初戀

月並海

第1話

 好きになった人は、何百年も前からこの世にいる人ならざる生き物だった。

 見た目は人間だ。生まれたときから人間なのかと聞いたら、そうだと言う。俺たちと違うのは身体の中を流れる時間の早さだけらしい。

 彼に会ったのは、四つのとき。優しく俺を抱きかかえた彼の顔が、俺の初めての記憶だ。

 幼心に、綺麗だと思った。顔だけじゃない。上品な立ち居振る舞いや身にまとう穏やかな空気、俺を慈しむ表情。

 胸の中に未知の感情が湧き起こった。熱くて重いくせにふわふわと暴れまわるその感情の名前は、恋というのだとのちに彼本人から教わった。

 俺の初恋だ。

 好きになったのも告白したのもキスをしたのも身体を重ねたのも、全部全部彼がはじめてだ。

 けれども、彼のはじめてを俺がもらうことはない。おわりをもらうこともできないだろう。

 それがあんまりに悔しくて、納得することも諦めることもできなくて、俺はあるとき彼に強請った。

「俺もあなたの"はじめて"がほしいよ」

 そう言えば、彼はきょとんとした顔で咥えたタバコを落とした。

 タバコが彼の膝の上を転がる。俺はそれを拾い上げて咥える。火をつけてから吸い込めば、肺に甘い煙が充満した。

 彼と俺から同じタバコのにおいがする。同じ家に住んで同じタバコを吸っているから当然のことだが、それだけで際限のない独占欲が少しだけ満たされる。

 自分のタバコを横取りされた彼は困ったように眉を下げた。俺の言葉に困っているのか、タバコを取りに行くべきか迷っているのかは分からない。

「あのさ」

 と唇を開いた彼の指がこちらに伸ばされた。

 動かずにいると、唇に指が触れてタバコが引き抜かれる。

 溜まった灰を灰皿に捨てて、彼は吸いかけのタバコを吸った。灰を循環してきた煙をふーっと俺の顔めがけて吐き出す。

「けほっ。……なに、煙いんだけど」

 不愉快を声に乗せて抗議すれば、俺とは正反対に愉快で仕方ないといった笑みを浮かべた彼と目が合う。

「……なに」

「いや、可愛いなあと思って」

 抗議を繰り返すと、そんな言葉が返ってきた。

「子ども扱い」

「違うよ。本心」

「……ご機嫌取り」

「頑なだなあ。じゃあ、さっきの君の言葉の答え教えてあげるから」

 さっきの言葉の答え? と会話を思い返したところで"はじめて"を強請ったことだと気付く。

 そんなものがないことを,今更本人から伝えられたところで機嫌もなにもあったものじゃないけど。早く会話を切り上げたくて、大人しく彼の口の先にある火を見つめた。

 タバコを咥える彼の唇が三日月を描く。

「タバコ。君に教わった俺の"はじめて"」

「えっ?」

 予想外の答えに思わず声が零れた。

 確かに出会った頃の彼はタバコを吸っていなかった。俺が大学生になって吸い始めたときに、彼も興味を持って一緒に吸い始めた。だから同じ銘柄。

 初めてタバコを吸ったときの彼を思い出す。初心者によくある、肺に煙を入れすぎてしまってむせる様子がなんだか愛らしく感じた。

 あの姿を見たのは俺が初めてだったのか。胸のあたりがじんわりと温かくなっていく。

 黙った俺を見つめたまま彼は、ついでにと付け加えて

「同じときに死ねるように寿命を縮めたいと思ったのも初めてだよ。じゃなきゃ、わざわざこんな依存性のあるもの口にしない」

 これはちょっと重すぎるかな、と言って彼はタバコを灰皿に擦り付けた。

 俺はたまらず、彼の胸に飛び込んだ。

 わっ、と驚いた声が頭上から聞こえたけど気にしない。代わりに思い切り腕に力を入れて彼を抱きしめる。

 すると、後頭部を優しく彼の手が撫でた。落ち着かせるように、慈しむように。その手つきに子どもをあやす意図はないと俺は信じてる。

「死なないで」

 彼の胸にうずめたままの唇から漏れた言葉は、ひどくかすれて小さかった。

「それはこっちの台詞だよ」

 頭に涙が落ちた気がしてばっと顔を上げたけど、彼の瞳は濡れてはいなかった。涙なんて流さない方がいい。悲しい時間なんて少ない方がいい。

 俺は彼のはじめてにもおわりにもなれないけれど、間にある悲しい時間を埋められるのなら、それも悪くはないのかもしれないと思った。

 どちらからともなく唇を重ねる。タバコの味がした。俺が彼にあげた、はじめての味。

 唇を離して目を開けると、少しだけ光の戻った瞳が俺を見つめる。

「さあ、よい子は寝る時間だ」

 そう言って俺の手を引いて立ち上がった。そのまま、寝室に誘われる。

「子ども扱いしないでってば」

「そういうのは、タバコの煙を顔にかけられる意味を知ってから言いなさい」

「……意味?」

「明日起きたら調べて」

 ふふっと笑うだけだからきっと答えは教えてくれない。

 俺の何倍も生きているくせに、こういういたずらなところは俺より子どもっぽくていただけない。

「そういう意地悪言うならタバコ禁止だからね」

「えっ。口寂しいんだけど」

「キャンディでも舐めてれば?」

「うーむ、それもそうだね」

 意地悪を意地悪で返すと、思いがけず彼の顔が眼前に迫ってきていた。

 そのまま目を閉じる間もなく、軽く唇が合わせられる。

「タバコの代わり。これでいいよ」

 嫌味が一ミリも響いていない様子に俺は諦めの気持ちになる。

「はぁ……、それで長生きしてくれるならいいよ」

「君も一緒に禁煙できるしね」

 始めるときも一緒、辞める時も一緒。そんな普通のことがこんなにも尊く感じるのは、きっと人間ではない彼との思い出だからだろう。

 同じ速さの脈を打つ手に引かれて俺はベッドにもぐりこんだ。

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初戀 月並海 @badED_

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