三部 元作家とジヴェルニーの庭
第10話
三部 元作家とジヴェルニーの庭
一
パリ十六区の高級住宅街。とある一軒家の前に、一人の不審な日本人が立ち尽くしていた。
夏の陽光が真っ黒な頭に容赦なく降り注いでいるが、棒立ちになったきり微動だにしない。額には異様に汗をかいていたが、それは暑さのせいばかりではなかった。
「本気になってノコノコやって来てるんじゃねえよって言われるかもしれない。お前みたいな木っ端作家と同じ空気が吸えるかって……」
この家の主、白石誠は星野の大学の先輩にあたる著名な作家だった。日本では恋愛小説の名手として知られ、作品は何本も映画化されている。仏文学科の卒業生で、フランス人女性と結婚して現在はパリに移住していた。
星野はもちろん白石の事を知っていたし、著作を読んだ事もあるが、これまで個人的な交流は一切なかった。そもそも、個人的な交流を持ちたいと願った事すら無かった。
同じ大学の卒業生ではあるが、それ以外に全く共通点の無い業界の先輩とコネを作っておこうなどと考えるような積極性は、星野には皆無だったのだ。
しかし、未経験のジャンルで書く以上、一度はこの道の先達者の指導を仰ぎたかった。そこで一大決心し、学生時代のゼミの教授に泣きつき、その人脈で白石を紹介してもらったのである。
鳴かず飛ばずとはいえデビュー済みの作家が他の作家に指導を仰ぐなどという事が常識的に考えて有りなのか無しなのか、それが星野には分からなかった。非常に厚顔無恥な奴だという感じがする。
しかし、この際己の羞恥心などゴミのようなものである。そんなものはどうでも良い。とにかく次を成功させなければ自分の未来は無いのだ。半分程度書き終わっている原稿をメールで送ってあった。
「よし行くぞ。一歩踏み出すんだ。大丈夫、白石先生は余裕のある素敵な大人だから、後輩の小説をいきなり全否定したりしないぞ」
「何をブツブツ言っているんだね」
星野は息を飲んだ。
いつの間にか、玄関のポーチの前に日本人の男性が現れていた。彫りの深い顔に黒縁眼鏡は著者近影の通りだが、星野が想像していたより背が低い。
「さ、入りたまえ」
✳
優しい笑い皺のある白石夫人がコーヒーを出してくれた。フランス語で声をかけられ、何と言われているのか分からないままに星野は頷いた。
「す、素敵なお宅ですね」
儲かっているんですねとは言わなかったが、これは儲かっているんだろうなと思った。借家か、持ち家なのかは分からなかったが、どちらにせよ十六区でこんな家に住んでいるのはすごい事だと思えた。
よく整えられた、居心地の良い居間だった。大月のアパルトマンのように内部が新しくリフォームされている訳ではない、歴史を感じさせる本当に古い家だ。
同じ大学を出て、同じ小説家をやっているはずなのに、無職居候生活中の自分とは天と地程の差がある。
「お世辞はいいよ。ところで君は、パリでピザ職人になろうとしているそうだが、まだ作家の道も諦めていなかったんだね」
「そんな事、考えた事も無いです!というか、それならイタリアに行くのでは……。一体誰がそんな噂を」
「君はエゴサーチしないのかい?」
星野が慌てて自分のペンネームを検索してみると、ある美術雑誌のウェブ版の記事に行き当たった。大月レオのパリ個展の詳細レポートで、どうやら、あの時の会場にいた女性記者が書いたものらしい。
星野は、大月レオと友人のSF作家が起こした迷惑で非常識なトラブルのあたりを流し読みでスクロールし、記事の最後に必要な情報を見つけた。
『ここ四年新作の発表の無い木原氏はイタリア料理店でピザ職人の修業中らしく、個展にも黒いエプロン姿で登場。現在は大月氏とパリのアパートで共同生活を送っているようだ』
何でそうなるんだ。
ご丁寧に大月のSNSから引用されたツーショットまで添付されており、星野は悶絶した。写真の中の自分は大月の隣で赤ら顔をして楽しそうに笑っており、いかにも何も考えていなさそうだった。
「これはフェイクニュースです!」
「そうなのか?本当なら、我が家の台所で何か作ってもらおうと思っていたんだが」
「せ、先生、からかわないでください」
「すまないね。しかし、君は小説を書くのには向いていないようだから」
星野は、えっという素っ頓狂な声を出した。白石はコーヒーをうまそうに一口飲む。
「後輩に酷い事を言ってすまないね。実際の所、君の他の著作は興味が無くて読んだ事が無いから、送られてきた原稿だけで判断した結果だ。もしかしたら、君は恋愛小説に向いていないだけなのかもしれないが……正直、君が他ジャンルなら面白いものを書けるとは思えないね」
「ど……ど、どういうところが、つまり、その、駄目でしたでしょうか」
「君はそもそも他人を好きになった事があるかね?こうして前に座ってみると、自分にしか興味が無いタイプの人間に見えるが」
白石先生、立場が上の人間がそういう発言をするのは、今時はセクハラでパワハラですよと星野は言えなかった。自分にしか興味が無いと言われた言葉が星野の心中に沈殿して、舌を縺れさせる。
「そっ」
一体何が「そっ」なのか、自分でも分からない。
「これはただ単に次々と出来事が起こるだけの小説で、人間の変化がどこにも書かれていないね。まあ…‥‥さして続きも気にならないが、このまま最後まで書き進めれば、通勤途中の女性が暇つぶしに読むような適当な文庫本になるだろうね」
ところで後輩のために特別なチョコを買ってきたんだ、と白石は嬉しそうに言った。僕はこのショコラティエの大ファンでね。さあもう小説の話は終わりにして、懐かしい大学の話をしてくれたまえ。
星野は、席を立った白石の後ろ姿を眺めながら足元が崩れ落ちていくような感覚を味わっていた。明日の工事で使う資材の納入場所を間違えて手配していた事に気付いた瞬間と、よく似た感覚だった。
*
修学旅行四日目、最終日の金曜の朝。大月は真っ赤な目をして図書室にやって来た。
大月が目の前の席に音を立てて座るのを、星野は目を丸くして見上げた。
「おい、全部読んだんだぞ!」
何かに怒っているような、挑むような声だった。
「別に、徹夜で読めなんて言って無いけど…‥‥」
「赤字の訂正が多すぎて内容の八割しか頭に入ってこねえ!気になるだろ、クソ!他人に読ませるなら完成稿用意しろや!」
お前にノートパソコンをパクられてなけりゃ矛盾点を修正して誤字脱字を直して完成稿を作り終えていたよ、と言いたいのを星野は我慢した。
午前九時になって始業の鐘が鳴るが、星野は自習道具を取り出さなかった。
「それで……どうだった?普段は…‥‥部誌に載せてるくらいの短編しか書かないから、十万字以上で書くのってすごく難しくてさ、作家の人ってホントすごいんだなって……」
「あ?面白かったよ。お前はいつもあんなこと考えて生きてんのか?」
あまりにも平然と面白かったと返されたので、星野は嬉しさを感じる暇も無かった。
「あんなこと?」
「ホームルーム中も別の惑星の事とか考えて生きてんのか?お前が特別に変人なのか、それとも、他の奴らも実はそうなのか?他人の頭の中って、ホントに訳がわからねえな」
大月はそう言って奇妙な顔で星野を眺め、身を乗り出すと理不尽に星野の頭を平手で叩いた。何か面白いモノでも入っていて、叩けば変わった音でもするのかと言うように。
「痛っ!」
そうか、あれは他人が読んでも面白いんだ。書いている自分だけが面白がっているとしたら、なんて虚しいのだろうと思っていた。十万字を連ねて何も他人に伝わらないのだとしたら、なんて馬鹿みたいな作業なのだろうと思っていた。
ありそうなことではあるが、大月の感受性が変わっているだけで、世の中の他の人は誰も面白いとは言わないかもしれない。それでも嬉しかった。大月一人だけでも面白いと言ってくれるなら、それで十分なくらいだ。
感謝しなくてはいけないと思ったが、上手く言葉にならなかった。
大月は、何か言いかけては口を閉じる星野を怪訝そうに見ていた。そして、完成版が出来たら絶対にもう一度読ませてくれと言った。
*
星野は軽い気持ちだったが、大月は大いにやる気になった。
アパルトマンから徒歩十分、セーヌ河岸の一本裏道に大月のアトリエがある。明るい黄緑色に塗られた元倉庫の内部は、星野から見ると何が何だか分からない程散らかっているのだが、大月にとっては全て的確な配置になっているらしい。
一歩中に入ると、独特の匂いが充満しているのが分かる。作品の保護のために窓には覆いがつけられていて、真昼でも古びた照明を全て点灯しなくてはならないほど薄暗い。
大月が毎日嬉々としてこの場所に通い、一日のほとんどの時間を過ごしていられるのが何故なのか、星野は不思議だった。
「どうしたんだ?今日は珍しくまともな格好をしてるな」
白石を訪ねた足でアトリエへやって来た星野は開口一番にそんな事を言われ、もう立ち直れないと思った。例えるなら、白石に切り刻まれた傷口に大月が塩を擦り込んでくれた感じである。
「今朝、大学の先輩に会いに行くって言っただろ。普段の自分の恰好ってそんなに……」
「そんな事言ってたっけ?なんだ、描かれるからちゃんとした格好したのかと思った。まあ来いよ」
星野はフラフラとした足取りのまま大月に従った。今朝から色々な事がありすぎて、足に力が入らない。倉庫のロフトへ続く階段を上っていく途中で、よろめいて落下しそうになる。
ロフトの奥、一枚だけ覆いの無い窓の傍に丸椅子が一つ置いてあった。星野は促されるままそこへ座り、大月はいそいそと少し離れた所にあるイーゼルの前に座った。
いつかのような光景だなと星野は思った。ここは美術部の部室ではなく、お互い冴えない高校生でもないが。
今日の大月は、あの時とは違っている。目は真剣だが恐ろしくはないし、多少動いても叱責の声は飛んでこない。鉛筆ではなく絵筆を手にしている点が違っているが、迷いのなさは昔と同じだった。
星野もまた、あの時のように大月を恐れていなかった。それよりも別の不安が胸に満ちていた―――学生の頃は、こんな不安など一ミリも感じていなかった事を思うと不思議な気がする。
あの時は、自分が将来書けなくなるなんて思っていなかった。書きたい事がたくさんあって、いくらでも集中が続いた。
「大月、喋っても良いか?」
「ああ」
大月はあっさりと承諾した。手を止める様子は無いが、喋る分には好きにしろという事らしい。
「今日、作家の先輩に会ってきたんだ。それで、自分には何の才能も無いって分かった。日本に帰って再就職するか……トラックに挽かれるか何かして転生する、それしかない」
「転生?何の話だ?」
「いやこっちの話」
「お前そのネタ好きだよな」
「ネタって言うか……別に良いんだけど」
悲惨な表情の星野とは裏腹に、大月はいつもより穏やかな声だった。描く事に集中していて、人の話を話半分にしか聞いていないとこういう風になるのかもしれない。それとも、ここは大月がリラックス出来る場所だからだろうか。
広い倉庫に、古い冷房の大げさな稼働音と、絵筆のかすかな音がする。空気中のホコリが日差しを浴び、キラキラ輝いている。
「その先輩に見る目がないんだろ」
「どうして白石先生に見る目が無いって分かるんだよ。先生はその道何十年のプロなんだぞ。ていうか、大月は読んでもいないじゃないか」
「お前が、まだ半分しか書けてないからとか言って少しも読ませてくれないからだろうが。デスノートばりに隠しやがって」
「分かったよ、読ませるよ」
パリへ旅行に来た日本人女性が、偶然知り合った年下の青年にパリを案内してもらい恋に落ちるというストーリーだ。二人は実は幼馴染である。青年の初恋の人がその女性なのだが、女性の方はそれに気づかずうろたえてそそっかしいドジばかりしている。四部構成で進めていく予定である。
「……ところで大月、交際経験あるか?」
「ある」
「いいよいいよ、見栄張るなって。聞いてごめん」
「あるって言ってるだろ。同じ事何回も言わせるんじゃねえよ」
「またまたそんな」
大月はこの会話を続ける意味を感じなくなったらしく、平然とした顔のまま何も言わなくなってしまった。星野は唾を飲み込んだ。
マジか。
もしかしたら大月はモテるのかもしれない、と気付き星野は戦慄した。変わり者だが見た目は良いし、同年代の一般人と比べて明らかに稼いでいる。大衆に理解されない天才に唯一愛される私、という立ち位置をゲットしたいと思う女子はいるかもしれない。
都立普通科の高校では浮きまくっていた変人も、大学では同類もしくは理解者となる存在に巡り合えたのかもしれない。友達は出来ないかもしれないが、友達と恋人は別物だろう。
羨ましいと星野は思った。大月は生きる場所を見つけた。自分だけがいつまでもあの図書室にいる。
自分はあの頃よりマシになっているだろうか。もしかしたら、あの頃より悪くなっていないか。
自分はこの年になっても交際経験ゼロで、人を好きになるという事がどういう事かもよく分からず、恋愛小説を書こうとしている。しかも、半分しか書いていない状態でその道のベテランから酷評されている。
こんなの、無理ゲーにも程があるだろ。
「じゃあ……誰かを好きになったこともあるんだな。お前でも」
「あるな」
星野はもう何も言わない事にした。急に涙目になるな、と大月から初めてのクレームが入った。
篠原に引っ張られる形でここまで来てしまったが、自分が恋愛小説を書くのには問題があるのではないかと星野は遅まきながら思い始めていた。
その問題とは、星野自身に交際経験が無い事と、他人に興味が無いと白石から指摘された通り、他人を好きになるというのがどういう事か分からないという事だった。
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