第7話

*****


「あとは、きみが見てきた通りだよ」

 事の顛末を話し終えたニシェは、それ以上口を開かなかった。華奢な身体の向こうには海が見える。この景色を彼が見るのは、果たしていつぶりであるのかをトモリは知るよしもない。

「……どうして、食べなかったんだ」

 ゆっくりと、切り出した。ニシェの告白を聞いてなお、腑に落ちない点がいくつかあった。

 人魚は分け与えられた血肉を喰らうことが弔いになるという。それならば、今日までこうして持っておくことになんの意味があるだろうか。

 食べてほしいと望まれたことを、彼はよくよく知っていたはずだ。

「食べようと思ったよ。ぼくがそれを食べてしまえばきみは転化を止める術を失うしね」

 それでも、とニシェは頭を振った。出来なかった、と告げる声音は穏やかですらあった。

 かつて自らが犯した禁忌への贖罪も、自分の血肉を剥ぎ取る人間へ怨嗟を抱くには時も経ちすぎていた。生きているのか死んでいるのかも曖昧になるほどの時間が過ぎた、歪の海。

 そこで生まれた、ひとりの人魚。

 他になにも要らないと思えるほど、焦がれた彼女。どこへも行けないこの身の上でどこかへ行こうとする、そんな衝動を持たせたきっかけ。

「なんでだろうね。ぼくはきみが心底憎かったのに」

 愛と呼ぶには重すぎて、恋と呼ぶには軽すぎる、何より大事にしたかった彼女を喰らった人間。叶うことならすぐにでも殺してやりたかった。

 けれど、それをしなかったのは、その身体がいずれ彼女を再び今生に呼ぶ鍵だからだ。それ以上でも、それ以下でもありえない。

 彼女さえ、戻ってきてくれたなら。そう願い続けて、彼のとなりにいた。

 そのはずだった。

「ルーナと一緒なら、行き先がなくても、どこまでだって逃げていける。そんな気がしてたのにね」

「……逃げる? 皇国から?」

皇国きみたちからも、故郷からも、だよ。ぼくの居場所はどこにもない」

 ぽつりと呟かれたそれにトモリが理由を問う。トモリは当然、そしてルーナも知らされていなかった。トモリが思い出した記憶のなかに、そのような話は無い。

「海が見たいといったルーナに、かえれないなんて言えなかった」

 彼があの歪な海にとどまり続けていた理由。否、とどまっていたわけではない。これより他に、ニシェが生きられる場所が存在しなかったというだけなのだ。

 伏せた視線のまま、ニシェが見せる笑みは自嘲にまみれていた。トモリは何も返さない。そのまま、彼の言葉の続きを待っていた。それはさながら、告解を待つ時間のよう。

「罰なんだ。ぼくがここいるのは」

 ニシェが何にも追われず生きられる場所は、あの歪な海だけだ。陸へ出れば人間がこの身を追いたて、そして海へ戻ろうものなら、この身体は泡と消える。


 長たちは人魚を捕らえにやってきた人間と密約をかわしていた。

 無節操に捕らえられては自分たちの種は絶えてしまう。けれど、命に対する人間の執着もよく識っている。命永らえる手段があるなら手を伸ばさずにいられない傲慢さも。

 海から陸へ上がるその前に、長は禁忌を犯した二人の人魚へ呪いをかけた。決してこの海へ二度と戻ってこられぬよう、海の水に身体を一片でも浸せば泡となって消える呪いを。

 万一にでも、この海へ戻ってきたことで再び人魚狩りが始まってはかなわない。

 そのために、彼らは人間のもとへとどめさせなければならない。そのための抑止力としての呪い。そんなからくりが見えたのは、ニシェがひとりになった頃だった。

 禁忌を犯したとされる自分達人魚ふたりは、既にどちらが転化した人魚であったのかを覚えてはいなかった。判断できる記憶もなければ身体もない。

 けれど、永い長い年月がすぎ、ふたりの人魚が幾人もの人間を人魚へ転化させられ続けていた頃。片方の人魚は急速に老い衰えていった。傷が癒えず、身体を動かすことが難しくなり、何をしようとも衰弱の一途をたどった。

 人魚とて不死ではない。姿形は一定の成長を機に止まりもするが、衰えないわけではない。

 海を離れてから、既に人の一生ほどの時間が経っていたその頃に、人間達がとらえていた人魚はふたりからひとりになった。


*****


 長い話を終える頃、月は中天へと至り海には光の道が出来ていた。あまりにも遠すぎる記憶の彼方に置き去りにした光景。彼女が見たいと願った月夜の海だった。

「……すまなかった」

 ニシェの身体が少し跳ねる。いくらか目を瞬かせて、トモリを見た。

「今さら私が謝ったところで、なんの意味もないのは解っている。けど、謝らせてほしい。私に至るまでの者たちが、あまりの非礼を働いたことに」

 手を伸ばしてはならないものだと、誰ひとり気がつかなかったのか。気がつけども言えなかったのか。けれど、自分達皇家が彼へしてきた行いが、許されるはずがない。

「そして、彼女のことも」

 珊瑚色の瞳をした人魚のことを、トモリは覚えていない。トモリとしての記憶は既になく、あの海には鏡というものがなかった。ルーナは一度も自分の姿を見たことはなかったのだろう。水面に写る姿はおぼろげで、確かな像を結んではいなかった。

「……トモリ。きみは、どうする?」

 その手にした最後の欠片を。問いかけの形をなしてはいたが、それが単なる形だけの代物であるのはトモリにも分かった。口をついて出ようとした、謝罪の言葉を飲み込んだ。

「謝ることは、失礼になるな」

「よかったね。これ以上謝りなんてしたらぼくはそれを返してもらうところだった」

 相変わらず、コロコロと表情がよく変わる。ただこうして戯れに話すのならば、ただの子どもにしか見えないというのに。

 どこか大仰な仕草で、ニシェはこちらへ背を向ける。思わず、その手を取った。

 そのまま、消えてしまいそうに見えた。

「これから、どうするんだ?」

「……さぁね。決めてないよ」

 やりたいことは、もう出来なくなってしまったし。彼はトモリの腕を振り払うこともなく、ただ寄る辺なく海を見ている。

「それでもまだ、ぼくに死は見えないから。どこかで生きてはいくよ」

 人魚に自死の観念は存在しない。行けるところなどもはやどこにもないが、それでも自身の終わりが見えるその時まで、命ひとつだけをもって当て所なく彷徨うことになる。

「あの海から逃げ出した、その時にさ。ぼくの居場所はどこにもなくなったんだよ」

 それも、覚悟の上だった。だから、後悔はない。

 トモリがその腕を引く。こちらを振り向かせた。

「それなら、私が作る」

「……?」

「きみが、帰ってこられる場所を。きみと、彼女が生かしてくれた私の命全部を使って、必ず」

 静寂の中、波の音だけが響いていた。ニシェはゆっくりと、トモリの手から抜け出した。

 見せた笑みは、どこか呆れたような、慈しむような、暖かなもの。

「ほんとに不思議な人間だね、トモリはさ」

 夢物語。絵空事。そんなふうに思えるのは仕方がない。けれど、約束を違えるように見えないのが本当に不思議だと。

 応えるように、トモリは小指を差し出した。ニシェはそれを見て首をかしげる。そこで、彼は人の仕草や習慣を知らないことを思い出す。

「きみたちが額を合わせるそれと一緒だよ」

 見様見真似で、ニシェが同じように手を同じ形にする。そっと小指を絡めた。人の行う「約束」の形。

 するり、とニシェはその手を解いた。トモリがまだ「思い出していない」人魚の歌。朝焼けの海を背に、ニシェの姿がふわりと揺らぐ。

「きみが、あの子を食べるところを眺められるほど、ぼくは強くないんだよ」

 浮かべる笑みは相変わらず、どこか痛みを孕むものだった。

 けれど、それを理解していたのかいないのか。ニシェはなおも言葉を継いだ。

「きみの約束を、当てにするわけじゃあないけれど。ぼくの命が潰えるまで、あの子の願いを叶えるのは悪くない」

 彼女はいつだって外の世界に憧れて、自分とともに歩むことを願ってくれていたから。

 その旅路は、早々簡単に終わるものでもないだろう。皇国は広い。ルーナはおろか、長く生きたニシェであっても知らぬことは多くあるだろう。

 ニシェの浮かべる笑みは、出会った頃よりもどこか柔らかな空気を帯びていた。

 彼がルーナに向けていた笑みを自分にも向けてくれたと思うのは、少しばかり傲慢だろうか。

 ひとつ、トモリは頷いた。彼の道行きを祝福するような力は持ち合わせていなくとも、できる限りの想いを載せたかった。

 もし、トモリの言った「ニシェの居場所」が、どちらかの命尽きるまでに造れるならば。そんなことはニシェも、トモリも口にしない。ただその視線を交わすだけだ。

「……それじゃ。さよなら」

 トモリのひとつの瞬きの間に、彼の姿はかき消えていた。トモリの手に残ったのは、一対の瞳。

 祈るように、その瞳を飲み下した。

 その瞳は、ほの甘く切ない味がした。


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かなしき君に約束を ーかなしき君にさよならをー 唯月湊 @yidksk

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