【2】
これでようやくナナコの曖昧な視界がクリアになった。
私を装着したナナコは、まず洗面所に走る。顔を洗うためだ。だからどのみち私はすぐにまたナナコの顔から離れることになる。
ざぶざぶと豪快な洗顔を終えたナナコは、濡れた顔をタオルで拭きながらぼんやりと前を見つめた。鏡の中にいる、もう一人のナナコ。
本来ならこんな風にぼうっとしている場合ではない。会社に遅刻するか否かが懸かっているのだ。
ナナコが今何を思案しているのか、私には分かる。こんな場面がこれまでに何度もあったからだ。
「時間無いし、今日はコンタクトじゃなくてメガネでいっか…」
ぽつりと呟くナナコ。私からすると、何とも心外な言葉だ。まるで私がコンタクトよりも格下のような言い草じゃないか。
私はナナコにとって、およそ六代目くらいにあたるメガネだ。正確な数字は分からない。ナナコは子どもの頃から目が悪かったらしい。けれどナナコは、いつの間にかコンタクトを日常的に使用するようになった。
私たちメガネにとって、コンタクトとは非常に厄介な存在だ。天敵と言ってもいいかもしれない。特に世の女性は、メガネとコンタクトとで天秤にかけた時、後者を選ぶ人が圧倒的に多いのだ。
私には一向に理解しがたい。コンタクトの何が良いというのだろう。あんな物、視力を矯正させる機能があるというだけの、うっすい膜に過ぎないじゃないか。
その点、メガネはデザイン性で個性を出せるという強みがある。カバンや帽子と同じ、着飾るためのアイテムとしての役割だってある。
今早速ナナコは化粧に取り掛かっているけれど、メガネをかける時のナナコは化粧に時間をかけない。さっきも言ったように、メガネをかけるだけで顔の存在感が増すからだ。私には、朝の身支度を時短化させる力もある。まさに今朝ナナコがコンタクトを選ばなかった理由がここにある。
ナナコはコンタクトを入れる時も外す時も、恐ろしく時間がかかるのだ。コンタクトの装着にもたついている暇はない、そう判断して私を選ぶ朝はよくある。
それでもナナコは世の女性たち同様、日常生活ではコンタクト派なのだ。コンタクトにするメリットとは一体何なのだろう。私がメガネである以上、これは永遠に解けない謎なのだろうか。
ファンデーションを塗り、眉を描き足し、瞼に控えめに色を乗せ、睫毛を上げ、頬と唇に血色感を与えた所で、ナナコの顔への一通りの施しが終わった。
簡単な化粧とは言ってもこれだけの工程を踏まなければいけないらしい。全く、女とは大変な生き物だ。
化粧を終え、再び私を手に取るナナコ。これでようやくナナコの顔は百パーセント完成した。鏡に映るメガネ姿のナナコは、非常に知的な雰囲気を醸し出している。コンタクトよりも絶対にこっちの方が良いと思うのに。思わずセンスを疑ってしまうぞ、ナナコ。時間もかかるし外見のインパクトに劣るコンタクトなんて、早く辞めることを強くお勧めする。
パジャマから着替え、寝癖直しスプレーで髪も整え、ナナコの身なりは見違えるほどに変貌した。決して大袈裟に言っているわけではない。ちょっとした変身だ。イリュージョンだ。もう少し余裕を持って起きればいいものを、とは思うけれど、限られた時間と闘いながら自分を作り上げていくその過程には目を
「よし、間に合った間に合った」
携帯電話の画面を照らして時刻を確認し、満足げに頷くナナコ。本当にナナコは一人言が多い。たまにテレビに向かって話しかけていることもある。その風景は傍から見るとなかなか奇妙だ。
薄手のコートをさらりと羽織り、カバンを肩に掛け、ナナコは玄関へと向かう。パンプスにすっと足を入れる仕草が、実に女性らしくて私は好きだ。全く、ナナコのくせに。私をこんな気持ちにさせるなんて。何だか悔しい。
さあ、ナナコの一日が始まる。メガネの私にとっても身が引き締まる思いだ。天敵であるコンタクトにポジションを奪われ、家で大人しくしているしか術がない日と比べたら、こうしてナナコと日が暮れるまで行動を共にできることは実に素晴らしい。
棲み慣れたこのワンルームも居心地は決して悪くないけれど、陽の光を浴びることはメガネにとっても非常に健康的なのだ。血が清らかに全身を巡っていく。コンタクトへの鬱憤も、するすると晴れていく。
「行ってきます!」
だから、この家には誰もいないじゃないか、ナナコ。でも、一人でぶつぶつ喋るナナコのことは決して嫌いじゃない。
要するにナナコは、素直なのだ。行ってきますも、ただいまも、いただきますもごちそうさまも、ナナコは欠かさない。私はそれを知っている。きっとナナコの心も、透明に澄んでいるのだろう。私の核とも言える、二枚のガラスのように。
少々抜けている所もあるけれど、我が主ナナコほど真っ直ぐな人はきっといない。私は、それが非常に誇らしい。
「目がしばしばしないのがメガネの良い所なんだよね」
玄関のドアを開けながら、ナナコがふと呟いた。私にとってそれは初耳の情報だった。
「しばしば」とは何だ?人間が話す言葉はおおよそ理解しているつもりではいるけれど、知識の範疇から外れたものにも時々遭遇する。
しばしば?それは擬音語なのか?何かの状態を指す言葉なのか?推測するに、コンタクトだと目がしばしばするということなのか?だから私、すなわちメガネの長所になり得るということなのか?
ああ、こんな風に物事を深く考える力はあるのに、話すことはできない。言葉は発せなくてもいい、とついさっき思ったけれど、やはり前言撤回しよう。ナナコに直接聞きたい。確かめたい。
「菜那子、『しばしば』とは何なのだ?」
その時、鍵を持つナナコの手がぴたりと止まった。
【完】
意思持つメガネ 川上毬音 @mari_n_e_
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