魔女に翼は似合わない

月並海

第1話

 入道雲。蝉の声。焼くような日差し。

 全てに夏が満ちていた日だった。

 俺は幼馴染の夏記と自由研究の相談をしていた。

「ペットボトルロケットとか? よく飛ぶ紙飛行機とか作ってみる?」

「紙飛行機は二年のときやったじゃん。なんか普通だしもっとすごいのやりたい」

「えー、じゃあソーラーカーとか? お小遣いあるかな」

「キットとかじゃなくて! なんか”研究”っぽいの!」

「否定ばっかじゃなくてたっくんも案だしてよー」

 俺の言葉に夏記が口を尖らせる。

 そんなこと言ったって、こうぐっとびびっとくるものが浮かばないんだからしょうがない。

 夏休みもあと二週間で終わりだ。それまでに、みんなを驚かせるような自由研究を考えなくちゃ。

 夏記のお母さんが持ってきてくれた麦茶の氷はもう結構前に溶けてなくなっていた。

 うーん、と夏記が唸り声をあげる。ベッドの上で寝転んでいる様子は、端から見れば昼寝だ。

「おい夏記、ちゃんと考えろよ」

「考えてるって。今目を閉じて集中してるとこ」

「それ寝る。絶対寝る。俺賭けてもいい」

 あははっと高い笑い声があがって、夏記がごろんと体勢を変える。ついで、宿題が散らかったテーブルを隔てて座る俺に本を投げてきた。

「あぶなっ」

「たっくん、私いいこと思いついた」

 投げられた本のタイトルは『空飛ぶ魔女の夕べ』。

 よく分かっていない俺に、夏記は得意げに笑いかけた。


「人間が空を飛ぶ方法について。それを自由研究にしようよ」


 俺は無理だって言った。箒に乗って飛ぶなんてのはフィクションだし、テレビに出てる大人がそういう実験をしていたけど、たった十歳の俺たちには絶対無理だって。

 まくしたてた否定に、夏記は見る見るうちに機嫌を悪くした。

「無理無理だめだめって、たっくんのやる気の問題じゃん」

 その言葉に俺はカチンときた。

 机を思いっきり両手で叩いて立ち上がる。グラスから麦茶が零れて宿題の上に茶色いシミを作った。

 いつもなら慌てて机の上のものを非難させるけど、イライラした俺は広がる茶色いシミには目もくれずに夏記の家を出て行った。

 夏記は何も言わなかった。気の強い目で俺を見つめ返すだけで、麦茶が零れたときも微動だにしなかった。目をそらした方が負けだ、視線でそう訴えていた。

 俺は負けた。その事実も図星をつかれたことも全部むかついて、しばらく夏記には会わないことに決めた。

 

 夏記とケンカしてから一週間後の夜。電話があった。

「巧、夏記ちゃんから電話よ」

 母さんから電話の子機を手渡され、俺は耳にあてた。

「夏記? なに」

 たっくん、私、空飛ぶ方法考えたよ。

「は? まじで言ってんの」

 まじまじ。明日、非常階段のとこ来て。高いと危ないから二階ね。

「えー、……わかったよ。暑いのやだから午前中ね」

 うん、九時に待ってるね。

 電子音がして会話が終わったことを知らせる。

 なんでか分からないけど、その日はなかなか寝付けなかった。


 次の日も快晴だった。朝なのに蝉も日差しも絶好調だった。

 俺たちが住むマンションの非常階段は林に面したところにある。階段を上がれば、踊り場にはもう夏記の姿があった。

「おはよう、たっくん」

「おはようってなにそれ……」

 夏記の両腕には、ビニールでできた楕円の平べったいなにかがくっついていた。二枚合わせれば彼女の上半身を覆う大きさのそれは、腕を広ければ翼のようにも見えなくもない。

 骨組みの部分には金属の棒が使われている。

「今日は空を飛んでみようと思います!」

「その金属は」

「お父さんの大きい傘を分解した!」

 夏記のお父さんの真っ黒い傘が無残な姿になっていることを想像して、心の中で手を合わせる。

 それになに? それで空を飛ぶって?

「本当に危ないからやめなって」

「大丈夫大丈夫、見ててって」

 俺の止める言葉は耳にも入れず、夏記は器用に腕に翼もどきをつけたまま塀に上った。

「夏記、本当に怒るぞ」

「いくよ」

 いちにのさーん、と両手を広げた夏記が勢いよく空中に飛び込んだ。

 俺の視界はその瞬間だけスローモーションになった。ゆっくりと落ちていく夏記の身体。遅れて動く俺の足。あっと思ってから随分経って俺の声はようやく外に出た。

「夏記!」

 塀から上半身を乗り出し下を見る。夏記は、低い木の生えたところにうつ伏せになっていた。

「夏記!」

 もう一度名前を呼ぶが、返事がない。それどころか動かない。

 ぞわっとして全身から汗が出た。暑いはずなのに全身に鳥肌が立つ。指が震えて足が動かない。

 でも、早くいかないと、夏記が。

 全身の力を足に集めてどうにか動いて、夏記のところへ駆け寄った。

「夏記、夏記、大丈夫?」

「ん……」

 草の中から身体を起こせば、わずかに声が返ってきて生きていることがわかった。

 ほっとしたのも束の間、夏記の身体から赤い液体が流れていることに気付く。

 血は夏記のお気に入りのひまわりのTシャツを真っ赤に染めていた。視線をゆっくり下げていくと、お腹に翼もどきの骨組みが刺さっていた。

「今、救急車呼ぶから。母さんたち呼んでくるから。だから死ぬなって」

 浅い息を繰り返す夏記が今にも死んでしまいそうで、俺はその場を離れることができなかった。

 俺が止めなかったから。俺が一緒に自由研究をしなかったから。だから、だから──。


 たまたま通りかかった人のおかげで、すぐに救急車がきて夏記は一命を取り留めた。

 それ以来、夏記のお腹には消えない傷が残っている。


 *


 空を飛ぶなんて馬鹿げたことを自分の身体で試してから、今年で六年。私とたっくんは高校生になった。

 変わらず同じマンションの隣の部屋に住んで、同じ学校に通っている。

 あのときから、たっくんは心配性になった。

「夏期講習めんどくさいなー。ねえ! 明日はサボって海行こうよ」

「だめ。明日、検診だろ。夏記の母さん言ってた」

「えー? なんで言っちゃうかな」

「ヒント、俺が聞いたから」

 悪態をつきながら私は右の脇腹に手を当てた。もう痛みはないけれど、痛々しい傷は残っている。

 あと一センチずれていたら大変なことになっていたんだよ、と検診に行くたびに先生に言われる。それと真っ青になって待合室にいた彼の話も。

 たっくんは毎年検診についてくる。誰に課されたわけでもない責任のために、彼は私を心配し続けている。

「あのさ、たっくん」

「ん? なに」

「今年は検診来なくていいよ」

「はっ?」

 怒りなのか驚きなのか、強くなった語気に私は出来るだけ平坦に返す。

「たっくんは、あのときの責任を取らなくちゃいけないって思ってるんでしょ」

 足を止めれば、一歩先でたっくんも足を止めた。振り返って私を見る。

 自由研究の内容で言い合いをしたときと同じように、私たちの視線がぶつかる。逸らした方が負け、とお互いに目で訴える。私たちの攻防はいつも目から始まる。

「……俺が悪かったんだよ。俺が夏記を止めなきゃいけなかった」

「飛び降りたのは私。塀に上がったのも私。空を飛ぶって決めたのも私。どこにもたっくんの責任はないよ」

「だから! あの時俺がキレて帰らなければ、別の自由研究をやろうって提案してれば、夏記は腹に傷なんて作らなかったんだよ!」

 たっくんの大声が夕方の住宅街に響き渡る。

 夕日に照らされてたっくんの頬を流れる汗が光る。きっと同じように私の汗も光っているんだろう。

 私は早く私からたっくんを解放してあげたかった。幼馴染で怪我をさせた相手なんていう枷を外したかった。

 いつのまにか頭一つ分高くなってしまった彼の頬を撫でる。

「私はたっくんに責任を望んだことは一度もないよ。うちの親もそう。だから、もう自分を許してあげて」

 見上げた彼の瞳が揺れた。薄く開かれた唇が何かをつむごうとした。

 私はそれを聞くことできず、顔をそらしその場から走って逃げた。


「問題ないね」

 毎年同じの検査を終えて、お世話になっている先生に問題なしのお墨付きをもらう。

「そういえば、今年は彼、一緒じゃないの?」

 幼い頃から通っているかかりつけ医なので気心が知れた仲ではあるけど、こうしてたっくんと私をどうにか結びつけようとするところだけはいただけない。

「もう高校生ですから」

「早いねえ。あれからもう六年か」

 しみじみ思い出を語るみたいな口調の先生は、田舎に住む祖父より私の”おじいちゃん”らしい。

「この時期に成長した君たちを見るのが楽しみだったんだけど。で、付き合わないの?」

「付き合いませんよ。先生はお腹に大きな傷ある子と付き合いたいですか?」

 嫌味たっぷりに返せば、先生の笑顔が途端に真顔に変わった。

「傷の有無で態度が変わるなんて嫌じゃない。そういう点でも、彼は君を大事にしようとしてたんじゃないかな」

「大事?」

 どういう意味か問いかければ、先生は椅子に深く座りなおして言う。

「その傷が君の人生に害を招かないように。君が傷つくようなことがあれば自分が守れるように、そう思って彼は君の傍にいるんじゃないかな」

 同じ男の勘だけどね、と先生はお茶目に笑った。

「……責任をとってほしいわけじゃないんです」

「わかってるよ」

「この傷は私の過失の結果です。こんなもののために彼が不自由になる必要はないんです」

 傷を押さえる。

 プールの授業でこそこそ着替えること。ビキニが着れないこと。温泉に入るのに人一倍の勇気が必要なこと。それは全部自分の責任だと理解し消化したのだ。

 気持ちが高ぶって目頭が熱くなった。絶対に泣くまいと目に力を入れる。

 先生は、やれやれといった風に机に向き直った。

「泣くなら本人の前にしなさい」

「えっ?」

 本人って今日は来てないじゃないですか、と言いかけたとき、診察室のドアが開いて看護師さんに手招きされた。そのまま、出入口まで案内される。

 自動ドアが開いて、夏の生ぬるい空気に触れた。

「たっくん」

 炎天下から逃れるように壁にもたれるその人物は、たっくんだった。思わず名前を呼べば、スマホから目線がこちらに移る。

「暑い」

「なんで、いるの」

「心配だったし」

「中入ればいいのに」

「付き添いでもないのに迷惑でしょ」

 こんなのほぼ付き添いみたいなもんじゃん、と言えば確かに、といつもの調子の返事が来る。

 私はたっくんと同じように壁を背にして隣に並ぶ。

 肩が触れるほど近い距離にいつもいるのに、私たちはいつもお互いに遠慮していた。一方で傷を負わせた責任を、もう一方でトラウマを作った責任を感じてがんじがらめになっていた。

 それを今日終わらせよう。

「私、たっくんのこと好きだよ。好きだから、たっくんには私の事じゃなくて自分のことを一番大事にしてほしい」

 顔は見ない。目も見ない。ここに勝ち負けはないから。

 隣で息を飲む音が聞こえた。

 蝉の声があの夏を思い出させる。不自由な両腕で空を掻こうとしたあの日、落ちる視界と全身の痛み。

 夏が来るたびに思い出す。忘れるなんて多分できない。けれど、もう過去にしなくちゃいけない。

 黙り込んでいたたっくんが息を吸った。私は心の準備をした。

「好きな人を守れなかったことをずっと後悔してた。こいつが将来誰かを好きになったときに、その傷が障害になったらどうしようって不安だった。傷なんて気にしないやつを好きになってほしかった」

 彼の言葉に息が詰まる。

 何を言っているのか。どうしてそんなことを言うのか。どんな顔をしているのか。

 反射的に上げた視線の先、彼の表情は穏やかだった。

「俺は夏記が好きだから、これからも一緒にいたい。大事にしたい」

 彼の言葉にすぐに返事が出来なかった。溜まっていた涙を我慢できなくなったから。俯いて涙を拭く私の頭にたっくんの大きい手が載せられる。

 ずっとずっと後悔していた。なんであんな馬鹿なことしたんだろうって、彼に消えないトラウマを作ってしまったんだろうって。

「許してくれるの……?」

 嗚咽交じりで問いかけると、彼は泣きそうな笑顔で言った。

「許すも何も俺はずっと夏記に許されたかったよ。許されたら、また前みたいに一緒にいられると思ってた」

 頭に載せられた手が目をこすり続ける私の手首をつかむ。そして指を絡められる。

 向けられた眼差しに、気持ちに、今度は私が答える番だった。

「私も一緒にいたい」

 絡めた指先に力を籠める。熱が集まる。

 たっくんは子どもに戻ったみたいな満面の笑みを浮かべて、私の手を引いた。

「お会計したら一緒に帰ろう」

「うん」

 今度は二人で自動ドアを潜る。きっと来年も再来年もここへは二人で来るだろう。

 それでいい。それが私たちなんだと胸を張って言えることが誇らしくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔女に翼は似合わない 月並海 @badED_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る