白河の幸せな結婚

しらす

俺はいつだって選択を間違える

 ぎらつく鎌をこれ見よがしに構えた死神から、這う這うの体で逃げ出した俺―白河次郎は、すっかり酔いが醒めてしまっていた。

 違う、そうじゃないと訂正したところで、この死神は聞きゃしないだろうと、それくらいは分かっていた。よりによって連れ歩いていたのが、そのおっかない迅という死神が後生大事に抱え込んでいる小僧だったのだ。

 問答無用で首を落とされなかっただけマシだったのかも知れない。


 そんな事をすっかり冷えた頭で考えながら、冬の街を抜けて川岸を歩いていく。

 今日はこれ以上の厄介ごとには遭遇したくなかった。あの凪という小僧は迅が連れて帰るだろう。なら余計な心配は不要だ。厄介ごとがいくら寄って来ようと、迅が後れを取る筈もないし、あの死神は妙な力で一瞬で移動したりもする。


 いっそ俺も一瞬で家に帰りたいくらいだ、と独り言に愚痴をこぼしそうになったその時、不意に言い争う声がした。

 丁度橋に差し掛かったところで、どうやらその下の暗がりで何人かの若い男が、女を取り囲んでいるようだった。


 今日はもう風呂に浸かってゆっくり寝たかったんだが、と思いつつ、その方向に足を向ける。

 俺たちのそもそもの本分は街の安全を守る事だ。今や体面と化していようが、そのために金を集めておいて、こういう時に何もせずに見過ごすわけにもいかない。

 幸い女を囲んでいる男たちは、特に武器らしいものは持っていない様子だった。相手が少し多いが、こちらはまだ残弾は十分だ。壁を打つだけでも驚いて逃げるかもしれない。


 が、そう思って徐々に近づいて行ったところで、いきなり女の足が高々と上がった。

 スカートの中まで丸見えになるほどの見事な足の上がり方だった。その足で真正面の男の股間に一撃をお見舞いすると、女は立て続けに右へ、左へと片足を軸に踊るように三方を囲んでいた男たちを蹴り飛ばしてしまった。

 思わずこっちが内股になって腹を抑えたくなる光景だった。


 だがそのままでは余計に男たちが怒るだけだろう。そう思って走り寄ると、男たちは足音で俺の存在に気付いたのか、こっちを振り返って「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。

 これから声を掛けようと思っていた俺は、間抜けな事にその時になって気が付いた。女に思い切り蹴とばされた上に、見知らぬ俺のような格好の男が走ってきたら、新手が来たと思われるのが自然だ。

 よろけながらも立ち上がった男たちは、そのまま蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。



「お前、大丈夫か……って聞くまでもなさそうだな」

 頭から足の先まで女の格好を確かめて、何となくふぅと溜息が漏れた。衣服のどこにも乱れはなく、ボタン一つ外れていない。これが一か所でもどうにかなっていると、この後怯えた女の相手をするのがまた面倒なのだ。

 早々に立ち去ろう、と決めて背を向けようとすると、背後から女の刺々しい声が聞こえて来た。


「何よそれ? あたし結構怖かったし、ぶっちゃけこんな日にあんな連中に絡まれるなんて傷ついてるんですけど?」

 振り返ってみると、そこそこに背の高いモデル体型のその女は、両腕を組んで仁王立ちしていた。

 その格好が急に懐かしい女の姿と重なって、俺はついそこで足を止めて彼女の姿をまじまじと見た。だがそうしてじっと見れば、やはり記憶の中の女と彼女とではまるで違った。

 そもそも男三人を向こうに回して一人で勝てるような、勝気で向こうっ気の強い女でもなかった。むしろひどく大人しくて、それが災いして会えなくなった女だ。


「なら早く帰れ。慰めて欲しいならダチなり男なりに頼みゃいい」

「生憎と友達はもう結婚して子供まで出来ちゃって、こんな時間に気楽に電話も出来ないのよ。しかも今日は、付き合おうって告白してきた男を振ったばっかだし」

 そう言うと、どこかやけっぱちのような顔をして女は足元の小石を爪先で蹴った。綺麗に飛んだ小石は橋脚にぶつかって跳ね返り、草叢に消えた。


「ヤケになるくらいなら何で振ったんだ? その顔じゃ割と好きだったんだろうが」

「そうよ、割と好きだった。ううん、結構好きだったみたい」

「なら何でだ?」

「ねぇおじさん、おじさんなら自分が死ぬとき、大事な人も一緒に死ぬんだとしたらさ、どうする?」

 俺はその言葉にいろいろな意味で返す言葉を失った。



 そもそもいきなりおじさん呼ばわりされたところから普段なら怒るところだが、いきなりの訳の分からない質問に、咄嗟にさっきまで思い出していた懐かしい女の顔が頭に浮かんでしまったのだ。

 自分が死ぬとき、大事な人も一緒に死ぬ。その言葉こそ俺と彼女そのものだったからだ。俺が死にそうになったその時、俺を守ろうとして彼女は一度死にかけた。

 辛うじて二人とも生き永らえたが、俺はそれ以上彼女と共に居ることはできなかった。そんな事態になったのは俺が原因だと、はっきりしていたからだ。


「お前の事情はよく分からんが、俺も昔はそれが理由で別れた女がいる」

「でしょ。好きな人が自分のせいで死ぬとこなんて見たくないじゃない?」

「おい、人の話は最後まで聞け。俺は昔、確かにそれで別れた女がいる。けどな、今になってみりゃ、そのまま一緒になりゃよかったと思うんだよ」

「……どうして?」


 顔を上げた女は、そこで真正面から俺の顔を見た。ほんのりと薄青い瞳に、光に透けて毛先が緑色に見える髪をしたその女は、まるでこの世の者ではないような姿をしていた。

 いや、実際にこの世の者ではないのだろう、と何となく俺には分かった。

 明らかに堅気としか思えない人間が、自分が死ぬときに大事な奴も死ぬ、などと言いだすのは妙だ。だが迅のような不可解な存在もいれば、「稀人」と呼ばれる実際に人間ではない者たちもこの世界には居ると聞く。あるいは狐狸妖怪の類かも知れないが、いずれにしろ人間ではないのだろう。


 だからこいつは、好きな男を振ったのだ。

 だがそれが分かっても、俺は反論せずにはいられなかった。


「俺は自分が原因であいつを亡くすのが怖かった。そりゃそうだろう、誰だってそんな思いはしたくねぇ。けどな、あいつは俺を庇って死にかけたんだ。逃げりゃよかったのに、あいつはそうしなかったんだ。何かあったら自分が死ぬかも知れねぇとか、とっくにそんな覚悟してたんだろうよ。その気持ちを無視して、俺ぁ自分が怖いからって無理やり別れたんだ」

 それはずっと後になって気が付いたことだった。それから長く長く、ずっと後悔してきた事だ。


 俺は彼女のためではなく、俺のためだけに彼女を捨てたのだ。命がけで添い遂げようとしてくれた彼女を、ただ自分が苦しみたくないという、それだけの理由で。

 大人しかったはずの彼女は、怪我の痛みに苦しみながらも、最後まで俺の名前を呼んでいた。その声が今も耳に残って離れない。


「だからそうやって拗ねるくらいなら、今すぐにでも取って返して、付き合ってくれって頼め」

 そう言うと、女はうーんと少し考え込むような顔になった。


 既に一度断っているなら、確かにもう一度頼むのは難しいだろう。しかもその妙な条件を説明していないなら、向こうから断られる可能性もまぁあるんだろうな、と俺も考え込んでいると、不意に女は顔を上げた。


「……それで、おじさんはどうするの?」

「あんなぁ、俺はまだおじさんって歳じゃねぇんだよ!白河次郎だ」

「白河さん?」

「なんかお前さんに呼ばれるとしっくりこねぇ呼び方だな……」

「じゃ、次郎」

「俺はラーメン屋か!!」

「どう呼べばいいのよ? まぁいいや、じゃあ次郎さん。あたしの名前は春野結衣っていいます」

「おう、結衣か。いい名だな」


 返事をすると、いきなり女、春野結衣は両手を膝に揃え、俺に向かって頭を下げた。

 突然の行動に驚いていると、体を起こした結衣は更に俺の目の前までずんずん歩いて来て、いきなり首に腕を絡めてきた。

「おっ、おい!?」

「動かないで」


 間近に彼女の顔が迫った瞬間、俺は思わず目の前に迫って来た透けるような瞳の色に目を奪われた。暗がりでもはっきりと分かる薄青い瞳は、まるで透き通ったアクアマリンのような色をしていたからだ。

 更にはぴしゃりと動くなと言われ、抱き付いて来る腕を払いのけることも出来ずにいると、ふっと唇に柔らかなものが触れた。

 すぐに離れたそれは、しかし同時に口の中から全身に何かが広がるような感覚を呼び、どっと体の中を風が抜けて行ったような気がした。


「これで結婚成立です。次郎さん、今日からあなたはあたしの伴侶です。あたしが死んでもあなたが死んでも、もう片方も死んでしまいますけど、それまで仲良くしてください」

「……は?」

「大丈夫ですよ、銃くらいじゃあたしの体は死ぬようには出来てませんし、あたしが死ぬまではあなたも死にませんから、長生き目指して頑張りましょう」

「はああああああああああああ!?」


 やはり今夜は厄介ごとは避けるべきだったのだ。橋の下の気配など無視して、家に帰って風呂に入って寝るべきだった。

 いや、橋の下での彼女の大立ち回りを見た時点でもう気付くべきだった。あまりにも思い切りが良すぎて、そして向こう見ずなその性格に。

 何より突然抱き付いて来た時点で振り払うべきだった。明らかに人間ではない奴が、キスをしようとする意味くらい、少しは想像がつくというものだ。


 だが何もかももう遅かった。皮肉にも好きな相手が死ぬのを恐れて逃げ出した者同士、たったこれだけの事で結婚が成立してしまったらしい。

「待て、おい、解消方法はないのか!?」

「それがあったら悩みませんよ、なに馬鹿な事言ってるんですか」

「そりゃそうだよな!! くそおおおおおお、どうすりゃいいんだ!!」

「腹括ってくださいよ、次郎さん。あ、お家はあっちでいいんですよね? ヤクザ屋さんの家なんて初めてでちょっとドキドキしますね」


 すっかり元気になった無茶苦茶な女、いや妻になってしまったらしい結衣に引きずられ、俺は半泣きで家路についた。

 いつの間にか高く上っていた月が、白々とその道を照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白河の幸せな結婚 しらす @toki_t

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ