王子のキスで目覚め賜(たま)え

雨蕗空何(あまぶき・くうか)

王子のキスで目覚め賜(たま)え

 王子様の定義とはなんだろう?

 僕が答えるなら、それは眠れるヒロインを、キスで起こせる人だと思う。




 学生服のボタンを止めつつ、僕はあきれながら、惰眠をむさぼる彼女に声をかけた。


美紡みつむ。いい加減起きなよ。もう学校行く時間だよ」


「んんー……もうちょっと……あと十時間……」


「ちょっとじゃないよね? 完全に学校サボる気じゃん?」


 美紡はむにゃむにゃと、こたつの天面にほっぺを乗せて、溶けたチーズのようにべちゃりとしていた。

 よだれ垂れてるよ。はしたない。


「むにゅぅ……白馬はくばぁ、学校まで運んでぇ」


「ムチャ言わないでよ」


「馬になれよぉ」


「ならないよ」


「じゃあ、王子様になってよぉ」


「はぁ?」


 僕と彼女――白馬と美紡の関係は、一言で言えば幼なじみだ。

 家がすぐ近くで、幼稚園も、小学校も、中学校も一緒のところに通って、高校も同じ所に進学した。

 家から近くて楽だから。そういう選び方をするって、お互い何も言わなくても分かっていた。

 それだけずっと、一緒にいるんだから。


「むにゃぁ……」


 美紡はもう、夢の中に戻ったらしい。

 制服にしわがつくのも気にせずに、だらりとこたつにへばりついている。

 わざわざ支度してうちにきてこの状態なの、朝に強いんだか弱いんだか分かんないな。


「まったく……」


 肩に手を置き、ゆする。起きない。

 無防備が過ぎる。

 僕にしか見せない特有の距離感なのかもしれないけれど、美紡は年ごろの女の子で……僕は年ごろの男の子なんだぞ。


「美紡……」


 少し顔を寄せる。

 甘い香りがする。

 視線が吸い寄せられる。

 美紡の体は案外と肉付きがいいけれど、その中でも僕の視線が向いたのは、うつ伏せて潰れる胸元でも、無造作にこたつに突っ込まれてスカートのめくれ上がった太ももでもなく、半開きで規則正しく寝息を吐き出す、ぽってりとした唇だった。


――じゃあ、王子様になってよぉ。


 さっき言われた言葉を思い出す。


 王子様の定義とはなんだろう?

 僕が答えるなら、それは眠れるヒロインを、キスで起こせる人だと思う。

 そして、美紡も。昔読んでいた、本を思い返せば。


 ごくり。つばを飲み込んだのは、ほとんど無意識だ。


(もし、行動を起こして……美紡がそんな気なんてなくて、ただ冗談のつもりだったら)


 幼なじみを続けすぎて、美紡の距離感がバグっていることはよくある。

 ここ最近は特に、寒くて人恋しいのか? やたらと距離を詰めてくる気がする。

 なんでもないふうにやり過ごしてきたけど、正直もう、耐えられない。


(そもそもだ)


 小さいころ、とある拍子に、美紡が言った言葉を思い返す。


――十年経ったらねぇ、私を白馬の、彼女にしてね。


 笑うなら笑え。僕は一度たりとも忘れたことはない。

 もうあれから十年経った。

 いや、十年と、あともう半年くらい経ってるけど。

 だってその言葉を理由に行動して、忘れてたらショックだし。今の美紡に全然その気がなくて、この関係を壊しちゃったら、ねぇ? イヤじゃん?


(――なんて、ずっとヘタレたままだとでも?)


 顔をさらに寄せた。

 今の関係を壊すのは怖い。

 でも、それを理由に前に進めないのは、もっとイヤだ。


(そうだ。僕はもう誤魔化しようもなく、美紡、きみが好きなんだ)


 カラカラに渇いたのどを、ほんのわずかな唾液を飲んで落ち着けて。

 美紡の魅力的な唇に、僕は自分の唇を近づけて――


「……いや。違うな、これ」


 やっぱり、やめた。


「ファーストキスが、記憶に残らないうちに終わっちゃうのは、ダメだよね」


 キスをするなら、もっとムードを作って、しかるべき時にしたい。

 きっと、そうしよう。

 そう決めた。

 だから僕は、一度近づけた唇を遠ざけようとして。


 向こうから、唇が飛びついてきた。


 頭に腕を回されている。動けない。

 唇は熱く密着して、とろけるようで。

 頭の奥がチカチカする。

 キスって、こんなにもまぶしくて、まるで全身をいばらに絡め取られたみたいに、刺激が駆け抜けるものなの?

 時間が長いのか、短いのか、まったく感覚が分からないまま、やがて唇は、離れた。


「……み、つむ?」


 ぼうっとしたまま、僕は美紡の顔を見た。

 美紡は少しだけ赤くほてって、唇にちろりと舌をはわせて、そして細められた目は、まるで魔女の呪いのように意識を吸い寄せてきた。


「覚えてないかもしれないけどねぇ、十年経ったら彼女にしてって、そう言って十年経って、もう半年も過ぎたんだよ?」


 美紡の口が、絡まった繊維をほぐして糸を作るように、言葉を紡いだ。


「思い出とかムードとか、そんな寝ぼけたこと言って我慢できる時期なんて、とっくに過ぎちゃってるんだよ」


 美紡の声と、熱を持った視線は、僕の心に針のように刺さって。

 美紡の体重が、僕にもたれかかり、そして押し倒してきた。




 王子様の定義とはなんだろう?

 僕が答えるなら、それは眠れるヒロインを、キスで起こせる人だと思う。

 そして、その定義で言うなら、王子様は美紡で、僕はヒロインだ。

 いまだ幼なじみの微妙な距離感でいると思っていた、僕の寝ぼけた幻想は、美紡のキスの一発で、叩き起こされてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

王子のキスで目覚め賜(たま)え 雨蕗空何(あまぶき・くうか) @k_icker

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ