ガソリンはありませんでした

結騎 了

#365日ショートショート 008

 男は3日間ほど研究室にこもっていた。卒論の追い込みである。やっと峠を越え、満身創痍の体で車を走らせる。信号、交差点、国道。ハンドルを握りながら、男は言い知れぬ違和感を抱いていた。しかし、その正体が分からない。

 やがて、ガソリンが残り少ないことに気づく。ウインカーを点灯させ、ガソリンスタンドへ車を乗り入れた。しかし、やはり何かがおかしい。いつもこのセルフのスタンドには客が多いはずなのに。他の誰もおらず、あるのは男の車だけだった。

 車を降り、財布からクレジットカードを取り出す。端末に読み込ませ、まずは支払いを……。しかし、端末の画面には何も表示されていない。壊れているのだろうか。男は周囲を見渡すが、どうやら他のものも画面が消えているようだ。これではガソリンを入れられない。どうしたものだろうか。

「あの、すみません」

 店内から、作業着を着た女性がこちらに駆け寄ってくる。スタンドの店員である。

「すみません、ガソリンはもうやっていないんです、うち。ほら、あんなことになって」

 男は話が見えず首を傾げる。その意味を尋ねるが、質問をされた店員も困惑顔である。

「あの、もしかして、見ていないんですか。ニュース」

 呆然としつつも、男は事情を説明した。自分が研究室にこもっていたこと。ニュースも新聞もしばらく目にしていなかったこと。

「……詳しくは新聞とか読んでほしいんですけど、ガソリンって元々なかったんです。存在しなかったんです。それが、正式に政府から発表されたので、今はこんな状態なんですよ」

 一体なにを言っているのだろう。男の表情が曇る。店員は、この説明をするのにとっくに慣れているのだろうか。またか、という顔をしながら……。

「お客さん、ガソリンってことありますか。車にガソリンを入れる時に、入れていますか。おそらく、見ていないと思うんです。ガソリンは、本当は存在しなかったんです。車って実はもうとっくの昔に空気中の酸素をエネルギーにして走れるよう設計されていて、でも、それは一般には公表されていませんでした。メーカーも、ガソリンを扱う事業者も、関係者は当然みんな知っていました。でも、政府の強い情報規制があって、絶対に漏らすことができなかったんです」

 男は思わず、端末から伸びるノズルに目を移す。いつも握っていたあれは。

「ああ、それ。ノズルは、嘘なんですよ。そこからはガソリンっぽいトロッとした液体が少しだけ出ます。表面とか給油口を濡らす演出のためです。あと、臭い。あの臭いは香料なんです。それと、給油中にノズルが微振動して、あたかも液体が流れ込んでいるように体感できる仕組みです。そのノズルを車に挿すとチップが反応して、車のガソリンメーターの表示は満タンになります。よく出来ていますよね、本当はガソリンなんて減っちゃいないのに。そうやって、酸素自動車の開発費用を国民から回収していたんですよ」

 ぴと、と男は車に触れた。手をやらずにはいられなかった。まさかそんなことがあるのだろうか。自分は今まで、ガソリンスタンドでにお金を払っていたのか。

「いやあ、大変だったんですよ。政府発表があってから、問い合わせやらバッシングやら。私たちは箝口令かんこうれいに従っていただけなんですけどね。ほら、車道を見てください。車が少ないでしょう。国民に嘘をついていた政府への抗議で、車に乗らない人が増えているそうです」

 しかし、では、なぜ。どうして政府はガソリンが実は存在しないと発表したのだろう。男の疑問を感じ取ったのか、店員は目を大きく開き、笑顔で喋り続けた。

「そこでお客さん、こちらのワックスなんですけど。新商品で、お安くなっております。このワックスを塗ると、酸素の吸引量が約20%上昇するんです。燃費が良くなりますよ」

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