二次では、オリジナリティを見せられれば何でもいいらしいんだけど」
「主役って、どういう役?」
「それはまだ非公開なの」
へえ、と星野は曖昧に頷いた。全然分からない。
「受かるといいね」
「勿論、受かりたいけど」
ニコラは顔をしかめて星野を振り返った。
「オリジナリティを見せろって言われても、何をすれば良いのか分からないの。一緒に考えてほしいんだ」
日本の就活で自己PRを求められるようなものだろうかと星野は考えたが、すぐに思い直した。ただPRをするのではなく、実際に何かやってみせなくてはならないのだろう。
面接会場で特技のブレイクダンスを踊ったら落とされるかもしれないが、これは就活ではない。
「ニコラには何か特技あるの?」
「全然、何も。歌や踊りは得意じゃないの。強いて言えば、美人で背が高いけど」
ニコラは自嘲するような笑みを口元に浮かべた。それは一緒に観光名所を回っている時には見られなかった、ニコラの初めての表情だった。
「ミュージカルじゃないんだから、歌や踊りは必須ではないんじゃないかな。演技力があれば…‥‥」
「具体的に、何をすれば良いと思う?」
星野は、そんな事が自分に分かるはずないじゃないかと咄嗟に思った。もしかしたら大月の知人にはこういう業界の関係者もいるかもしれないが、星野にはまったく縁が無い。
ニコラはすぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「こんなこと聞いてごめんね。誰でもいいから助けてほしくてさ。星野は作家だし、色々な事を知っているんじゃないかと思って。私、これから本気でモデルでやっていくべきなのかも。昔から色々な人にそう言われてるんだ。モデルだって甘い道じゃないだろうけど」
誰でもいいから助けてほしいという言葉が、星野の胸に棘のように刺さった。気が付けば、関を切ったように話し始めていた。
「ううん、待って。考えてみるよ。…‥‥一人芝居でもしたら良いんじゃないのかな。一般教養で演劇論を取ってた事があるんだけど、演劇にはスタニスラフスキーシステムっていうのがあるんだろ」
「何になりきるの?どういう役が募集されているかも分からないのに」
「それも、考えてみるよ」
自分は何を言っているんだろう。一体何を考えるというのだろう。それなのに、口は勝手に動くのだ。
「台本を書いてみるから、まかせて」
自分なら出来ると思って言っているのではない。ニコラのためにやりたいと思うから言っているのだ。
ニコラはあっけにとられた顔をしていた。 星野にそこまでの事を期待をしていなかったし、ここまで言い切るとは思ってもみなかったという顔である。
星野はニコラが口を開く前に、一つ頼みごとをした。
「その代わり……自分の相談も聞いてほしいんだ」
*
二人は劇場の近くにあるカフェのオープンテラスに席を取った。昼下がりの店内は混んでいたが、黒いギャルソンエプロンをしたラテン系の店員がすぐにオーダーを取りに来た。星野はこの国の言葉を話せないので、ニコラがオーダーしてくれた。
やけに親切な、笑顔の多い店員さんだなと思って見ていると、最後にニコラに連絡先が書いてあると思しきメモを渡していった。ニコラはそれを無頓着にぐしゃぐしゃに丸め、何食わぬ顔でズボンの尻ポケットに突っ込んだ。
自分には一生縁の無さそうなドラマがニコラの手にかかって一瞬で葬り去られるのを目撃し、星野は唖然とした。こんなにもモテが日常茶飯事な人に、自分がこんな相談をするのは間違いのような気がしてくる。
「それで、どうしたの?星野」
気軽に言い放ち、ニコラはゆったりと足を組んだ。星野を見つめていたずらっぽく笑い、どうしたのかと問いながらも急かす事のない優しい目をしている。
テラス席の頭上にはサンシェードがあったが、鮮やかな赤いペディキュアの施されたニコラのつま先は陽光の中に飛び出し、真っ白な光の中でゆらゆらと揺れていた。
サンシェードの向こうには、四角く切り取られたコバルトブルーの青空が広がっている。
自分は何をしているんだろうかと、星野はまたも同じ考えに捕らわれた。日本で引きこもっていた頃は、こんな青空の下で、誰かに人生相談を聞いてもらう事があるだなんて想像もしていなかった。
しかもその相談相手が年下のブロンド美女だなどというのは、完全なる妄想の域である。
「まあ、言わなくても分かるよ。例の画家との恋の相談でしょ。もしかして不倫された?帰ったら違う男連れ込んでたとか?」
「恋の相談と言っても過言ではないけど、例の画家は関係ないよ……」
星野がうめくと、ニコラは陽気に笑った。やはりどうも人選ミスという気がしてくる。
「今、恋愛小説を書いてるんだけど、実は誰とも付き合った事が無いんだ。それで、人を好きになるとはどういう事なのか……真剣に考えているんだ」
「ふうん。星野は性的な事に興味が無いの?」
「そういう訳ではないです」
「性的な事に興味はあるけど、リアルな人間を好きになったことがないってこと?アニメのキャラクターと結婚したいって事か。星野はオタクなんだね」
「オタクだし二次元大好きだけど、さすがに本気で結婚出来るとは思ってないよ!そうじゃなくて、他人を好きになるとはどういう事かって話」
子どもの頃から、好きな人はいるのかと問われる時、いつも星野の頭に最初に思い浮かぶのは未来だった。しかしそれが、慣れ親しんでいる異性が未来だけだから未来の事が思い浮かぶのか、本当に心から未来が好きなのか、自分でも分からない。
年頃になれば好きな女の子がいるものだという同調圧力に従って、未来を好きだと思いこんでいるだけなのかもしれない。本当に好きなのかもしれないが、告白する勇気が無いので自分の気持ちがよく分からないということにしているのかもしれない。
どちらにせよ、星野の「好き」というのは自分の中でその程度の重要性しか持っていないのだ。無視しても良いレベル、人生にあっても無くても良い感情なのだ。
星野はそういう事をポツポツと話した。ニコラは運ばれてきたランチに舌鼓を打ち、通りを行く人たちのファッションチェックをしたりしながら、なんとなく話を聞いているようだった。
「自分は高校の修学旅行に行かなかったんだ。仮病を使って休んだんだ」
「へえ」
スクールトリップと言われても、その意味合いはニコラには分からないだろうと思う。ピンとこないニコラにだからこそ、話せているのかもしれない。
星野はオニオングラタンスープのバケットをつつきながら、つぶやいた。
「高校に友達が一人もいなかったから、行きたくなかった」
ニコラはやっと興味を示した。頬杖をついて、目を見開いて星野の方を向いた。
「そうなの?」
「そうだよ。でも、その頃―――二年生の頃、未来ちゃんはクラスでいじめられてたんだ。だから未来ちゃんは、自分にも修学旅行に来て欲しかったんだと思う。自分なんかでも話し相手にはなる。居場所が無い気持ちを紛らわせられたかもしれないだろ」
未来の友達は他のクラスにもいるし、美術部にも仲間がいる。星野だけが頼みの綱だったという訳ではない。しかし、星野に修学旅行に来て欲しいとわざわざ声をかけた事も事実だった。
「未来ちゃんが、自分にも来てほしいって思ってた事分かってたけど、行かなかったんだ…‥‥」
行かなかった。行きたくなかった。針のむしろで過ごすような思いで、三泊四日を過ごすのがどうしても嫌だった。そして、星野は修学旅行を休み、未来は休むことなく参加した。
「――未来ちゃんの事が本当に好きなら、修学旅行に行ったはずだろ。だから、好きじゃなかったって事なんだ」
肩が震える。喉の奥が熱くなる。
「どうして、修学旅行に行かなかったんだろう。どうして行ってあげられなかったんだろう……」
あれは六月の事だっただろうか。真っ赤な夕焼けを覚えている。担任の村上に修学旅行にはいかないと告げた時、高校の修学旅行から逃げたという事はきっと自分の人生を変えるだろうと思った。
未来を置いて一人で逃げるという事は、自分の人生を変えるだろうと思った。本当にその通りになったと、今ならよく分かる。
何故自分の涙腺がここまで緩いのかというのは、いまだに解明されていない謎である。星野はいつの間にか異国の地の抜けるような青空の下ですすり泣いていた。
ニコラは隣で星野が泣いている事に気付くと、あーあという顔をして肩を抱いてくれた。折れそうに細い、長く美しい腕だった。
「どうして泣いているの。泣く程小説が書けないなら、私のための台本を一生懸命に書けばいいじゃない」
「そうだね…‥‥恋愛なんて関係ない話で」
「それは駄目。私も愛が関係するようなのがいいな。人生に愛は不可欠だもん」
「……話聞いてた?」
「もちろん、ちゃんと聞いてるよ。星野なら書けるって思うから、リクエストしてるんじゃない」
オープンテラスで昼間からさめざめと泣き、美女に肩をさすられている奇怪な日本人は通行人の注目を集めていたが、星野にはもうそんなことに気付く余裕も無かった。
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