第50話 再会 (完)
「カレンを、元の世界に戻して欲しいか?」
彼女の口から真実が語られる前であれば、何も考えず、その言葉に瞬発的に食いついたかもしれない。だがいまの俺は自分を、アンを、そして二人の間にあるものを、冷静に見つめ直しながら、少し間を置いて、こう言った。
「……『見返り』が、必要なんですよね?」
「ああ、そうだ。相応の捧げものがなければ人間のために動くことはしない。私は昔からそうだ」
「分かりました。俺が蒔いた種です。カレンを戻してもらえるなら何でもします。
ですがその前に、言いたいことがあります。
この部屋に入ってきたときは、こんなことが心に浮かぶなんて思いもしませんでした……。
少しでもあなたに返したいと思ってるんです。
行く場所もなく独りぼっちだった俺に、あなたは唯一手を差し伸べてくれた。溢れるほどたくさんの愛をくれて、独りじゃないって思わせてくれた。救ってくれた。さっきあなたが前世の俺のことを話してくれた時、記憶は思い出せなくとも心の奥がすごく暖かくなったんです。なんだか、忘れてはいけないものをいままで忘れてしまってたというか……。遥か昔のことですが、あなたに愛されている時のとっても心地いい幸せな感じが蘇って来たような気がするんです。
あの時、無意識であれ俺はあなたに愛するということの本当の意味を気づかせたにもかかわらず、まだ幼くて、大きなあなたの愛に応えられなかった。でも、いまでは俺は大人です。それに、あなたがどれだけ俺のことを想ってくれていたのか、あなたが話してくれたおかげで、いまではよく分かっています。
たとえ、あなたが古代メソポタミアの金星の女神であっても、世界のはじまりと終わりに立つ”頂点の者”であっても、人類を堕落へと誘った悪の根源であっても……それは関係ないんです。あなたが『全』なる者から離れて『個』として俺にくれたものを、俺も『個』としてあなたに返したいっていうだけのことなんです。
高次元の者として、あなたがどんな『見返り』を欲するのかは分かりませんが、それだけは言っておきたくて……」
まっすぐ俺の顔を見ながら聞いていたアンは、俺が言い終えると、ゆっくりと体の向きを変え、背を向けた。そして数歩、歩いた。
数秒間の後、こちらへ顔を向けずに、言った。
「分かった。戻してやる」
その瞬間、俺はかつて見たことのある鬱屈な城内にいた。
巨大な青い岩石が敷き詰められた薄暗い部屋の中は、まるで時間が止まったかのように不気味だった。あの赤い無人の世界のようだと思った。活気という活気がすべて断絶されたような静止空間。実際に、壁についている灯火は揺らめいていなかった。
そのおぼろげな明かりに照らされて、かろうじて黒い木の机や岩をくりぬいた窯のようなものが周りにあるのが分かったが、部屋の奥の数メートル先は、光が届いておらず闇だった。
「リヴィ・カール」と呼ばれる、あの不気味な女どものことを再び思い出してすぐに身構えた。
しかし、その闇の中から聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。無限にある世界の中で、俺が一番聞きたい声だった。
「……ミノル……!?」
地面と靴が擦れる音が部屋中に響いた。それはすぐに駆けて来る音に変わり、闇と見分けがつかないほど黒いフードが突然俺の胸に飛び込んできた。走ってきた勢いでフードは後ろへめくれて、彼女の顔が灯火の下に露わになった。
「カレン……! よかった!!」
二人は互いに強く抱きしめ合った。まるで目の前の実在を確かめるように。
俺はカレンの耳元で何度も謝った。
「本当にごめん、カレン。俺のわがままで……。こんなことになるなんて。ごめん……」
それを受け止めるように、カレンは黙って俺の謝罪の言葉を聞いていた。
しばらくして顔を上げた。
「でも、どうやってここに……?」
俺は彼女の疑念を包むように言った。
「カレン、安心して。もう帰れるよ。俺たちがいた元の世界に」
しかし、直後にアンとの取引が脳裏をよぎった。彼女は代償に何を求めるのか――。
俺はカレンをさらに強く抱きしめた。この感触が、”最初で最後”になるなんて嫌だ。
その時、俺は今まで考え及ばなかったことに気づいて、戦慄した。
もし仮に、俺が無事に元の世界に帰れたとしても、そこには、いま俺が抱きしめているカレンはいないのだ。彼女の世界には元々、「その世界の俺」がいたはずだから、もし彼女が再び俺と会うことになったとしても、それはもう「いまここにいる俺」ではないだろう。
だがそれでも、俺はあえてカレンにこう囁いた。
「向こうの世界で待ってて。俺も後で追いつくから」
「待って。一緒に帰ろうよ」
「俺はその前にちょっとやることがあるんだ。だから先に戻ってて」
「いやだ、いやだよ。もうミノルと離れたくない」
カレンは俺の首元に顔をうずめて泣き始めた。
彼女からは、これまで嗅いだことのない古いお香のような匂いがした。この世界の匂いが沁みついてしまったのだ。
「ほら、いつまでもこんな服着てたら、せっかくのカレンの可愛さが台無しだよ。また新しい季節のコーデでおしゃれにキマってるところを見たいな。戻ったら向こうはもう秋かな? もしかしたら冬かも」
「あ、私まだ衣替えしてないよ」
同時に二人は笑い合った。感触で互いの胸が小刻みに震えているのが分かった。
「きっとすぐまた会える」
「帰ってきてね。絶対だよ」
背中に回された彼女の腕は次第にゆるんでいった。
だが、すぐに思い出したようにぎゅっと強く力が込められた。
「ちょっと待って。その前に、伝えたいことがあるの……もう、一生言えないんじゃないかと思ってた……」カレンの声は震えていた。「あのね、ミノル、並行世界をいくつも渡る前に……私に、告白してくれたでしょ? あの返事、まだしてなかったよね……。ミノル、私も好きだよ。前からずっと好き」
二人は一番きつく抱き合った。お互いの想いが、時間を隔てて、空間を隔てて、ようやく伝わったことを確かめていた。
すると、俺の手、腕、胸からは、徐々にカレンの感触が失われていった。
時を刻むごとに、彼女の体は細かい粒子となって消えつつあった。
そして、俺の胸に抱かれていた彼女の姿は、まるで地面の砂を風が巻き上げるように、空間に高く浮かび上がって、消えた。
「さぁ、約束は果たした。『見返り』をもらうぞ」
背後からアンの声が聞こえた。いままでのことを見ていたのかどうか分からないが、気づけば彼女は壁についている灯火が降ろした明かりの境界にいた。だが依然、彼女の姿は闇に紛れておぼろげだった。その中でも、柔らかく光るような肌の白さと唇の艶やかな赤さが際立って見えた。
俺の膝は震えていた。だが、いまの俺の心には「幸福」があった。
「覚悟は出来てます」
アンはゆっくりと歩を進めて、俺へと近づいた。彼女の目の前に落ちている明かりの中へ少しずつ入ってきた。
この世界の始まりから人類を誘惑し、数千年の昔から「神」と崇められ、人間よりもずっと高いところから世界の移ろいを眺めてきた存在の顔が、俺を正面から見据えている。
その顔からは何も読めない。何をするつもりなのか、俺に何を求めているのかが片鱗も伺えない。ただその灯火に輝く二つの目の奥には、彼女が抱いている全ての世界の計り知れない広さが見えた。
彼女はすぐそこにいる。手を伸ばせば俺に触れられる。だが一歩、さらに一歩と近づいてくる。
俺の鼓動の激しさは頂点に達した。
――その時、アンは俺にキスしていた。
大きく膨れた恐怖は、その瞬間に急速にしぼんでいき、代わりに快楽が俺の存在を融かし込んでいった。堪えられないほどの苦痛が訪れると思っていた。しかし俺の唇からは正反対のものが流れ込んできていた。
そのキスは、俺が味わってきたものの中で他に比べるものがないほど、優しかった。
アンはゆっくりと顔を離した。その時の彼女の顔を見て驚いた。彼女の表情から、初めて明確な感情が読み取れた。彼女は、泣いていた。
「分かってた。私のことは覚えていないって。でも……、会いたかった。思い出して欲しかった。……誰にも喋ったことのない私の、私だけの秘密をあなたに話した。本当の私を愛してほしかったから。心底憎まれるんじゃないかと思ってた。でも、やっぱりあなたは違った」顎に置かれていた彼女の手が、俺の頬を軽く撫でた。「私が心から愛した人」
涙は滴り、地面に落ちた。
潤った彼女の瞳はさらに美しさを増していた。
彼女は俺の目を通してそのはるか奥を見つめていた。
「新しい時代になったら、また会いたいな。今度は、人間として。
普通にご飯食べたり、普通に学校行ったり、普通にお友達つくったりしたい。外でたくさん遊んだ後、家に帰って暖かい家族の中で楽しく暮らしたい。
でも、どうなるか、私にもわからない。
――悲しいけどここでお別れ。
ほら、戻ってあなたの人生を生きて。あなたの大切な人が待ってるよ」
「え……でも」
「大丈夫。『見返り』はさっきので十分。いまの私はとっても幸せ。ありがとう」
最後に俺が見たのは、目にいっぱい涙をきらめかせながら微笑む、心から幸福そうなアンの顔だった。
「これからも、陰からあなたを見守ってるよ」
俺は路地から見える商店街の大きな通りと小さなビルに挟まれた空を見上げて、元の世界に戻ってきたのだと知った。大通りの歩行者天国にはいつも通り人がごった返し、取引先から戻るビジネスマンや下校中の女子高生、夕食の買い物に来た主婦が、いつもと何も変わらぬ平穏な日常のワンシーンを生きていた。
空も青い。じっと眺めた。見れば見るほど安心する。赤色でも緑色でも灰色でもない。
うん、この色が一番好きだ。
狭い路地を出て、大通りに入った。近くを通る他の歩行者と同じスピードで歩いてみた。
向こうの世界の俺は、いまどうしてるだろう。
カレンは無事に俺と再会できただろうか。
どんな未来を辿るにしても、彼らが上手くいきますように。俺は祈った。
路面電車がすぐ近くに見える歩道に出た。そこからは商店街を覆っていた屋根が消えて遠くの景色が目に入るようになった。ビル群の中に忽然と立ち現れる、この街の象徴。
熊本城。全く違う世界だった数百年の時を隔てて、厳然と現在の中に佇んでいる。古い時も、現在も、同じ”ここ”に存在しているのだと思わせてくれる。もちろん、新しい時も。
いま俺の中では過去、現在、未来が、幻のようにあいまいになっていた。そしてその中には、俺がいた他の世界の過去も存在していた。
だが混沌としてはいなかった。数千年前であろうと、数百年後であろうと、常にいまこの瞬間という一点から伸びた線上にそれらは存在し、無限にあるその瞬間瞬間は、渦のような動きの中で統一されている。
この街で赤い世界に入り込む前の俺と、いまの俺。同じようで、違っていた。
確かにここ以外に世界はある。可能性に従ってどんな世界もあり得る。夢が全て叶った世界も見てきた。
でも、俺はここでいい。
俺はなぜ自分が”この現在”を生きているのか、少しずつだが、分かってきたような気がした。
陽が傾いてきた。
長いベンチがある広いバス停の横を通り過ぎたとき、デパートの派手な装飾が目についた。夕方の薄暗さの中に光る、イルミネーションとクリスマスツリー。ガーランドやリースも奥の売り場の光に照らされながらそれぞれのドアにかかっている。
俺は寒空の下、目を見開きながらそれを眺めた。
自宅に戻り、ベッドに腰を下ろした。この感触、一体いつぶりだろうか。もっとも触りなれたものだからか、驚くほどの懐かしさがこみ上げてきた。
充電器に繋がれたスマホの画面を見た。復活したみたいだ。電源を起動し、日付を見て驚愕した。まさかと思って予想はしていたが、本当にそうだとは。
俺がこの世界を離れてから、数時間しか経っていなかったようだ。
世間がまだクリスマスムードなのに納得がいった。体感では、一年ぶりにこのアパートに帰ってきたような感じがしたというのに。
スマホも久しぶりに触る。ほんのちょっとしたことが、嬉しかった。トークアプリを開き、友人から届いていたメッセージを開いた。
そこで、俺はふと、カレンのことを思い浮かべた。
彼女は”ここ”にいる。
別の世界ではなく、同じこの世界に。
この瞬間も、同じ国の空気を吸って、同じ時を生きている――。
俺の中で、ある一つの世界が見えた。
そこで俺は思った。
無数にあるうちの、一つの可能性に賭けてみたい、と。
螺旋状に編まれた無数の世界の一つ。俺とカレンが互いに手を取り合って指輪をはめている映像が見えていた。
その奥を探ると、俺とカレンに挟まれながら、二人の手を握って歩いている小さな女の子の顔が見える。その子は、優しいオレンジ色の陽射しの中で楽しそうに笑っている。
未来の俺、そして、現在のカレンに向かって、呼びかけてみようと思う。
新しい風は、すでに遠く、俺の中で吹いていた。これまで壁があったその先の世界が見える。そこで、待っているはずだ。
俺はカレンのアイコンを押してメッセージを入力し、送信した。
ルキフェルの夢の終わり 美夜 @tsubasa2020
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