美しい世界のお話
「本当に良かったのか」
宴の片付けを終え、村にはいつもの夜が戻ってきていた。俺はヴィクトーを家の外に呼び出して、あの拍手の真意を尋ねた。
ヴィクトーは晴れやかな笑みを浮かべて頷く。
「はい。これが僕の選んだ答えです」
ヴィクトーは一瞬の恋よりも永遠の友情を選択したのだと感じた。終わりの見えている恋情を選んで思い出になることよりも、望む限り傍にいられる友情を選んで彼女の拠り所になろうとしたのだろう。そういう関係があってもいい。そういう幸せがあってもいいと思う。
そうか、とだけ言って俺は口を閉じた。
この世界に来てからまだたったの二日だが、何もかもが予想外すぎて随分長くここにいる気がしていた。
元の世界で俺は死んだんだろうか。ここは死後の世界なのだろうか。分からないが、そう長くは居続けられないという妙な確信があった。生きているうちに想像もしなかった世界を、俺はきっと体験できない。
そう考えると眠るのがもったいなく感じて、俺はおもむろにその場に座り込んだ。すると横にいたヴィクトーも同じようにしゃがみ込む。
「あなたは、元の世界に帰れるんですか」
「さあね。帰れればいいけど。いつになるかも分からないからとりあえず、勇者の旅についていってみるわ」
この物語の主人公は勇者だ。もし何かイベントが起きるなら彼絡みだろう。
俺がそう答えると、ヴィクトーは夜の清純な空気を思い切り吸い込んで吐き出し、それから言葉を放った。
「もし、帰れたらちゃんと続きを書いてください。僕たちを生み出したのはあなたなんでしょう? あなたが表現してくれたら、それは僕らが生きていることの証明になりますから」
信じてくれてたのか、と心底驚いた。同時に言いようのない満足と喜びが全身に駆け巡る。
この溢れんばかりの感情を必ず元の世界に持っていけるように心に刻み込んで、俺は唇を開いた。
「ああ。約束する」
街灯もネオンもないこの村では、代わりに満天の星空が暗い世界を淡く照らす。美しい、名前のない夜の話だ。
もう描くことを苛むものは、何もなかった。俺はただただ、漫画が描きたくて仕方なかった。
翌朝、村の周りの魔物が起きだす前──空が白む頃に勇者とリザ、それに俺はカイウー村を出発した。
リザは涙を浮かべて母と村長と、それからヴィクトーに別れを告げた。感情をまっすぐに表現できて嫌味なところのない彼女は、きっとこの世界の人からも漫画を読んだ人からも、みんなに愛されるヒロインになるだろう。
村の門を出た勇者が俺たちを振り返り言う。
「よしっ! 王都に行こう、リザ、カガリビ」
「ええ!」
「ああ。そう、だ、……な」
門から一歩踏み出した瞬間、猛烈な眠気に襲われ全身から力が抜ける。
五感すべてが急激に失われていく。勇者の声が、リザの声が、ヴィクトーの声が、次第に遠のき、意味を失っていく。
そのまま俺の意識は途切れた。
***
かがり火先生! 加賀さん? 聞こえますか? かがり火先生!
耳はいくつもの人の声を捉えている。全身は焼けるように熱く、微動だに出来ないほどの痛みがある。口は血と砂の味がする。目はだいぶぼやけているが、俺を呼ぶ人たちの姿を見つけることができた。
「いっ……、た……」
「かがり火先生! よかった、意識が戻ったんですね!」
名前をしきりに呼んでいたのは、後藤君だった。
朦朧とする意識の中で最初にわかったのは、元の世界に帰ってこられたことだ。頭が痛く何も考えられない。
けれども、あの二日間で経験したことは何一つ忘れていない。
あの世界から、彼らから教わったことを今すぐに伝えたかった。思うように動かない唇に力を入れて、俺の編集者に話す。
「ご、とうくん」
「っ、なんですか先生」
「おれ……、まんが、か、きたい」
後藤君は俺の手を痛いくらいに握りながら何かを叫んでいる。もう聞き取る力もなかったが、涙声が聞こえて、ああ伝わったんだと安堵した。力が抜けて瞼が落ちる。
状況を理解できぬうちに、担架に載せられて俺はまたしても意識が途切れた。
後日、後藤君から出版社の前で居眠り運転のトラックに跳ねられたことを聞かされる。
全治一か月の大怪我を負ったが、幸いにも後遺症などはなく俺は静かな入院生活を送った。
後藤君は何度も見舞いに来てくれた。画材も用意してくれた。
君に責任は何もないんだからそこまでしてくれなくていいと言ったら、
「僕があの作品の続きを早く読みたいんです」
と言われてしまったから、もう描かずにはいられない。
俺は入院中に、事故で読めなくなってしまったネームを新たに書き直した。頭の中にある勇者と歩いたリノアの森やカイウー村の宴のことを思い描けば、自分でも驚くほど筆が進んだ。
事故以前よりも後藤君と細かく意見交換をし、お互いが満足のいく形に原稿を完成させた。
その甲斐もあってか、退院して間もなくまた同じ雑誌で連載を始めている。
あれから、漫画を描いているとふと、あの世界にそのままいたら、と考えることがある。
一緒に王都まで行ったんだろうか。途中の激戦で野垂れ死んだんじゃないだろうか。それとも魔王討伐まで着いていったんだろうか。
意味のない感傷だ。現に俺はこの世界に戻ってきたし、俺のいない世界の話を描き進めている。
だけど、あの世界に続いていた物語の方が面白かったんじゃないかと不安が胸を掠めていく。
そういう想像するたびに聞こえてくるのは、ヴィクトーに言われたあの言葉だ。
──あなたが表現してくれたら、それは僕らが生きていることの証明になりますから。
俺はあの世界でかけがえのないものをもらった。それは勇者やヴィクトーの魂であり、あの世界そのものの魂であるように思える。
俺しか書けない物語であの世界を登場人物たちを表現すること。それが俺にできる最大の感謝の示し方だ。
世界観も登場人物もストーリーも、それらすべてが満ち足りた物語を俺は描きたい。
二話の脇役のヴィクトーが予想外に人気を博し、番外編の主人公になるのはまた別のお話。
透す向こうの異世界譚 月並海 @badED_
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