第4話

 皇国の皇に子はひとり。十五を迎え成人として迎えられてからは、その身に役を負い次代の皇となるべく政の傍らに座するようになっていた。

 けれど、皇家を妬む者がひとつの呪詛をかけた。皇はその力をもって事なきを得たが、呪詛の矛先は年若い御子へと向かった。

 御子へ降り掛かったのは、徐々に記憶と自我がこぼれ落ち消えてゆく「影憑き」という呪い。この皇国でも口の端にのぼるもの。けれど、皇国の政を担う一握りの人間しか知らないことがある。

 「影憑き」は人魚がかける呪いだということ。

 人魚。海に生まれ海で死するその一族は、水に浸かればその手足を長いヒレへと変化させ、人間とは違う思想と条理で生きる種族。

 呪いを解くには、呪いをかけた人魚を捕らえねばならない。

 皇国は「影憑き」となった御子とともに、人魚の行方を追い始めた。人のように擬態をしていても、痕跡まで完全に消すことは難しい。

 結果、少しの時を費やし、呪いをかけた人魚を見つけることは出来た。

 取り囲んだ先でその人魚は皇国の衛士を倒し、あろうことか御子を連れ去り逃亡を続けた。

 そしてようやく今、二度目の遭遇を果たしたのである。


「……どうして、ニシェは私を呪うようなことをした」

「我らが皇家を恨むもの、呪うものは山といます。己が繁栄のために命を奪おうとする者も」

 あれなるはその一端、と彼らは続ける。

 知れず、心臓の上に手をやっていた。ざわつく胸をなだめるように。

「……これから、どうするつもりだ」

 無策に自分を「保護」しに来たわけではあるまい。彼らの目的は分かったが、先が読めない不安感はぬぐえない。

「御子君には皇居までお戻りいただくこととなります。あれなる人魚は、我らが先を追いましょう」

 再びかの人魚の手に落ちれば、次こそ命はないかも知れない。彼らの言葉に、トモリはしばし口をつぐむより他になかった。


 全てを聞き終えた頃には、日もとっぷりと暮れて満天の星が瞬く夜がやってきていた。帰路への出立は準備も必要なため、早くても明日の昼頃になるという。

 部屋にひとり残されたトモリは眠ることも出来ず、先ほど聞いた話を反芻していた。

 今眠れば、また何か夢を見られるかもしれない。そう思い至りもしたが、眠るには時間が足りない。明日の昼には、自分は記憶にない「家」へ戻される。

 ひとつ、ゆっくりと息をついた。

 彼らが告げた「人魚」と、ニシェがどうしても重ならない。けれど、トモリは彼の何を知っているわけではない。事実、トモリに彼は何かを隠している節もあった。

 目を閉じる。たった半年の「記憶」を反芻する。見たもの、聞いたもの、触れたものを思い返す。

 そうして、トモリはゆっくりと目を開いた。向かう先は、自ずと決まっていた。


*****


 さざなみの聞こえるその海は、白い砂浜に覆われていた。見渡す限りの夜海には、白銀の丸い月が浮かんでいる。

 遠く永い旅路の果て。ようやくたどり着いた人魚の元へ、一人の青年がようやく追いついた。振り向きその姿を認めて、人魚は少しだけ目を見開いた。けれど神妙な面持ちの青年に、きみもあらかた話は聞いたんだろうに、と言う彼はどこか呆れ顔だ。事情があらかた分かった上で、なおも自分の前に姿を現すとは、と。

「わざわざきみがぼくを追いかけなくても、きみには周りにたくさん人間がいるのに。まぁ、彼らに任せておけなかった理由も分かるけどね」

「……?」

「記憶を失い始めた人間は、食べ損なった身体を求めて彷徨いはじめる。糧としたものと引かれ合う。だから、きみはぼくの居場所を労せず見つけることが出来たろ?」

 たったひとりの子どもを探し当てることなど、普通ならば出来るわけがない。もっとも、彼を追ってきたという記憶は、現在トモリから失われているのだが。

 けれど、それよりも気にかかることがひとつ。

「……食べ損なった?」

 記憶を失った原因を、自分を御子と呼んだ彼らは「呪い」だと言った。

 聞く話が少しずつずれ始めていた。

 トモリの様子で、ニシェも状況が理解できたらしい。

「きみが一体「誰」で、どうしてぼくと一緒に追われてたのか。彼らはどんな答えをきみにくれた?」

 トモリを「影憑き」から癒やすことができるのは、ニシェだけだ。自分たちを追ってきたという彼らはそう言った。けれど、それが本当のことなのか、トモリにはまだ判断がつかない。

 頭を振る。

「私から話すよりも、ニシェ。君の話が聞きたくて、私はここまで来たんだ」

「ぼくが嘘をつくことだってあるかもよ? これまでみたいに」

「それでも、だ」

 ニシェはぱちくりと目を瞬かせた。張り詰めた空気が、少しだけ和らぐ。低く、小さく。けれどそれは次第に大きな笑い声になっていく。

「前々から思ってたけど。やっぱりトモリ、きみは馬鹿だろう」

 こんなところにひとりで来たときから、分かってはいたけどさ。呆れたように続けたニシェは、そのまま砂浜に座り込んだ。トモリへ隣に座るように促す。

 長い話になるからね、立ち話はつかれるだろ。そんなことを彼は言う。少し迷いもしたが、そのまま隣に座った。触れた砂浜はきめ細やかな砂が敷き詰められていた。夜風にさらされた砂はひんやりと熱を奪う。

「ぼくが初めて会った時、きみは不治の病に侵されていた」

 かつて夢で見た情景を思い出す。無意識に胸を押さえた。覚えているようで、おぼろげに霞んだそれは、この身体に染み付いた記憶だったのだろう。

「人間の力では治せないそれを、治す方法がひとつだけあった。それが、人魚の血肉を食らうこと」

 人魚を喰らえば、その病を癒し命を長らえることが出来る。

 幼子に聞かせるような、遠い昔のお伽噺。事実だなどと思ったことは一度もなかった。そのように語られていた。彼らはそう仕向けたのさ。ニシェは大したことでもないように続ける。

「ぼくは、きみたち皇家の人間が病に冒されたときの薬として、囲われていたんだよ」

「……きみだけか?」

 発作の夢を思い出す。あの時、部屋に現れたのは銀髪の子どもがふたり。自分が喰らったといわれるその人魚も同じく囚われていたはずだ。

 その言葉を、半分は正解だとニシェは肯定する。

「あの子はきみのための薬だよ。生まれてから半年も経ってなかった。この海を見ることが叶わなかった、寂しがりの人魚。囚われてたって感じじゃない。あの子はあの世界しか知らなかった」

「……どういうことだ?」

「きみのために、皇家の人間がぼくを使って造った人魚。それがあの子だよ」

「人魚を……造った?」

 その辺は聞いてないのか、とこぼすニシェの目は冷たい。けれどその冷笑は、どこか冷たさよりも寂しさがつのる。

「きみの病を癒した「万能の薬」は人魚の血肉だ。おいそれと手に入る代物じゃあない。けれどね、自分たちでそれを「造れる」なら、話は別だ」

 人魚がひとりと、人間がひとり。それだけで、人魚を造る方法をトモリの一族、皇家は知っていた。

 そして皇家の人間が病に伏すたび、造った人魚を薬にして病を癒し、血脈を継いできた。これは病にかからぬ陽神様の加護、などという名前で民へ信仰をさせながら。

人魚ぼくたちは、人間に自分の血肉を与えることを禁忌だ。禁忌を破った人魚は海を追放される習わしだ」

 だが、ただ人魚だけがそれを禁忌としていたわけでは決してない。そんな優しい物語が紡がれるはずはない。それは、人魚と人間、双方が理解していた摂理だった。

 なれど、人魚の肉を喰らうことで人間の傷は完治する。人間にとって良きことばかりが積み重ねられているように、彼らは感じたことだろう。

 ニシェはひとつ、人間たちが告げなかった「真実」を語りだす。信じるか否かを、トモリへ託して。

「人間が病を癒すために人魚を喰らうなら、ひとつだけ。決して破ってはならないきまりがある。必ず、その血肉を余すとこなく喰らいきること。血の一滴、肉の一片すら残してはいけない。残せば、「人魚の呪い」がその身に宿るだろう」

 聞き覚えはなくとも、息が詰まる。ニシェが嘘をついているとは思えなかった。

 そしてなにより、トモリ自身がニシェの言葉を「正しい」と思いたがっていた。

 ここへ来るまでに聞いた「呪い」の物語。それが正しいとは思いがたい。けれど、完全な過ちだとも言えずにいた。

 確固として揺らがぬ信念を未だ確立しあぐねるトモリという青年は、この場でどう動くべきなのか、未だに判断をつけかねていた。

 ただ、答えられないという反応だけでニシェにとっては十分だった。傷つくことも最早ない。

「確かに、人間が人魚を喰らい損なうことで起こるのが「影憑き」だ。それを人魚の呪いだっていうなら、そうかもしれないね」


――貴方様は呪いをかけられたのです――

――我らが皇家を恨むもの、呪うものは山といます。我らが繁栄のために命を奪おうとする者も――


 思い出されるその言葉に、ゆっくりと頭を振る。

「……私が食べることのできなかった部分を、ニシェ。きみは今でも持っているのか?」

「そんなわけないだろ。とうに食べてしまったよ」

「食べた……? 仲間の身体だろう?」

「そうだよ? 仲間の身体だから食べるんだよ」

 彼ら人魚は、仲間の身体を喰らうことをおぞましいとは思わない。それは人魚にとって当たり前の慣習であった。

 人魚は自身の死期を悟ると、その身体を仲間に分け与えて朽ちていく。分けられた人魚はそれを残さず喰らい尽くして、そのまま先の生を歩んでいく。

 人間が人魚の一部を食らったときのように、意識の混濁を引き起こしたりはしない。ただ、亡くなった人魚の思い出をいくつか抱え、ふとしたときに懐かしむ。そうするうちに、その記憶を与えた人魚のことは意識にとろけて泡沫の夢のように消えうせ、あとの人魚には知識と力が残される。そしてまたその記憶は、自分が死ぬときに別の人魚へ分け与える。

 そうして長く長く、人魚は生きてきた。

 人魚は思いを知に変えて、継いでいく種族だから。ニシェの言葉は穏やかに流れる。

 自身の血肉を分け与えるとは言っても、それは同族に向けたもの。決して、人間の糧にされることを許せるはずはない。

「大方、ぼくがきみに呪いをかけた、なんて話をされたんだろうね」

 ニシェは呆れ気味に苦笑する。決してトモリに真実を告げないように画策するつもりだったのだろうと、容易に想像がつく。

 けれどそれも、トモリがひとりでニシェの元へやってくる、なんて状況は想定していなかったのだろう。彼らはトモリを言い含めるだけの文言を並べ立ててこの場から追いやり、それこそニシェを「薬にして」でも連れ帰るつもりだった。

「トモリはお人好しだね。同じ人間の言葉を信じないで、ぼくに問いただしに来るなんてさ」

「……私にとっては、普通のことだよ」

 ニシェは不思議そうな顔をする。

「たった半年。だけど、それだけの間、どれだけきみが私を恨んでいたとしても、きみは私を捨て置かなかったから。それは、信じるに足ることじゃないか?」

 ニシェは黙り込む。そらした視線をそのままに、ひとつだけ息をついた。

 心を操るような魔術は使ってないのに、とこぼす彼は、トモリの言葉をどう受け取っていいか分からないようだった。

「見捨てなかった理由なんて、きみには生きておいてもらわなきゃいけなかった、それだけだよ」

「……?」

「実際に「影憑き」になったきみなら、分かるんじゃない? 言い聞かされてた「影憑き」と、今の自分の状態がどうにも違う、ってさ」

 きみは、これまでなにも得てこなかった? とニシェは重ねた。トモリは視線を伏す。

 「影」に喰われた「影憑き」は、そのうち「影」に成り果てると、人の世界では言われている。

 記憶や人格を失っていくことを月が欠けることになぞらえたなら、影になるとはすべての記憶を失った肉の器が残されるということだ。

「……月は欠けもすれど満ちもする。月が欠けるように、というならば、その後がある?」

 欠けては満ちるのが月の定石。月籠の晦日の宵を越したその後、月は再び満ち始める。

 影憑きとなった自分はただ過去を、記憶を失い続けるばかりであったか?

 否。何も得ることはないとされた「影憑きトモリ」が、取り戻してきた「記憶」があった。

 夢の形であったとしても、あれは確かに存在した過去だと感じていた。

 勘がいいね、とニシェはトモリの言葉を肯定する。

「月が満ちるように、空の器には、次第に記憶が満ちていく。だけど、それは一体誰のものだと思う?」

 トモリは答えない。ただ沈黙をもってニシェの言葉を待っている。

「本当の月はね。影に隠され、また光を取り戻したその後も、その本質はなにも変わらないそうだよ。だけど、人魚を食べに食べて、けれど最後を食べそこなった人間は、そうもいかないんだよね」

 空の器に戻る「記憶」は、人魚のもの。

 ありえざる記憶を取り戻して彼らが名乗るその名前は、かつて自分が食らった人魚の名。

 そして、変容していくのは形のない記憶だけではない。

 名に身体は引かれていく。己が食らった人魚の名を自分のものとして「思い出した」人間は、徐々にその肉の身体を変容させ、じきにそれは人魚のものとなっていく。

 これを、人魚の世界では「転化」と言った。

「ぼくは、きみが人魚の記憶を取り戻してくれるまで、きみがあの子に成るまで。そう思って、きみを生かし続けてきたんだよ」

 トモリが夢で見た情景のほとんど全てが、かつてトモリが食らった人魚のもの。それらを全てをその身に蓄え、食らった人魚の名を自らが「思い出す」まで。すなわち、トモリがトモリでなくなるまで。ただ祈るように、ニシェはその時を待っていた。

 いい話じゃないだろう。ニシェはそのまま軽い笑みを浮かべている。彼の言葉を噛み砕くのに、トモリもいささかの時間を要した。

 静けさのなか、波の音だけがこの場所を彩る。昇る満月は海の高いところで柔らかな光をたたえ、穏やかに波立つ海を照らしている。

「聞かせてくれないか」

「?」

「私たちが、ニシェを捕らえ悪逆非道の行いをしたことは事実だろう。そこを私は疑わない。ただ、その始まりを知りたい。……私は知らなければいけない」

 まっすぐに目を見つめる。人魚とは、元々海に生きる生き物だという。ならば、何故皇国が彼を捕らえ、あまつさえ「薬」として利用することになったのか。

 ニシェは少しの沈黙の末、「しょうがないなぁ」とどこか気の抜けた返事をした。

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