第5話

 遠い遠い、昔の記憶。

 近頃陸の世界は騒がしいと聞いていた。人間同士が争いあっているらしい。短い命をさらに縮めて、一体何をしているのか。何にせよ、争いを海に持ち込むことはないように。海底の長はそう定めた。

 けれど、禁止されるとなお一層好奇心を掻き立てられるのは一体どうしたことだろう。

 人に憧れて海を抜け出した、月籠の夜。月神様のいない夜は、代わりに星がいつもよりものびのびと煌めいてその夜空を飾っていた。人間は海を恐れて近寄らない。海は彼らを攫うからだ。

 バレる前に戻ろうとした、その間際。怪我をした人間がひとり倒れているのに気がついた。人魚の間では怪我をするということも稀だった。しげしげとその人間を眺めた。ただ、時折呻くように声を上げるその人間が苦しんでいるのは分かった。それならば、と人魚は人間の手当をした。人魚が知るひとつの方法。ほんの少し、彼の怪我に己の血を混ぜるという簡単なこと。

 ただ、それを人間へ行ったことは一度もなかった。そして、それが禁じられていることを、その人魚は知らなかった。

 ほんの一滴、ただそれだけで人間の怪我はたちどころに治ってしまった。命の恩人だと彼は人魚の手を取って、感謝するように祈るように、何度も感謝の言葉を紡ぎ続けた。

 人間の世界では、国と国が諍いを起こして人間を殺したり殺されたりしているらしい。

 それは彼らが生きている「証」なのだという。己の意志を貫き通すこと、相手に屈しないことは、彼らが彼らである大事な証なのだとその人間は言った。

 けれど、人魚が助けたその人間はもう争いごとに再び加わるつもりはないようだった。一度死を目の前にして、偶然にも助かったこの命を大事にする、と心変わりをしたそうだ。争わなくても生きていられる、そんな世界がいい。人間はそんなことを言った。

 ただ、そうして語らううちに彼の「魂」は少しずつ削れていた。人魚がそのことに気がついたのは、もうずいぶんと時間が経ってからだった。前に自分へ語ったことを忘れている。以前ならば書けていた人間の文字というものが書けなくなってきた。時折、受け答えすらまともに出来ないことすらあった。

 それが、自分の分け与えた血のせいであるとは思いもしなかった。


 手当をした人間の様子は良くなる気配を見せなかったが、代わりに奇妙なことが起こり始めた。

 人の言葉を忘れる代わりに、海の言葉が会話の端々にこぼれ落ちるようになった。

 彼に話したことのない、人魚の幼い頃の出来事を「思い出す」ようになった。

 それが、人魚が死期を悟った同朋を喰らい、彼らの記憶をその身の内に宿す「喚び送り」に似ていると気がついた。

 人魚はひとり不安に思う。

 喚び送りは、死する人魚と先を生きる人魚で行うもの。記憶を渡す人魚は死なねばならない。

 このままこの人間が自分の記憶をその身に「喚び」続けるのならば、自分は、彼は、一体どうなってしまうのか。

 不安に思い始めた頃、ようやく気がついたことがある。その人間に起きていた変化は、もうひとつ。彼の綺麗な黒髪は、少しずつ色が抜け、月のような白銀に変わり始めていた。

 白銀の髪。それは月神から与えられた人魚の証だった。


 人魚がその人間へ血を与えてから、半年。美しかった夜明け前の黒髪が人魚の月色に転じる頃には、自分と全く同じ顔をしたひとりの人魚が立っていた。


 人間へ人魚の血肉を与えることは禁忌とされていた。ただ、どうして禁忌とされるのか。それは秘されたままであった。かつて、自分たちの遠い先祖が人間をもって実験せしめたことを、彼らは結果のみを覚えておくこととしたからだ。

 人魚は人間の短命さを知っている。そして、彼らは生きることに固執する生き物であることも。

 人魚の血肉を食めば、命を長らえることができる。

 そんなことが知れたならば、自分たち人魚がどうなるかはわかりきった話であった。


 もう助からないであろうと捨て置いた人間が命をつなぎ、自らの足で戻ってきた。それは人間たちの間でも畏怖と驚嘆をもって迎えられた。

 何者かが手当をしたにせよ、人間の仕業ではありえない。戻ってきた人間は本当に本人なのか。

 そんな疑念が渦巻いていた中で、少しずつ記憶と人格が欠落していく彼が真っ当に扱われるはずもない。日に日に様子がおかしくなるその人間を、生かしておくべきか。彼の居ぬ間にそんな議題が持ち上がった。

 ただ、彼がたびたび野営地を抜け出しどこかへ通っていることは分かっていた。彼が向かう先に、死の淵から彼らはひとまずその人間を泳がせることにした。

 そうして、人間は「それ」を目撃する。海より来る、人に似て人でない、「人魚」という生物を。


 人魚が人の身体を癒やすことができる。

 それが分かってから、人間たちは人魚を「薬」として仕入れるべく「漁」に出るようになった。

 攫われる人魚が増え、人魚達は原因を探り始める。

 人間が人魚を攫い始めるきっかけは、一体何であったのか。

 年若い人魚の行ったことだ。そして、人と交わってはならない、関わってはならないと教えられるだけであった彼はこれが禁忌であると知らなかった。結果、その行為をさして隠すようなこともしていない。人魚の窮地を招いた行いと主犯はすぐに看破された。

 人魚に転化した人間とともに、元凶を招いた人魚は長の前に引き立てられた。転化した人魚も、血を与えた人魚も、等しく口を閉ざしていた。

 この頃には、彼らにもわからなくなっていた。どちらが血を与えた生来の人魚で、どちらが瀕死の重症を負った人間であったのかが。同じ記憶を持ち、同じ身体を持ってしまった自分たちに、判断することなどできなかった。

 本人たちが判断できないものを、他者が断ずることなどできようはずもない。分かることといえば、確かにこの人魚が人間を転化させ、それを見た人間が自分たちの種を食い荒らそうとしていることだけだった。

 沙汰が決まるまで、と檻に入れられたのは一週間。けれど、どのみち沙汰が下ったあともこの檻から逃れることはないだろう。自分が死期を悟るその時まで、この檻の中にずっと在るのだろう。人魚はそう思っていた。

 そして、長は人魚ふたりを前に沙汰を下す。

 それはこの海からの追放。その命が尽きるまで、人間のもとで生きること。

 長は人間の住む国の王を呼びよせた。海と陸と、双方の利害を一致させるために。

 人魚は人間を癒やすだけでなく、ときに人間を人魚に変える力を持つ。実際に、それは人間たちも目の当たりにしたことだろう。人魚が要るというのなら、その手ずから「造る」といい。そのための人魚をふたり、こちらから引き渡す。

 身内を売るような真似をする彼らに、何かの罠ではないかとはじめは人間たちも怪しんだ。人魚は人間の道理にはない妖術をつかう。甘言での類いではないか、と随分警戒されたそうだ。

 随分と疑り深いものだ、と長は半ば呆れたように言った。人間側の「風習」と同じだ、と長は続けた。

 引き渡すものは単なる贄にすぎない。それで我が種族が生き長らえるのならそれでいい。贄となるものも、どのみちこの海にはもはや置いておけぬ禁忌の者共であると。

 かくして契約は成り、ふたりの人魚は海から陸へとあげられた。

 それは、月神が空へ上がらない月籠の夜のことだった。


 こうして、人魚は陸の世界に引き渡された。国を統べる皇へと献上された「[[rb:人魚 > 秘薬]]」は、屋敷の奥深くに人知れず隠されることとなった。人魚が生きるための海をこしらえ囲われた。

 すべてが人間の手で作られた、歪の海に。

 人間達はこのふたりの人魚を手に入れてから、自分達の国を「皇国」と呼ばせるようになった。

 罪人に人魚の肉を喰らわせ人魚を作り、病に伏した一族のものへ、もしくは手傷を負い彼岸へ渡ろうとするものへ、人魚を喰らわせ命を長らえた。それを彼らは「陽の神様の加護」だといった。安寧なる国を作るそのために、神から頂いた加護であると。

 また、万一にもこのからくりがばれぬよう、民が海へ近づくことを禁じた。人魚の伝承は海辺の民には口伝されているものであったが、口伝故の曖昧さを利用して誤った「逸話」を大量に紛れ込ませた。そのうち「人魚の血肉には傷を癒す力がある」という「事実」は次第に「物語」へと変わっていき、人々から忘れ去られることになった。

 人魚が己の出自を隠せぬ月籠の夜は外へ出ぬように掟を作った。

 ゆっくりと、けれど確かに、皇国を統べるひとつの家は神話を作り上げ、「人魚」を自らの手中のみにとどめおいた。


*****


 トモリの病を癒やすために、皇国はニシェの身体から人魚を作り上げることにした。幾年も変わらぬ行為に誰も彼もが慣れきっていた。

「だけど、トモリのために造られた人魚は、誰の記憶も受け継ぐことができなかった」

 その人間へ分け与えたのは琥珀の片目。随分と少ない肉で転化させるものだな、と少し不思議に思った。それだけ傷つけられることは少なくなるのだから、良いことといえばそのとおりだが。

 徐々に欠落していく自分の記憶に時に怯え、時に暴れ、時に嘆く。狂っていく人間の姿を見るのは何度目かなど、もはや数えることをやめて随分と時間が経っていた。

 それでも、今回は少し違和感があった。

 人と人魚の狭間にあるとき、彼らは皆一様に自分の「思い出した」自分のこと――いわゆる「人魚の記憶」を話しだした。ニシェが人魚であると理解してのことだ。もとより人魚は同族に対しては饒舌になる傾向にある。

 けれど、今回の転化しかけの人間は薄れゆく記憶と自我に嘆くばかりで、何かを「思い出す」そぶりが全く見られなかった。ともすれば、不思議そうにこの海をきょときょとと眺めるばかり。幼い仕草が多かった。

 もう少し血肉を与えていたなら、正しく人魚としての記憶を「思い出して」いたかもしれない。とはいえ、与えた人魚の血肉が多ければ多いほど、転化の速度は遅くなる。この国の人間は、どうやら急ごしらえで人魚を造りたいようだった。皇家の事情など、ニシェはなにも知らない。この歪の海でひとりになってから、外など特別興味も持たなかった。


 ニシェの片目がもとに戻るころには、転化もすっかり済んでひとりの人魚が出来上がっていた。少しくすんだ白銀の髪は癖が強く跳ね回っていた。見た目はニシェと同じ十五ほどの少女だった。

「やぁ、久しぶり。きみの名前は?」

 何度繰り返したか分からない、人魚に転化して初めての挨拶。ニシェの目の前に現れる人魚は、かつてニシェが弔った人魚である。そのうちきっと呪詛を吐かれることになろうとも、ニシェは名を尋ねることを辞めはしなかった。

 合わせた目は、遠い昔の珊瑚を思い出した。子どものときよく遊びに行った、珊瑚の海。

 ニシェの問いかけに、その人魚は答える代わりに首を傾げた。ニシェの言葉は聞こえているのだろうが、その答えを持ち合わせていないように見えた。

 水に入ればその手足はヒレに変わり、水にたゆたうその姿は確かに人魚のそれであるのに、その人格はまるきり無垢な、生まれたての赤子そのもの。どうしたものか、と眉をひそめた。

 どのみち、この人魚もこれまでと同様にこの海からいなくなる。自身が人間の糧になるために殺されることを、わざわざ教えてやる意味もない。何の知識も持たないままいたほうが、むしろ彼女のためになるのではないか。

 そんなことを考えているうちに、ぺたりと彼女の濡れた両手がニシェの頬に触れた。そのまま、彼女は自分の額をニシェのそれへと合わせる。

 額を合わせるそれは親愛を示す行為。ともに寄り添うことを表すそれを、ニシェが最後に受けたのはいつだったか。

 無意識だった。応えるように彼女の頬に手をやって、ようやく自分のやっていることに気がついた。けれど、やめはしなかった。ただひとつの思いを額に込めた。

 言葉も記憶も、己の名すらない彼女が示す、純粋な感情に応えることは、きっと出来ないのだろう。けれどそれでも、いつかくるその時までの安寧を祈ることは許されると信じている。

 そっと合わせた額を離せば、屈託なく彼女は笑う。

「……まずは、名前からかな」

 彼女の行為がただの反射だったとしても、それに応えたいと思った。

 見上げれば、天井に大きく開いた窓にはぽっかりと月が浮かび、この歪の海を柔らかく照らしていた。鈍く照り返す彼女の髪をくしゃりと撫でた。

 なにかに名前をつけたことなど一度もないし、どんなものにすれば良いのかなど分かりもしない。

 ただ、空気も澄んだ綺麗な夜空に、故郷の海を思い出した。そして、自分が月夜の海が好きだったことも。

 彼女の生命に少しでも、意味があるように。幸福が訪れるように。

 そんな願いを抱くことも本当は間違っているのかもしれないけれど、ここで咎めるものは誰もいない。ほんの少し、いろんなものに目を閉じた。

「それじゃあ、よろしくね。ルーナ」

 こうして、生まれたての人魚との共同生活が始まった。


 ルーナは物覚えの良い人魚だった。もともと人魚という種そのものが強い好奇心を持つことも理由の一つかもしれないが、ニシェが言葉を教え、文字を教え、一通りの意思疎通ができるようになるのに一月もかからなかった。

「ニシェは、どうしてこの海にいるの?」

 その問いかけはいつだって無邪気なもので、その裏側にはただ純粋な好奇心がある。やれやれ、とニシェは頭を振る。答えられるはずもなかった。それでも、何も答えないわけにはいかなかった。

「何でもないさ。たまたまだよ」

 故郷が違う場所であることは伝えていた。ルーナに物事を教える過程で、ニシェの故郷がこの海でないことは知れていた。

「外から来たの? 私も、外に出られる?」

「……ルーナは、外が知りたい?」

「うん。ニシェの話す外のお話は好き。それに、私が外に出たら、ニシェに外の話をしてあげられる」

 ニシェも外のことは好きだよね、と屈託なく尋ねる彼女に苦笑する。好きに外へ出られない身の上であるのは、彼女も理解しているだろう。それでも、まだ彼女は夢を諦めることがない。

「……そうだね。外にはきみが知らない話が、知らないものがたくさんある。それを知るのは、きっとルーナにとって楽しいことだ」

 叶うならば、それが正しく成就することをニシェは願った。ニシェにできることなど、この程度であったから。

 ニシェの言葉を聞いたルーナはひどく喜んだ。


 人魚には予知の能力など無いけれど、不思議と少し先のことを「悟る」ときがある。それは大概、自分の命にまつわる何某かの出来事だった。

「ねぇ、ニシェ」

 怯えているというよりは、どうしたらいいかわからない動揺に見えた。ただ、ニシェは彼女に何が起きたのかを理解する。

「終わりが見えた?」

 こくり、と彼女は頷いた。

「……怖いものかい?」

 死期を悟るという、その思いは。彼女は首を傾げる。

「ぼくは、もう少し長生きするみたいだから」

 ニシェにはまだ、自分の死期が見えたことがない。だから、死期を悟った人魚達の気持ちはまだわからないままだ。

 問われた人魚は思い返すように天へ視線をやった。少し遠い目は、どこを見ているのかニシェにはわからない。少しして、死期を悟ったその人魚は緩やかに頭を振った。

「どんな風に死ぬのかはわからないけれど、怖くはない。けど、少し、驚いた」

「……きみの死に方は、決まってるよ」

 この豪奢で歪な海で産まれた人魚は、ただひとり、ニシェという例外以外はみな命の終わり方が決まっている。丁寧に調理されて、人の命の糧になる。

 ニシェの住んでいた海は命に満ちていたけれど、ここは無機質で寒々しい培養槽にほかならない。人間の手で切り分け与えられたニシェの血肉は、人間を人魚へと転化させることだけに使われてきた。そうして転化した人魚は、傷を負い命が潰えそうな人間へと与えられる。食べ残しはないように、丁寧に。

 この海にはニシェたち人魚の世話係がいる。何も知らない彼らには「異国の客人」と吹聴していると聞いていた。客人ならばいついなくなっても都合がつく。

 ただ、謀っているのは人間だけではない。ニシェも自身の扱える魔術の仔細を明かしてはいなかった。人魚の世話係としてやってきた娘は、人間の魔術も初歩的なものしか扱えないようだった。

 人間の扱う魔術と、海のものが使う魔術は系統が大きく異なる。たとえ人間の魔術に対して抗する力が強くとも、海の魔術には対応できないことも多い。

 それを利用して、ほんの少し世話係の意識をいじって情報を調べさせた。自分たちが「客人」扱いされているのを知ったのもこの方法だった。

 そして、それを今回も少しだけ。この急ごしらえで作られた人魚が、一体どんな人間のために死んでいくのかが、少し気になった。


 部屋付きの侍女が歩き回れるところは限られているけれど、彼らは噂話が好きだった。虚実混じったそれから少しずつ、この館に起きていることを探っていく。主に、病におかされた人間がいないか、その命を散らそうとしている人間はいないか。

 急ごしらえで人魚を作らなければならないほどだ。その命は早々に儚くなるのだろう。

 彼女を食べるであろう人間を探しながら、ニシェは自分の行動に少しの違和感を覚えていた。これまで、自分から作られた人魚が一体どう死んでいくのかなど、調べたことなどなかったのに。


――約束だ。いつか、一緒に海を見に行こう――

 叶わない約束が脳裏によみがえる。あのとき、どうしてその約束を結んでしまったのだろう。

 緩やかに首を降った。今更、考えたところで仕方がない。元より、人魚は思うままに生き思うままに死ぬ生き物だ。これもただ、気が向いただけ。理解なんて出来なくていい。


 遠い離れの一室から、夜毎に苦しげな声が聞こえる。


 そんな噂にたどり着いたのは、ニシェが調べはじめてから半月ほど経った頃。

 侍女たちは言う。陽神様の加護を頂く皇家の人間は、その身に病を負うことがない。なればあの呻き声は人ならぬものの声か。祈祷師に祈らせても効果がなかったとか。不浄のものがこの居に紛れているのだろうか。陽神様の加護が弱まっているのか。

 彼らが呼ぶ「加護」の正体が、病になるたびに人魚の肉を食らっていたからだと知らないのはどこか滑稽ですらあった。

 とはいえ、これで向かう先が見つかった。転化したてでまだまだ不安定なその人魚へ少しずつ、虚実が折り合わされた物語を聞かせるようにニシェは語る。

「きみが生まれた理由、そして死ぬ理由。どちらにも関わりがある人間が見つかったよ」

 もし、きみが望むなら。その人間を見に行くかい?

 こんなことを言い出した理由を、ニシェは正しく理解が出来なかった。ただニシェは願っただけだ。

 彼女がこれで、死にたくないと願ってさえくれればいい。

 こんな人間のために、刻まれ焼かれ煮られ砕かれ、誰にも弔われることもなく死ぬのは嫌だと願ってくれたらいい。

 そうすれば、彼女をみすみす死なせずに済む。

 この感情の正体が、一体なんなのか。それを探りはじめる自分の心に蓋をした。

 ニシェの誘いに、彼女は少しの拘泥の後に頷いた。


 鍵のかかる歪の海を抜け出した。どうせ見回りになど来ないけれど、それでもほんの少し魔術を混ぜて気がつきづらくしておいた。

 そうしてやってきた離れの奥。

 しばらく続いた呻き声は陸の獣のようで、彼女ははじめこそその声におびえてニシェの後ろへ隠れた。

 けれど、元来人魚は好奇心に勝てない生き物だ。年若いものならばなおさら。じきにその苦しげな声が聞こえなくなれば、部屋の中をひっそりと覗きたがった。

 月明かり照らすその一室。乱れた呼吸をなだめながら、寝台に横たわるひとりの青年。この場所からは顔を見ることはできない。

 月を雲が隠し、部屋はゆっくりと薄闇に包まれていった。もしこのまま眠りにつくのならば、もう少しだけ近づけるかもしれない。

 そう機会をうかがっていた、その時。

 ふいに寝台の青年がこちらへ振り向いた。その焦げ茶の瞳と視線が交わる。

 慌てて彼女と共に影へ隠れた。ここで人でも呼ばれたなら面倒なことになる。

 けれど、部屋の中からは何の物音もしない。ほっと胸を撫で下ろすその傍らで、彼女は再度部屋の中を覗き込んでいた。引き留めようかとも思ったが、確かに部屋の中も気にかかった。ニシェも彼女に追従する。

「逃げないで、くれないか」

 どこかまだ少年のような、ちょうど過渡期の柔らかな声。得体の知れない相手にかけるにはあまりにも優しすぎるそれに、動けなくなった。

「君たちに害をなしたりしないよ。人も呼ばない」

 どうしようか、と顔を見合わせた。考えた時間は少しだけ。本当ならば、ここで引き返せばよかったのかもしれない。けれどそれが出来るほど彼女はおとなではなかったし、ニシェも想定が甘かった。

 翳る部屋へと足を踏み入れる。人避けの魔術は、人ではない人魚の彼らには効かない。

 雲が流れ、ゆっくりと月の光が部屋を照らし出す。ふたりの白銀の髪は光を取り戻すように煌めいた。

 自分と違う生き物だと、彼が理解をしたかは分からない。人魚という存在はニシェがここに囚われてから秘匿され続けてきた。彼が伝承を「隠している」側であるのは確かだが、まだ年若い彼がそこまで知っているのかなど分かりはしない。

 はじめまして、と彼は言った。人間が、はじめて会った相手に告げる言葉だと。

 どことなく衰弱して見える彼の見せる笑みは、美しかった。

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