あの子についての十のこと
獅子男レオ(ししおれお)
あの子についての十のこと
僕は知っている。
あの子が元気だったことを。
「ワン!ワンワン!」
僕が友人の家に行くと、あの子は必ず吠えた。優秀なお留守番なんだろう。
僕はコートを脱いで床に置くと、決まってあの子の前まで行って座る。そして、あの子の吠える声を聞きながら、僕は右手を握って手の甲を差し出す。匂いを嗅がせて安心させるため、だった気がする。
僕の経験上、動物はこちらの気持ちがある程度分かるらしい。特にこちらが怯えてビクビクしていると、なぜか襲い掛かってくる。だから、こちらも変に怖がらず、安心していればいい。
効果があるのかないのかは分からないが、そうすれば、あの子は吠えるのをやめるのだ。
友人曰く、他の友達にはずっと警戒しているらしいが、僕はそうではないらしい。
「お前が自分より弱いって分かるからじゃない?」
飼い主が茶化す。でも前にどこかのテレビ番組で、ペットは飼い主のことを下に見ているらしいと聞いたから、あながち間違いでもないのかもしれない。
その後僕は、友人の手伝いもせず撫でていることが多かった。そしてあの子も、それを受け入れてくれていた。
さすがに抱っこはまだ慣れないらしい。一度抱っこさせてもらったが、体がこわばっていた。
そりゃ、撫でるのと抱っこじゃ、僕の匂いの影響が違うからな。知らない匂いに包まれるのは、きっと怖いだろう。一応注釈しておくが、僕はお風呂に入っていないわけじゃないぞ? 臭いからこわばってるとかじゃないよな? そうだよな? おい、何とか言ってくれ。
まあ、撫でさせてくれるなら、きっと僕の匂いは大丈夫なのだろう。
そのふわふわの感触を、手のひらに焼き付ける。
僕は知っている。
あの子が構ってちゃんだったことを。
僕と友人が買い物に出かけ、そこから帰ると、あの子は決まって「いたずら」をしていた。おしっこをペットシーツではなく、フローリングの上にするのだ。
そんな「いたずら」を咎めながらじゃれつく友人。これは「いたずら」ではなく、ただ構ってほしいだけなのでは?と思わなくもない。
トイレットペーパーを重ねてふき取って、消毒スプレーでもう一度。それすら、きっとコミュニケーションなのだろう。
僕は知っている。
あの子が相当食にうるさかったことを。
こともあろうに、高級なお肉しか食べない。地鶏ならもちろん国産。
安いお肉をご飯に出すとどうなるかって? 食べないのだ、なんと。匂いが違うのか味が違うのか、口にして器の外に分類して出してしまう。テレビで放送している、高いものと安いものを見分ける番組に出れば、いいとこは行くんじゃないか?とすら思えるほどだ。
フライパンで地鶏を焼く友人と、こいつ飼い主や僕よりいいもの食べてるぞこの野郎、という言葉を飲み込む僕。
本当に、幸せな奴だ。
僕は知っている。
あの子が高齢であることを、薬を飲んでいることを。
もう随分なおばあちゃんらしい。
人間もそうだが、歳には抗えない。そのせいか、昔はもっと元気だったらしいのだが、今ではだいぶと大人しくなったという。そのせいで、今は散歩には行けず、部屋の中で大人しくしてるのだとか。
でも、すごく元気なのである。これで大人しくなったなら、昔はとんだやんちゃだったのでは?と思わなくもないが。
薬は一日に二度。薬が嫌らしく、頑張って飲ませないと吐き出してしまう。
必死に舌で防衛しようとするあの子と、それを飲ませようとする友人。
でも頑張って飲んだ後は、ご褒美のおやつが貰える。それに飼い主のハグも。
あ、舌の根元に薬を隠していたようだ。
人間もそうだが、薬が苦手な場合はどうやって飲ませればいいのか分からない。でも、そこを根気強く飲ませようとする。
これは愛情がないと、とてもできない作業だ。一日だけじゃない。何日も、何週間も、何か月も、何年も。一日に二度。薬を飲ませなければならない。
ようやく飲みきったあの子に、今度こそ飼い主が抱きつく。
これじゃどっちが構ってもらってるのか分からない。
でも、きっと幸せとは、こういう時間のことを言うんだろう。
僕は知らない。
あの子の昨日のことを。
昨日の朝、失神したらしい。
そこからも、三回か四回失神したそうだ。
この世界は残酷だ。心臓の細胞は、再生能力に乏しい。だから一度駄目になると、移植くらいしか手はないそうだ。
人間ですらそうだ。その他となると、まだまだ医学は進んでいない。
今日の昼までしか持たない、と言われたそうだ。
家族がもし明日までしか持たないと言われたら。僕は、それに返す言葉を持たない。
いや、きっと返せないし、返す言葉なんて存在しないのだろう。
今まで一緒にいた家族との時間を、たった一言で表せてたまるものか。
僕は知らない。
今日のことを。
今日の昼までしか持たない、と言われたらしいあの子は、今日の夜まで頑張ったらしい。
ちょうど三連休だ。幸いにして、家族が集まることができた。
それまで、頑張っていたのかもしれない。
友人曰く、直前まで、目に生気があったらしい。
悲しませまいとしてのことか、あるいは、今までの幸せを思い出してのことか。
僕は知らない。
友人にかける言葉を。
通知音が鳴る。
またいつものたわいもない話か、と思う僕の意志を嘲笑うかのような通知欄。
昨日と今日のことを、簡潔に語る友人。
それに相槌を打つことしかできない僕。
文章だけでは、表情は伝わらない。
けれどその文章は、きっと僕らが書くどんな文章よりも、気持ちを伝えていた。
ネットには、家族を亡くした友人にかける言葉として「ご愁傷様」としか書いていない。
なんだそれは。そんな気持ちの籠っていない空虚な言葉で、一体何ができるのか。
そう思ったが、きっと何もできないのだろう。
僕なんかが、共感していいことじゃない。
僕はあの子と一緒にいたわけじゃない。せいぜいあの子の人生のほんの一瞬を垣間見ただけの他人に過ぎない。
そんな僕が、家族を亡くした友人に、何を言えばいいのか。
いや、きっと言うべき言葉なんて存在しないのだろう。
今まで一緒にいた家族との時間を何も知らない僕のたった一言で、何かが変わってたまるものか。
もしかしたら、僕が泣くことすら、おこがましいことなのかもしれない。
僕は知らない。
あの子の人生がどうだったかを。
今まで、幸せだっただろうか。
最期は、寂しくなかっただろうか。
言葉が通じないとは、不便だ。
結局のところ、僕たちは、言葉が通じないものの気持ちは、推しはかることしかできない。もしかしたら、嫌なことがあっても、気づかなかったのかもしれない。
食べられるものも限られている。ご飯は飽きていなかっただろうか。
夏は暑いし、冬は寒い。暑くなかっただろうか。寒くなかっただろうか。
最期は家族全員が間に合ったらしい。寂しくなかっただろうか。
いや、寂しくないなんてことはないだろう。人間も、今際の際には自分の最期を察するという。きっとあの子もそうだったのだろう。それが寂しくないなんてことあるものか。
最期に生気があったのは、今までのことを思いだしていたからかもしれない。人が走馬灯を見るのは、過去の記憶からこの状況を打開する策を探しているからだと聞く。それが、避けられないことだったとしても。
今まで幸せだっただろうか。こんなこと、部外者で他人の僕が口にするべきことではないのだろう。それでも。そう思わずにはいられない。
答えなんか、求めていない。
きっと答えは、当人なら知っているだろうから。
友人も。あの子も。
僕は知らない。
彼女のことを。
今から何年後か後。
友人が、彼女を連れてくる。そんな美人とどこで知り合ったのかと問うても、彼自身も偶然だとしか分からないらしい。
不思議なまでに、彼らは相性がよかった。まるで、今までずっと一緒にいたかのようだ。
彼女は元気はつらつとした女の子だ。
あまり友達は多くないらしいが、なぜか僕とは友達になってくれた。僕も友達が多い方ではないし、人間の友達の増やし方なんて分からないのだが、どうしてだろう。よほど彼女はいい人なんだろう。
彼女は構ってちゃんだ。
彼氏である友人の気を引こうと、「いたずら」をして友人を困らせている。で、「いたずら」された彼がじゃれつくのは、いつもの光景になっている。「いたずら」ばかりで困ると嘆く友人だが、それは「いたずら」ではなく、ただの構ってちゃんなのでは?と思わなくもない。壁が足らない、というのは置いといて。まあ友人は一見するとドSだが、実のところMだと聞いているから、「いたずら」してくる彼女との相性はいいのかもしれない。
彼女はちょっと食にうるさい。
彼女は美味しいものが大好きだ。友人は、デートで美味しいものを食べたいとせがまれて困っているらしい。そんな美人の彼女を連れてるからだ、ざまぁみろ、と、悔し紛れにそう呟く。
それでも、幸せそうな二人を見てると、どうでも良くなってしまう。家族に囲まれて幸せそうな二人を見て、誰が邪魔などできようか。末永く爆発しやがれ、と心の中で呟きながら、僕はそんな二人を眺めているのだった。
僕は知らない。
けれど、信じずにはいられない。
いつの日かの、その未来のことを。
あの子についての十のこと 獅子男レオ(ししおれお) @ShiShio_Leo
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