一番近くの王子様

尾岡れき@猫部

一番近くの王子様


――いっくん、絵本を読んで!

――また王子様のやつ?

――うん!

――好きだよね、姫ちゃんは。

――だって、いっくんは……。




■■■




 本棚にある絵本を見て、私は幼い頃の一幕を思い出していた。懐かしいなぁ。お兄ちゃんに読んでもらっていたことを思い出す。

 今、お兄ちゃんは笑顔を絶やさず、それでいて少しだけ心配そうな色を加えて私を見ていた。お兄ちゃんと言っても、実の兄じゃない。2歳上の唯野民壱さんは兄の友達だった。


 三人兄妹――二人の兄に囲まれた私はガサツに育った。バカ二人は、私を弟扱いしていた。でも唯野民壱ただのたみいちは、私を妹として可愛がってくれて、心配してくれた。それは今も変わらない。


「姫ちゃん、飲み過ぎじゃない?」

「こりが、飲まずにやれるわけないでひょ」


 自分でもかなり酔っ払っていると思う。ビール3缶、カクテル2缶。ここまでは平常運転だったと思う。でもアルコール度数9%のストロボゼロを飲んだのがまずかった。


 そこから視覚は歪むと、平衡感覚がブレるし、理性は正常な判断ができていないと自分でも思う。それもこれも――。


「あいつがどう考えても悪いよね、いっくん!」


 お兄ちゃんは目を丸くして、それからコクンと頷いてくれた。あれ? 久しぶりに

「いっくん」呼びをした気がする。おそるおそる見れば、お兄ちゃんは嬉しそうに頬を緩ませた。私はそんな懐かしい感情を振り切るように、愚痴を溢していく。


「何で、男って体ばっかり求めるんだろうね。イヤになっちゃう」

「イヤ、それを男の僕に言われても――って、姫ちゃん、飲み過ぎだから」


 グビッと新しいストロボ零をあおるので、お兄ちゃんはギョッとした顔をした。飲み過ぎだって分かってる。でも、飲んでいないとやってられない。


「王子様って、ドコにもいないんだよね」


 私はお兄ちゃんの本棚を見やる、顔が良かったり、エリートだったり。色々な男子がいるけれど、どいつもこいつも王子様じゃない。


 油まみれの手をしている私が、王子様を望む方がおかしんだけれど。

 王子様の定義ってなんだろう。


 白雪姫なら、毒林檎を齧ったはずが王子様のキスで目覚める。原典では、棺が揺れた拍子に、喉につまっていた毒林檎が吐き出された。


 シンデレラはたた一晩の逢瀬。王子様は脱ぎ捨てたガラスの靴を頼りに、彼女を探し当てた。


 じゃあ私は――。

 もう諦めた。だいたい自動車整備工の女がそんなドラマチックな恋愛ができるわけがない。手はゴツゴツして、油にまみれている。ステキな王子様には、すでに素敵なお姫様がいるのだ。例えば――。


「……お兄ちゃんは良いよね、素敵な彼女さんがいて」


 お兄ちゃんは目を丸くする。


「いや、僕に彼女はいな――」


 と言った瞬間だった。お兄ちゃんのスマートフォンが鳴る。【橘あやめ】と画面に表示されていた。


「ごめん、仕事の電話」

「分かってる。大丈夫だよ」


 私はニッコリ笑って見せる。一気に酔いが醒めていく感覚を覚えた。お兄ちゃんが、スマートフォンを片手に、廊下に出て行こうとするのを尻目に、私はもう一本、ストロボ零を開けたのだった。





■■■





 タチバナ先輩のことは、よく覚えている。

 お兄ちゃんが、高校の時に仲良くしていたクラスメートだ。


 2歳差を、これほど呪ったことはなかった。


 だって、ようやく追いついたかと思えば、もうお兄ちゃんは遠くに行ってしまう。そして、すでに人間関係は完成してしまっていた。


 私は見てしまった。

 お兄ちゃんと橘先輩が手を繋いでいたところを。


 今でも、あの日を鮮明に思い出す。

 あの日、私は「いっくん」と呼ぶことを止めたから。


 でも、お兄ちゃんを追いかけている自分がいた。

 みんな、そんな私を見ていて呆れていたけれど。


 何とでも言えば良い。


 そうだよ、私はお兄ちゃんに恋をしていた。もう諦めたけど。お兄ちゃんに憧れて、自動車整備工になった。お兄ちゃんと車の話をしたり、ドライブに行くのが本当に好きだった。


 橘先輩は、そう言うことに興味がないのか、一切、お兄ちゃんとの時間を共有しようとしない。全部、私がお兄ちゃんを独り占めしていた。


(まるでお兄ちゃんを奪っているみたい――)


 そんなお兄ちゃんが、営業部に異動になった。

 先輩たち曰く、唯野君は整備工のままじゃ勿体無い――ということらしい。


 またしても、私からお兄ちゃんが奪われた。


 いい加減、一人立ちしなくちゃ。

 だから――。

 私はせめてと思って、王子様を探す。橘先輩からお兄ちゃんを時間を奪わないように。

 でも結局、こうやってお兄ちゃんの時間を奪っている私は――本当に悪い子だった。





■■■





 頭が痛い。これ絶対、飲みすぎた。


「もう少し寝ていて良いよ」


 お兄ちゃんの声が聞こえる。あぁ、と思う。風邪をひいた時もそうだった。お母さんがせっかく氷枕を作ってくれたのに、寝ようとしなくて。冷えピトシートをおでこに貼ったまま「いっくん」に膝枕を要求したのだ。


「悪りぃな、タミー」


 あの時のバカ兄の声が重なって――バカ兄のこの声、コレは現実か。この声は二番目の玉吉タマキチに違いない。長男の玉吉タマヨシは今はロサンゼルス。当分、帰って来る予定は無い。帰ってきたら来たで、私をバカにするだけなので、むしろ帰ってくるなって思う。


「ん? 僕が好きでやってることだよ」

「相変わらず、タミーの我が妹への溺愛ぶりがひどい。この男女オトコオンナのドコが良いのかね? おかげで俺、タミーと飲めないじゃん」


 私、起きているんだけど、バカ兄? むしろ邪魔だから、とっとと帰って。


「姫ちゃんはいつまでたっても、姫ちゃんだよ。いつも全力だし。とっても可愛いと思うんだけどね。それと、キッチー。これはヨッシーにも言うんだけど、姫ちゃんに男女オトコオンナって言うの禁止ね。結構、姫ちゃんは傷ついているからね」

「あいつがそんなことで――」

「女の子は、いつだって女の子だと思うよ。僕は逆に女の子な姫ちゃんしか知らないけど?」


 お兄ちゃんの物言いに、玉吉兄はやれやれとため息をつく。


「タミーって、損な性分だよな」

「ん?」

「だって、そうだろ。あのまま立花さんと付き合っていれば良かったのに。まさかタミーが振るとは思わなかったよ」


 え? ナニソレ。私、そんなの聞いてな――。


「立花さんじゃないよ。もう紀本さんだから」

「結婚したんだよな」

「そうそう。キッチーだってそうでしょ」

「お、俺のことは良いじゃんか!」


 多分、真っ赤になっているだろうな、玉吉たまきち兄は。玉吉たまよし兄はそれより一年早かった。そして結局、華やいだ話が無いのは私ばかりで。

 でもって思う。確かにあの時、私は見たんだ。お兄ちゃんが、橘先輩と手をつないでいた瞬間を――。


「……せめて、最後だけは手を繋いでって言われたんだっけ?」

「それぐらいしかできなかったから。でも僕の思いは結局叶わないから、キッチーの言うことも一理――いや、やっぱりムリだね。自分の気持ちにウソつけないや」


 どういう――それじゃ、誰なの? お兄ちゃんが好きな人って?


「贔屓目に見ても、そんなことは無いと思うんだけどな」


 玉吉兄は知ってるって言うの? お兄ちゃんが好きな人を?


「……キッチー、ごめん。ちょっとトイレに行ってくるね」


 とお兄ちゃんは私の頭を動かす。ぽふっと、お兄ちゃんのクッションに包まれた。お兄ちゃんの匂いに包まれて、それだけで幸福感に満たされる私は――変態じゃないからね。






■■■





 スマートフォンの着信で目が覚める。見ればお兄ちゃんは置きっ放しにしたまま、まだ帰ってきていないらしい


 画面には【橘あやめ】と表示されていた。もう橘から紀本になったはずなんじゃないの? だったらなんでお兄ちゃんにまた電話をかけてくるの?


 私は衝動で、スタートフォンに手をのばしていた。結婚したのなら私のお兄ちゃんにちょっかいをかけないで――。


「唯野さん、先程言い忘れちゃって。我が社の営業車とは別でね。息子の車をあなたから買いたいと思っているの。あなたが推してくれた整備の玉越姫乃さん、だったかしら? うちの子の専属にお願いできないかしら――」


 声は途中から聞き取れなくなった。無造作にスマートフォンを取り上げられたから。


「奥様すいません。営業部、唯野の代わりに出ています。整備部の玉越です。今、唯野は席開きで。あ、お急ぎでは――はい、そういうことですね。もちろんです。唯野に伝えます。はい、玉越ですが、担当はもう一人の玉越です。はい、女性で。姫乃って言います。はい、しっかりと伝えますね」


 ニヤッと玉吉兄は笑っていた。え、え? これって――。

 私は思考がまるで追いついかなかった。





■■■





「見事にこじれてるな」


 兄は私のストロボ零を呷る。私は俯いたままだ。まず橘先輩は、立花先輩だった。橘あやめさんは、お兄ちゃんの上お得意様。お兄ちゃんは整備担当として、私のことを売り込んでくれていたのだ。例の立花先輩は去年結婚した。もうお腹には命が宿っていて――。

 冷静なって思い返せば思い返すほど、とんでもない大失態をおかしたと気付く。


「こういうのは、さ。第三者が口出しすべきじゃないと思っていたけど。タミーはお前のこと、脈なしって思っているからな」

「は? な、何でそんな――」

「お前が【お兄ちゃん】呼びをしたからだよ。立花さんを振った日に。もう遅いって思っちゃったんだろうな」

「ち、ちが、そんなの違――」

「違うよな。そうだよな。だってさ、姫乃にとっての王子様だもんな、タミーって」


 私は口をパクパクさせた。そ、そんな。このキモチは絶対、誰にも気付かれていないって思っていたのに――。


「バレバレだって。俺もヨッシーもこんな性格だから、お前を女扱いしてなかったのも悪かったけどさ。タミーは、お前をお姫様として、ずっと扱っていたもんな」

「……そ、それはいっくんが優しいから」


「だな。だけど、王子様だって迷うし、勘違いもするし、拗れたら諦めることだってある。お前が別の王子様を探そうとするから、なおさら」


 と兄が本棚から一冊本を引き抜いて放り投げる。それはシンデレラの絵本だった。お兄ちゃんの本をそんな乱暴に――と慌てて私は受け止めた。


「タミーがお前に何度も読み聞かせしていたのを、見ていたからさ。俺は王子様が出てくる本ならソレが一番好きかな。シンデレラって、灰かぶりって意味なんだろう?」


 私はポカンと間抜けな顔をしていたと思う。それから小さく頷いた。


「指先が油まみれ? 自動車整備工の勲章じゃねーか。タミーの一番好きな手だぞ? 王子様を探す? いるわけねーじゃん。お前の王子様はずっと前から、タミーなんだからさ」


 兄の顔がボヤけて見えない。きっと、これは悪酔いしているせいだ。


「シンデレラってすげぇよな。招待されていなくても、魔女の力を借りて、舞踏会に行ったわけじゃん。王子様も王子様でさ。ガラスの靴が合う女なんか、たくさん居たと思うぞ? あの夜に出会った、シンデレラのことをひたすら探していたワケじゃん。で、国中を探して最後の一人が、あの灰かぶり姫だったってワケだろ?」


 兄は私の肩をポンポンと叩いた。


「諦める役は継母どもで足りてるんだよ、ばーか」


 そう言って、口の悪い兄は出ていく。廊下で、が「もう帰るの?」って聞く声が、私の鼓膜を震わせる。


 私はぐっと拳を固める。


 私はシンデレラが好きだ。

 灰かぶりでも。

 招待されなくても。


 舞踏会に行った、シンデレラが好きだ。一夜の夢と思っていたのに、ずっと思って

くれた王子様が好きだ。王子様は国中を探し回ってくれた。諦めない王子様が大好きだ。


 そんな灰かぶり姫の物語を優しく読んでくれた、いっくんが好きだ。ずっと好きだった。私をお姫様として扱ってくれた、優しいいっくんが今でも大好きだ。


「姫ちゃん、大丈夫、気持ち悪くな――」

「いっくん!」


 私はあらん限りの気持ちを込めて、王子様あなたの名前を呼んだ。いっくんは目を丸くしているのが見える。


 でも、動き出した魔法は止まらない。

 一夜の夢なんかで終わらせてあげない。


 だって、王子様いっくんにかけられた魔法はまだまだ終わってないから――。




■■■





――いっくん、絵本を読んで!

――また王子様のやつ?

――うん!

――好きだよね、姫ちゃんは。

――だって、いっくんは私の王子様だから。いっくんに、格好良い王子様なってもらって、お迎えにきてもらわないと。【よしゅう】は大事なんだよ、いっくん。

――え、えぇ?

――大好きだからね、いっくん。いっくんは、私の王子様だよ。

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