第6話
✽✽✽✽✽
「ねぇ、ニシェ」
「だめだよ。……何度目だい?」
ため息交じりに告げた言葉は問いかけの形をしていたが、答えを期待はしていなかった。
屋敷の奥に囲われていた青年は、トモリと言った。本来ならば、名前を他人へ明かすことは許されない身の上だから、これは私たちだけの秘密だよ、と告げる青年の笑みは少しいたずらめいていた。
あのトモリという青年が、自分の病を「どのようにして」治すのか、それを理解していれば。ニシェはそう思わずにはいられなかった。
病に伏した人間本人が、ルーナを喰らうことを良しとしなければ、彼女はこのまま生きていられる。
彼は、ニシェとルーナが一体何者であるのかを知らなかった。どれほどの時間が自分に残されているのかもわからないまま、それでもまだ生命を諦めてはいない、年若い青年。
ニシェの誤算はこれだけにとどまらなかった。
ルーナが、あの一度の逢瀬以降にも彼へ会いに行きたがったのだ。
「……どうして? どうしてトモリに会いに行っちゃいけないの? だって、ニシェもあのときは見に行こう、会いに行こうって言ってくれたじゃない」
「あぁそうだね。あの時はそう言った。それが何のためか、本当にわからないって?」
ルーナがこの「歪の海」に生み出された理由。自分が殺される理由を、分からせるため。
「わかっただろう? あれはぼくたち人魚とは違うもの。ただ違うだけならそれでもいい。だけど、あいつらはぼくたちを食い殺すんだ。自分たちが生き永らえるそのために」
それがわかったなら、彼女が取る行動は一つだと思っていた。
ルーナはうつむいたまま答えない。幼子に言い聞かせるように、けれどごまかすことは決してなく、真実を口にする。
「きみはあれに殺されるんだよ。ルーナ」
「分かってる……! 分かってるの‼」
声の限りを張り上げた。けれど、その勢いも長くは続かない。
「分かってるけど、私、あの人にもう一度会いたいの」
「どうして? 自分が人魚だって言いに行く? 死にたくない、食べないでと懇願する?」
ルーナは激しく頭を振る。分かっている。彼女がそんなことを願いにいくつもりなら、ニシェだってここで止めてはいない。
「……知っておきたいって、思ったから。私が助けてあげられる人のこと」
「……なんで」
拳を握る。言葉が詰まる。視線を合わせられなかった。自分が今抱いているこれは、彼女に向けていい感情ではない。
けれど、止めることもまた出来はしない。
「なんで、生きたいって願ってくれないんだ」
そう願ってさえくれたなら、自分はいくらでも手を講じて、きみを生かしてあげるのに。
絞り出すような言葉は懇願に似ていた。ニシェのうつむいた頬へ、ルーナがそっと手を伸ばす。
乾いた音。払い除けたのは反射だった。弾かれた手を所在なげにルーナは引く。
答える代わりに軽く歌を口ずさむ。扉を開き、彼女の姿を気に留めづらくなるような幻惑の魔術。
「行きなよ。きみの生命だ。好きにしたらいい」
「ニシェ……」
逡巡するようにいくらかニシェと外への扉を顧みるルーナの背を押すように、きみが出ていかないならぼくが出ていく、と重ねた。少し頭を冷やすために、彼女と距離を置きたかった。
外への扉をくぐる彼女の背中へ声をかける。
「ちゃんと、帰ってくるんだよ」
声音は平静に戻っていたけれど、彼女の方は見られなかった。ルーナはその声を聞いて少し足を止めた後、小さく「うん」と声を漏らした。
*****
月神が姿を転じ、陽神として空に戻り来る時、すなわち暗い夜の明ける時までは、まだいくらかの時間が残されていた。黒黒とした海に白い小波が舞っている。惜しかったね、とニシェは言う。
「ぼくは月神さまが空へ遊びに来たときの海が一番好きなんだ」
「……陽神様の光はちょっと暑くて眩しいから」
トモリの知らない記憶に、ニシェは「よく覚えていたね」と頷いた。
「トモリ。その名前は、本当にきみの名前なんだよ。違う名前をつけたりしなかった。きみが、命を落とす前に持っていた本当の名前。人魚を食べて命をつないだ人の名前」
あの子が好きだった名前だからねと、ニシェは小さく付け加える。他の名前を思いつかなかったのさ、と。トモリは手を固く握りしめる。
さて、とニシェは立ち上がる。
「ここまで付き合ってくれたきみに、渡しておかなきゃいけないね」
ニシェは懐からひとつの小瓶を取り出した。透明なそれには丸いものがふたつばかり、満たされた養液に揺れている。
ニシェはトモリの手にその小瓶を握らせた。その表情はどこか悼むような笑みだった。
彼の持っていた小瓶には、珊瑚色の瞳がふたつ入っていた。トモリが食らった人魚の最後の欠片。
「少し身体は痛むかも知れないし、もしかしたらもとに戻らないところもあるかも知れない。だけど、これできみが人魚になることはない」
残さず食べてやってよ。そうニシェは続ける。
「……どうしてだ」
「?」
「
言葉が混ざり込む。これは一体「誰」の言葉か。トモリとしてなのか、ルーナとしてなのか。
覚えているんだ、それ。告げるニシェは笑みを絶やさなかったけれど、それは少し困ったようだった。
*****
「ねぇ。ニシェ」
その声音はこれまでのどれよりも優しかった。この夜が、最後になると分かった。
「私の目は、あなたに食べてほしい」
人魚はその血肉を仲間の人魚へ分け与えて死んでいく。
「私の目を食べてくれたら、私はあなたの中で、同じものが見られる気がする」
彼女の珊瑚色の瞳に浮かんだ涙を拭う。月明かりに照らされた海のように、煌めく美しい涙だった。
「私は見たことがない故郷の海を、どうか見に行ってよ」
海は、とても綺麗なものなんでしょう? 陸しか知らない人魚が見せる笑みは慈愛に満ちていた。
「……それなら、きみが見に行けばいい」
人魚の悟る死期は絶対の予言ではない。抗する術がないわけではない。
「きみひとりなら。きっと抜け出すこともできる。ぼくが助けてあげるから」
彼女の死は、この場所にいるからこそ生まれるもの。ニシェは長い幽閉の時を経て、この屋敷の全容を把握している。死にたくないと望んでくれたのなら、逃してやる準備はずっと前から整えていた。
けれど、ニシェの言葉に彼女は視線が揺らいだ。
こぼれ落ちたのは、謝罪の言葉。幾度も彼女はニシェへと謝る。
「ニシェを大事に思うのと同じくらい、あの人を、助けてあげたいの」
だからこの場所からは逃げられない。今日の宵をもって、彼女の命は刈り取られることだろう。
これまで幾度となくその身を刻んできた人間に食べられたいなどと望むことは、ニシェにとってひどい裏切りになるのだろうと、彼女自身が分かっている。
それでも、病に冒されながらも生きようとしているあの瞳を、忘れることが出来なかった。
ごめんなさい、と彼女は再び繰り返す。
「私はどうやっても、あなたのそばにこれ以上いられない」
自分がひとり命をつなぐことができたとて、誰もいない歪の海にはひとりニシェだけが残される。
彼女はニシェの手を取った。
ろくに自分の記憶を取り戻せず人魚になった彼女にとって、ニシェが心の拠り所であった。
敬愛と呼ぶには遠すぎて、親愛と呼ぶには近すぎる、愛と呼ぶには重すぎて、情と呼ぶには浅すぎる。不確かな、それでも変えがたい感情の吐露。
「あなたと一緒に、私の知らないあなたの故郷が見たかった」
けれど、それが叶わぬなら、せめて。
「ニシェ。あなたに、私の目をあげる。どうか、一緒に連れて行って」
食べたものが彼の糧となるならば、この罪深い両眼が、あなたを生かしてくれることを。
ただ願うように祈るように、取った手に彼女は額づいた。
静寂が部屋を満たす。震えていたのは、自分の手か、ニシェの手か。
答えを待つ時は悠久にも似ていたが、恐れを必死に黙らせて。ルーナはゆっくりと、答えないニシェを見上げる。
息を呑んだ。
はら、と彼の琥珀の瞳から溢れた涙が、頬を伝って繋がれた両手へと落ちた。
自分が今までこの部屋で見てきた人魚たちがその胸に抱いたのは死の恐怖だ。
転化した人魚は皆、かつて自分が海で生命を終えたこと、自身が転化することで生み出されたことをひとりでに理解した。そして再び死を悟る。人間に喰わせるために永久の眠りから呼び起こされたことを、その原因であるニシェを呪いながら、彼らは死んでいったのだ。
この歪の海で生まれたルーナだけが、ニシェへ自分の身体を残したいと言った。
ニシェを慕い、愛してくれた。
「ニシェ……?」
ルーナの柔らかな手がニシェの頬を撫で、そこでようやく、自分が泣いていることに気がついた。
気がつけばもう止めることなど出来なかった。とめどなく流れる涙もそのまま、崩折れるように彼女を引き寄せ抱きしめた。
「――――――いいよ」
死にゆく人魚ならば当たり前の「約束」が、許されないことをニシェは知っている。
人魚が人間を生かそうとするならば、その身すべてを賭して成す覚悟を持たねばならない。さもなくば「禁忌」に触れる。
ただニシェはこれまでも、そしてこれからも、彼女に「禁忌」を告げることはなかった。
「きみの目は、ぼくがもらう」
彼女が禁忌を犯すことのないように、全てを話すべきだというのはわかっていた。ルーナはあの人間に生きていてほしいと本当に願っている。そのために生命を使うと決めていた。その意志を変えさせることは、ニシェにも出来なかった。
けれど、彼女のもうひとつの願いを叶えたなら。その両目をニシェが貰い受けたならば、あの人間はいずれ転化し、ルーナという人魚に成り代わる。
ルーナが再び、この世界に生を受ける。それは、ニシェにとって抗いがたい希望だった。
転化が始まった人間は、未だ喰らうことが出来ていない人魚の血肉を追う習性がある。
ここでニシェが彼女の両眼を奪い、逃亡を図ったなら。きっとまた会える。そしてその頃には、転化も随分と進んでいるだろう。
ニシェの答えを聞いたルーナは、ニシェの身体を抱きしめ返して喜んだ。ごめんね、ありがとう、と幾度も繰り返した。その言葉を聞くごとに、ニシェは心に溜まる澱に目をつむる。
「還って」きたルーナは、きっとひどく悲しむことだろう。転化の禁忌を教えなかったニシェを呪うかもしれない。
それでも良かった。自分を一度でも愛してくれた、彼女が生きてさえいてくれたなら。
次にこの部屋を出れば、ルーナの願いを叶えることは出来なくなる、と彼女の耳元で囁いた。人魚のそれとは少しだけタイミングがあべこべだけど、と続ける言葉を、彼女は真摯に聞いていた。
ニシェを見つめる両眼を、そっと片手で覆い隠した。手の向こうで彼女が目を閉じるのを感じる。
願い祈るような歌は海に伝わる葬送歌。その記憶を引き継ぎ、魂を受け取って未来へと歩むための歌。
願わくば最期まで、彼女が自分の背信に気がつかないように。
彼女とまた出会うその時が、早く訪れますように。
そうして、ニシェはルーナの両眼を譲り受けた。魔術で代わりの義眼をこしらえた。
彼女の珊瑚色の瞳は、輝石のように煌めいて見えた。
「ルーナ。このことはぼくときみだけの「約束」だよ」
決して、他の人間に気取られてはいけない。気づかれれば、取り返しにやってくるかもしれない。そう言い含めれば、ルーナはそれをよくよく聞いた。
朝焼けに空が染まる頃。ルーナはこの部屋から連れていかれ、二度と戻ることはなかった。
ニシェはしばらくこの歪の海にとどまり続けた。ルーナの血肉をあの人間が喰らうまで。ルーナは今までどの人魚の肉も譲られていない。彼女の血肉から転化する未来はひとつだった。
そうして、彼女が死して三月が過ぎた頃。小瓶に残る両眼だけを持って、ニシェは歪の海を後にした。彼女が見たがった、故郷の海へ向かうために。
人魚が逃亡したことはきっとすぐに知れるだろう。問題は、トモリが喰らった目がルーナのものでないと分かったとき、すなわちトモリが記憶の欠落を生じ始めたときだ。
トモリという人間は、この国を統べる皇たる長になるもの。彼へかしずく者は数多くいるだろう。
人魚の魔術は人間の扱うそれとは原理が違う。人魚の魔術は自然に眠る魔力を借りて扱うもの。それは人間が多ければ多いほど使いづらくなる。ニシェがあの屋敷で扱った魔術はどれも、あの「歪の海」には長らく人魚しかいなかったから扱えたものだ。
数を頼みに捕らえに来られては、ニシェに逃げおおせる目はない。こればかりはある種の賭けだ。
ただ、もしもその「本能」にしたがい、喰らえなかった人魚の血肉を追い求めて自らやってきたなら、まだやりようはある。
はたしてトモリが、人魚についてどれほど正しい知識を持っているか。
病を癒す代わりに、我らが同朋を喰らったと知っていたならば。ここからはもはや祈るより他ない。
市井へ降り、姿をくらませるのはなかなかに骨が折れることであった。長く生きていたとて、人間の文化や風土を理解するだけの時間も機会も与えられなかった。
結果として、風変わりな旅人として振る舞うよりほかになかった。異国の旅人と称して、今まで見たことのない「海」を目指すのだと吹聴した。この国の人間は、海を忌避するものと教え込まれている。そんな彼らへ自分の知る海の話は出来なかった。人間の振舞いを学びながら、海を目指した。
ニシェを捕らえていた皇国は、トモリに「影憑き」の症状が現れ始めてすぐにニシェのいるはずの歪の海を改めた。そこでようやく、ニシェが魔術で撹乱させ、皇国から脱走していることに気がついた。これまで云百年と逃げる素振りも見せず従順だったその人魚が逃げ出すなど、思ってもみなかったのだろう。
部屋にかけた魔術が破られたことは、ニシェにも伝わった。そこから、トモリと「再会」するまでに、そう時間はかからなかった。
トモリは輩を率いてではなく、単身でニシェを見つけるつもりだった。たとえニシェがルーナの目を既に食べていても、トモリにはルーナの目を食べた者、あるいは持ち去った者の居場所がわかる。帰巣本能のような、またははじめに見たものを親と思う刷り込みのような情動。
どんな思いで、トモリはニシェを追うことにしたのか。それを、ニシェはついぞ知らなかった。
転化してゆく人間など数え切れないほど見てきた。トモリがすでに記憶の殆どを失しており、己の名前もそろそろ泡沫に消える頃合いだろう。人間が最後まで持っている己の情報、それが名前だった。
皇国は、身分が高くなればなるほど顔を隠し、姿を偽る。市井にまぎれてしまえば追うことも難しくなっただろう。
けれど顔はわからぬとはいえ、身なりや所作で高貴な身分であることは容易に知れる。その道中が決して穏やかでなかったろうことは確かだ。
事実、ニシェがトモリを見つけたときも、どこの誰ともつかない人間数人に囲まれていた。手を出さずにいることも出来たけれど、あの身体はルーナになるものだ。傷つけられてはたまらない。
「しょうがないなぁ」
月籠の夜に、歌を響かせる。風が雨雲を運び、次第に気温がグッと下がる。
人魚の歌は嵐を呼ぶ。もっとも、海が遠いこの場所では嵐ほど強いものは呼べず、立ち込めた雲の末に降り注いだのは霧雨だ。けれどそれでも、彼らの目をごまかすには十分だった。
彼らが怯み伏せたその隙にトモリの腕を引く。ほんの少し、魔術で彼の意識に目隠しをした。昏倒する身体を器用に抱えて、彼らに見つからない場所まで移動する。
再会する時には、彼女の記憶を思い出していたらいい。その願いはさすがに叶わなかったかと、昏倒した彼を地面に転がした。そのまま立ち去ってもよかったけれど、この様子では幾度も同じことになるだろう。皇国からの追手もじきに自分達へ追いつく。
このまま転化が進んでいくのを、見届けるのも悪くはない。その思いの裏側にある迷いに、目をつむった。
地面に転がしたトモリが目を覚ますのは早かった。ただ、目を覚ましても彼はすぐに起き上がることはなかった。ぼんやりと空を見つめている。
つられてニシェも夜空を見上げる。月籠の夜は寂しいと言う者もいたけれど、月が昇らぬ代わりに星の瞬きが賑やかしい。久しく空など見上げていなかったことを思い出す。あの歪の海から見えるのは、切り取られたひどく狭い空でしかなかったから。
ただ、敬虔な皇国の人間であったこの青年は、おそらく月籠の夜空を見上げるのも初めてだろう。そんな彼が、この空にいったい何を思ったのか。それは少しだけ、気になった。
懐へ忍ばせた、ルーナの最後の欠片を握りしめる。彼も、彼女も望まない時間稼ぎと逃避行。そんなことは分かっている。これは最初から最後まで、ニシェ自身のエゴでしかない。
「目ぇ覚めた? おにーさん」
なぜだかは分からない。
ただ、かけた声は少しだけ、優しさがにじむ柔らかなものだった。
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