第11話
二
ドレスを着たニコラが、まだ無人のホテルのロビーの中央で振り向いた。ブロンドのオールバック、濡れたような眉毛、強いまなざし。シャッター音、フラッシュの光が瞬く。
「ニコラを紹介してくれてありがとうな。彼女はモデルにピッタリだよ。知り合いのファッションデザイナーにも紹介したいくらいだ」
一緒に撮影を見学していたジョージに声を掛けられ、ニコラに見惚れていた星野は慌てて頷いた。
ジョージはとても感じの良い人物で、日本の漫画やアニメが好きらしく星野にも親切にしてくれる。大月は何をしてこの温厚な人物をあそこまで怒らせたのか、教えて欲しいくらいだった。
個展の初日にジョージと出くわした星野は、妙な義務感に駆られ普段では考えられない積極性でジョージとコミュニケーションをとった。その時の話の流れでジョージの勤めているインテリア事務所が全ての内装を手掛けた新しいホテルの話を聞き、ホームページのモデルにニコラを紹介したのだった。
モデルの話を持ち掛けた時、ニコラは何故か一瞬険しい顔をした。しかし金欠で困っていたらしく、引き受けてくれることになったのである。
「しかし、星野はよくあんな男と一緒に暮らせるなあ。あいつ、大学時代も同じ絵描きとは反りが合わなくて喧嘩ばっかりしてたんだぜ。俺は分野違いだから、まだ我慢出来るのさ。月と六ペンスのつもりか?」
星野は首を傾げた。サマセット・モームは好きだったが、自分がその影響を受けていると考えた事は無かった。それに彼らはパリで同居はしていなかったはずだ。
「もしも嫌になって出ていく時は、あいつが片耳を切り落とさないよう注意するこった」
「耳?ゴッホじゃあるまいし……」
自分が出ていく事が、大月がそれ程の癇癪を起す程の要因になり得るとは考えられなかった。大体、ゴーギャンに例えるのかゴッホに例えるのかどちらかにしてほしい。
「そうか?あいつがやらない理由があるか?画家なんて皆似たようなアホだろ」
ジョージは各方面から怒られるようなことを平気で言った。星野は笑いをこらえきれなかった。
「ところで、ニコラと話す事は出来ますか?頼みたい事があるって聞いているんですが」
「まだ始まったばかりだから当分無理だろうなあ。最後まで見ていけよ、終わったら三人で飲みに行こうぜ」
そうさせてもらおうかと思った時、スマホにメッセージが届いた。星野は何の気なしに確認して、その場に凍り付いた。
『突然ですが、諸事情によりお盆休みを前倒しで取得することになりました。前々から行きたいと思っていたパリにホテル代無しで行ける良いチャンスではないかと期待しております。空き部屋があるかどうか、先生から大月さんにお話ししていただけますでしょうか。また、いつからピザ職人を志すようになったのか、お会い次第詳しくお話をお伺いしたいと思っております』
途端に星野の膝が笑い出した。ピザ職人の話は、一体どこまで広がっているのだろう。
*
高校二年生の春。星野の目の前をB組の生徒達がにぎやかに列を作って歩いて行った。窓の向こうでは、盛りを過ぎた桜が紙吹雪のように舞っていた。
B組生徒は全員がエプロンとバンダナと家庭科の教科書を抱えいて、調理実習室に向かっているようだった。
列の最後で一人で歩いている幼馴染を見つけて、星野は違和感を抱いた。クラス替えが始まったばかりだから、まだ友達がいないのかもしれないと思った。
星野は二年生になっても相変わらずクラスで友達が出来ず、昼休みは去年と同じように図書準備室で弁当を食べていた。森本先生は賑やかな事を喜ぶし、星野の他にも図書委員や同じ文芸部の生徒がちらほらと弁当を食べに来ていた。
その日も星野は昼休みのチャイムが鳴るとすぐに席を立って、紺色のお弁当バッグを手に図書準備室に向かっていた。けれど、その日は温かい春の日だったので、途中で気が変わった。
屋上は立ち入り禁止だが、四階の奥にある渡り廊下なら誰も通らないという事を星野は知っていた。渡り廊下と言っても屋外にあるので、屋上と同じようなものなのだ。
渡り廊下に出ると、花の匂いのする風が優しく星野の頬を撫でた。ポカポカした日差しが体を温めてくれた。
ちょうど良い段差を見つけて腰かけた時、滅多に人の通らないはずの渡り廊下の向こうから、男女二人組が歩いてくることに気付いた。
うす紫色の髪をした背の高い男子は一年の時に同じクラスだった大月で、その隣の少し長めのスカートの小柄な女子が幼馴染の未来だった。
「おーい、友ちゃん!ここでお昼?」
「う、うん……久しぶり。山口さんは?」
大月は二人の会話に興味が無いらしく、あくびをして中庭を見ていた。
「私達もこれからお昼だよ」
大月と二人で食べるのか、と星野が愕然としていると、未来は慌てたように手を振った。
「違うからね。レオと二人で食べてる訳じゃないよ。美術部の部室で、皆と一緒に食べてるんだ」
未来は一年生の時は教室で食べていたのに、どうして今年から部室で食べる事にしたのだろうか。星野は聞けなかった。教室で食べていないのは自分も同じだ。
「ところでさ、今年って修学旅行だよね」
星野は蚊の鳴くような声でそうだねと答えた。すでに不参加の決意を固めているとは言えなかった。
「せっかく同じ高校だし、一緒に素敵な思い出が作れるといいね」
未来は顔をくしゃくしゃにして、優しい笑顔を浮かべていた。
*
星野は篠原からのメッセージを読んだ後、折り返し電話をした。確かに部屋は余っているが、一般的に考えて、あまり良くない事だという気がしたのだ。
「別に篠原さんに来てほしくないとかそういう事じゃなくて、その、男二人暮らしのアパートなんて嫌じゃないのかと思って」
「多少気持ち悪いですが、ホテル代が浮く方が重要です。家賃一か月分くらい得出来ますから」
「でも、万が一何かあったら」
「何かとは?」
性被害にあう可能性について考えないのかと言いたかったが、星野はどう伝えれば良いか分からなかった。まるで星野自身がそういう事を企んでいるかのごとく受け取られかねない。
星野が黙り込むと、篠原は一笑に付した。
「ご心配なく。先生の事はよく知っていますので」
星野も、自分がそんな事をするより明日から人類が火星に移住を開始する可能性の方が高いだろうなと思った。
*
もし篠原梨花と高校時代クラスメイトだったら、絶対に話しかけることは出来なかっただろうといつも思う。篠原もまた、星野に話しかけようとはしないだろう。
そういう縁の無い人間同士が仕事上で関わりを持ち、自分が先生と呼ばれている事が星野には不思議だった。
「お久しぶりです、先生。わざわざ空港までご足労いただき、ありがとうございます」
「ど、どうも……お久しぶりです。お元気そうで……」
星野はいかにも情けなさそうに頭を下げた。ただでさえ篠原を前にすると自分が恥ずかしくて仕方が無いのに、大月にまともではないと思われているらしい普段の服装で空港まで迎えに来てしまっていた。穴があったら入りたい、そしてそこで三年くらい引きこもっていたい気分だ。
シャルル・ド・ゴール空港で再開した篠原は、相変わらずの美人だった。緩く巻かれた明るい茶色の長い髪に、小さな顔、つり目がちな大きな瞳。今日は、星野が初めて見るオフのリラックスした恰好をしている。
篠原はしっかり上がった睫毛で一度瞬きをした。五センチのヒールのミュールを履いた篠原に、星野は少し見下ろされる格好である。それほど差は無いはずなのだが、腕組みをした篠原の圧があまりにも強いために、星野は彼女が自分より十センチは背が高いような錯覚に囚われる。
「―――先生がピザ職人を目指しているとは知りませんでした」
「フェイクニュースです!目指してないです!ご心配おかけして、すみません!」
「それなら結構です。ところで、よくもそんなゴミ捨てに行くようなみっともない恰好で空港までやって来ましたね。タクシー乗り場はどこですか」
「あ、はい、すみません…‥‥」
「顔色、良くなりましたね」
「……あの」
もしや自分を気遣ってくれているのかと星野は一瞬考えたが、篠原は目があった瞬間にタクシー乗り場とだけ冷たく告げた。星野はペコペコと頭を下げて、タクシー乗り場の方へ荷物を押していった。
篠原は車窓越しに熱心にパリの写真を撮っている。星野は声をかける事が出来ず、何と言ったらよいかも分からず、もじもじと黙っていた。
突然、振り向いた篠原に一喝される。
「何を一人でもじもじしているんですか。みっともないからやめてください」
「はい!」
「送っていただいた原稿を読みました。語り口が軽快で楽しく読めましたし、依頼通りの文字数で話が盛り上がるようになっていましたし、要望は満たされておりとても良いと思いました。女性誌の担当者にも読んでもらいましたが、正式に決定という話になりました。後半もこの調子でお願いします」
「そのことなんですが、実は、白石先生に相談したところ―――」
「白石?白石誠先生ですか?」
星野は大学の先輩である白石に相談した結果をポツポツと語った。やっぱり自分には恋愛小説は無理だと思う、と言うと、篠原は控えめにいってもドスの利いた声で言った。
「あなたは人生初挑戦の恋愛小説で、大御所に絶賛されるようなものが書ける気でいたんですか。自分を何様だと思っているんです!」
運転手が後ろを振り向くので、星野は彼と目があってしまった。運転手は篠原が懐からナイフを取り出して暴れ出さないかを懸念している顔である。
「すみません、滅相もございません」
「OLの暇つぶしで結構です。そういうものを売りたいと思っているんですから、過不足はありません。疲れたOLに一時の楽しさとトキメキを提供出来るなんて、素晴らしい事じゃないですか。他人に言われた事で一々ビクビクしない!」
「はい……でもあの、本当に恋愛経験が無くて……誰かを好きになるって事もよく分からなくなってきて、何だか自信が無くて」
次第に人生相談のようになってきてしまうが、篠原はそんな事には取り合わなかった。
「ハリーポッターの作者は魔法学校の出身者だとでも思っているんですか?小説の内容と作家本人の人生が、完全にイコールなわけないじゃないですか。分かり切った事を言わせないでください!そもそも、先生だってそれを分かっているから、この依頼を断らなかった訳でしょう。もしこの小説に何らかの問題があるとしても、それは先生に恋愛経験が無い事とは関係ありません!それに、私は問題があるとは思いません!」
はい、と星野は小さく頷いた。篠原はフーッと怒れる猫のような声で一息吐き出した。
再び車内に沈黙が戻る。運転手はまだソワソワと後ろを気にしている。
「……先生って、本当に恋愛経験無いんですか?」
篠原はきょとんとした顔で言った。誤魔化しようがないので、ええそうですよ、と星野はやけっぱちで言った。
星野はこれからの一週間に思いを馳せ、もう日本に帰りたいなと思うのだった。
*
甘く華やかな香りを纏った見知らぬ来客に、ココは一目散に走り去っていった。ココしゃんこの人は一週間もここにいるんでしゅよ、と星野は心の中で語り掛けた。仲良くしましょうね。
「写真通り中は広いし新しいし、インテリアもすごくセンスが良いですね。感動しました。わざわざホテルを予約しなくて本当に良かった」
篠原は胸の前で手を組み合わせた。うっとりと目を瞑っている。
「将来は、こんな素敵なおうちに住みたいです」
「へえ」
「へえって何ですか?馬鹿にしないでください」
「し、してないですよ。そうだ、大月と結婚すればこの家に住めるんじゃないですか」
小躍りしそうな篠原の後ろを、スーツケースを持ち上げた星野がついていく。リビングでは、大月が立ち上がって篠原を出迎えた。
「初めまして、星野の友人の大月と申します。お会いできて光栄です」
大月の全身から、かつてなくまともオーラが放たれていた。他人の編集さんの前でそういうオーラを放出するのはやめろ、と星野は思った。担当作家の駄目さ加減が際立っちゃうだろ。
「こちらこそ、お会いできて光栄です。木原先生の面倒を見ていただき、ありがとうございます」
篠原は丁寧な口調こそ崩さないものの、柔らかい声である。
「あの、別に、大月に面倒を見てもらっている訳では……」
「見てもらっていますよね」
「ハイ」
大月が笑いをこらえる顔でチラリと星野を見た。星野はそれを努力して無視した。
「友人が藝大に通っていたので、一度文化祭に行った事があるんです。そこで初めてあなたの絵を見て、とても感動しました。ずっと考えていたんですが、あれは木原先生がモデルでしょうか。違いますか?」
「その通りです。残念ながら今は手元にはありませんが」
「握手してもらっても良いですか。ファンなんです」
大月は握手を求められる事に慣れているらしく、平然とした顔で篠原と両手で握手した。篠原は薄桃色の唇で微笑んでいる。
星野は、何となく面白くない気がした。そんな風に思う自分が不思議だった。
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