第3話

 翌朝。大きなあくびをひとつしながら、ニシェは朝食のパンを口に放り込んでいた。

「ニシェ。きみは、私の知り合いだったのか?」

「なぁに突然。今時流行らないよ、そういう声掛け」

 どこかで会ったことはないか、と声をかける作法をトモリは知らないが、仔細を尋ねるより前にニシェが二の句を継ぐ。

「また、例の夢?」

 ひとつ頷く。トモリが夢を見るようになってから、ニシェはその話を聞きたがった。夢を見ることはそんなに珍しいことなのか、と問いかけたこともあったが、ただトモリの話が聞きたいだけだ。彼はそう答えるに留まった。

「今度はどんな夢だった?」

「海を、見に行こうと。変わった約束のしかただった」

 ニシェはあの夢で、両の手を取ってうやうやしく額づいた。あれは約束というよりも願いに近く思えた。トモリの言葉に、ニシェはふぅむ、と腕を組んだ。

「ニシェ。きみが海を目指しているのは、そこが故郷だから、なのか?」

「……それも、夢でぼくが言ってた?」

 首肯する。人の秘密を勝手に見ないでほしいなぁ、とニシェは不満そうに声を漏らしたが、その声音は拒絶をあまり感じない。

「海は眠りの場所だから、そこで生まれたなんて変だな、って思ってる?」

「……きみは心を読む力でもあるのか?」

「トモリが分かりやすいだけだよ」

 皇国では、海は忌避される場所だ。人々は海のそばへも近寄ることがない。海からはなにも生まれず、逆に命をさらうものと言われることが多かった。月神の寝所を荒らすものには天誅が下ると。

「きみはとても不思議な夢だと思うかもしれないけどさ。ぼくが言うことは変わらないよ。せっかく見た夢なら、大事に持っておいたら?」

 影憑きってそういうものなのかな、というニシェはどこかのんびりと続ける。それはどこか、トモリに言い聞かせるようでもあった。

 トモリは少し首をかしげる。夢を抱えていたところで、何が変わるわけでもない。それはトモリ自身が一番よく分かっていることだった。

 ただ、ニシェは不思議がるトモリをを見て、少し表情を崩した。

 違和感を覚える。理由は自ずとしれた。彼が自分に向ける表情が、今まで見せたことのない色をしていたからだ。やさしさと柔らかさを奥に隠したような視線。

 彼の紡ぐ言葉は歌のようだった。

「ぼくは海で生まれたよ。きみが夢で見たとおり」

「……私はまた何かを忘れているんだろうか」

「どーかなー」

 ニシェは茶化すような声音で煙に巻く。それでも、彼が嘘をついているようにはどうしても見えなかった。それを言えば、また「お人好しだなぁ」と言われてしまうのだろうが。

 問いかければ答えは返ってくるのだろう。詳しく話してほしいと願えば、きっと彼はそれを憚らない。

 けれど、聞いた過去は所詮「物語」にしか過ぎない。そんな「物語」は、記憶が徐々に失われつつある「影憑き」の自分にとって意味があるものなのか。

 トモリは緩やかに首を振った。考えたところで、答えが出ないことばかりだった。


*****


 皇国は山脈を背面にした皇居を起点に領土を広げた国である。海へ向かうのは首都から離れることと同義であり、緩やかに下り続ける旅路となる。

 ふたりは主に河を下る形で海を目指した。トモリとニシェが出会った町のそばを流れる河は落差も大きく細い、源流に近いところであったけれど、ここしばらくは随分と川幅も広く、川べりも開拓されて人々の生活に生かされるようになっていた。

 海へ向かう旅をはじめて、すなわち「トモリ」という名前を名乗ることになって、そろそろ半年を迎えようとしていた。

 ニシェも元は異国の者であり、トモリも記憶を失っている。いささか風変わりな旅人といった形にはなったが、それなりに「兄弟」を装うのも様になってきた。

 目的地である海まではあと少し。この町が、海に至るまでに立ち寄る最後の町だった。

 その町は、それまで立ち寄ってきた町と比べると随分と賑やかだった。町の中央に通る広い道には露天が立ち並び、香ばしい香りが食欲を誘う。太鼓や笛が鳴り響き、行き交う人々の声も表情も明るい。

「お祭りみたいだね」

 ふらりとニシェがその道へと歩み寄っていく。なかなかの混雑ぶりに、少し目を離せば背の低いニシェを見失ってしまいそうで、思わず彼の手を取った。

 振り返った彼はトモリの顔を見てクスクスと笑った。

「迷子になっちゃ困るもんね?」

「きみがな、ニシェ」

 そうして手をつないで、祭りの中へと入っていく。ちょうど昼時であり、食事関連の露天はひときわ賑わっている。腹の虫が鳴いたのは、はたしてどちらだったか。

 トモリは香ばしく焼いた肉を挟んだ軽食を、ニシェは練った小麦をからりと揚げた菓子をつまむ。

 聞けば、今日は陽神へ日々の恵みを感謝し豊穣を願う祭りなのだという。

 年に一度の祭りの日。巡り会えたのは幸運だよ、と露天の店主は告げた。


 ただ、その事件は夕暮れ時に訪れた。

 ニシェがふと立ち止まり、後ろを振り返る。遅れながら、トモリも同じ方を向いた。

 遠目に人だかりが見えた。管弦の音とは違う、胸がざわつく騒がしさが遠くから聞こえてくる。

 突如、手を引かれた。ニシェは町の出口、海の方へとトモリの手を取ったまま駆け出す。

「っニシェ⁉」

 問いかける声に、彼は答えない。ただ何かを、どこかを探すようにあたりを一度見回した。

 そうして立ち止まった場所は、町の外れ。弾む息をどうにか整え、改めてトモリは問い直そうとした。

 それは一瞬のこと。ニシェがトモリの膝裏を蹴り飛ばして跪かせ、片手で腕を後ろ手に抑え込んだ。空いた右手には彼の使い慣らした短刀があり、トモリの首にその刃が当てられた。

「全員そこから動くな」

 普段のニシェからは想像もつかないほど、温度の低い声音だった。表情は見えない。完全に動きを封じられたトモリに今見えるのは、ほんの少し先の地面のみだ。

「……ニシェ。これは」

「あぁそっか、きみの魔術耐性を忘れてた」

 どこか脳天気にすら聞こえる声音が降ってくる。本当なら、きみも言葉を発することなんて出来ないはずだったのに、と。

「まぁ、少しじっとしててね。わかるだろ?」

 自分よりも小柄な彼だが、その拘束に抗えない。トモリを捕らえる腕のくびきは鋼のように硬く、喉元にはヒヤリとした刃が当てられたままだ。

「きみたちも想定が甘すぎるよ。この人ならぼくが何もしないと思った?」

 独り言を喋っているのも風聞が悪いね、などと戯れるように言葉をこぼす。

「出てこないなら、このまま続けてもいいよね?」

 薄情な人たちだなぁ、と告げる彼の声音は他人事のよう。

 周囲の気配が揺らぐ。魔術のベールが拭い去られ、そこに五人の男女が姿を現した。彼らは皆地面に額づく皇国最敬礼の姿でトモリを、そして自分の動きを制し脅すニシェへ拝礼していた。

 クツクツと嗤う声がする。ニシェだ。

「こんなところまでご苦労様。これで、全てがうまくいくなんて。そんなことを、期待した?」

 周囲を囲む彼らが顔をあげることはない。当たり前だ。皇家の人間を垣間見ることは許されない。自身の記憶などないのに、それだけは直感した。彼らはよく見れば小さく震えているようだった。畏怖と怒りがないまぜになった、生きた感情の現れ。

 けれど、それも長くは続かなかった。低頭した人々のうちひとりが懐へ手をやる。引き出したそこにはいくらか文字の書き付けられた紙片が握られていた。紙片は男の唱える言葉に呼応し光を宿す。

 突如、紙片に引き寄せられるように、どこかから現れた大量の紙片がかの男を中心にして舞い散る。視界を遮るのは一瞬のこと。それに合わせて別の者が一足飛びに距離を詰めていた。

御子君みこぎみ!」

 その手がすがるようにトモリの腕を取った。そのままトモリの喉元に当てられたナイフを奪い取ろうとするが、その時間までは与えられない。

「本当に、面白いね。きみたちは」

 首元に当てたナイフをすがりついてきた男へ振るい、誰へ語るわけでなく彼は続ける。

「きみたちは「人魚の歌」に、ずいぶんと苦労させられたはずなのに」

 くすり、と小さく嗤う表情は見えない。けれど、彼の声音は喉元に当てられたナイフよりも冷たい。

 ニシェは軽やかに、そして伸びやかに歌を紡ぎ始める。それはトモリの知らない異郷の歌。

 始めに聞こえたのは、遠くに籠る雷鳴。そっと空を仰ぎ見れば、雷を孕んだ黒い雲が黄昏の空を覆い尽くしていく。その早さは尋常ではない。瞬く間に空は暗雲に覆われ、ぽつりと雨粒がひとたび地へと落ちれば、それは止めどない滝のような豪雨となった。

 町の人々が散り散りに豪雨を避けるべく駆け出す。拝礼していた彼らがニシェの歌を止めようとこちらへ向かい来る。ニシェはなおも歌いながら、トモリの喉元に当てていたナイフを彼らの前へと放り投げた。同時に、ニシェは彼らに背を向けるようトモリの腕を引く。

 ちょうど彼らと自分たちの中間点に高らかと投げられたそのナイフへ引かれるように、雷鳴が轟く。衝撃にすくむ身体を意に介すこともなく、ニシェは楽しげに歌い続ける。

 じきに、奇妙な感覚がトモリを襲う。音が徐々に遠ざかっていくようなそれは、かつて一度、始めて出会った翌朝に経験したニシェの魔術。姿を隠すその魔術は豪雨と相まって効力を増していた。

 ニシェに手を引かれ、トモリはその町を後にした。


*****


 突如降り始めた雨は、彼が歌うことをやめれば自然と霧散していった。トモリは自分を掴むその腕を思いきり払い除けた。

 琥珀色の目が合う。その眼差しに、表情に、胸の内がざわめいた。この道中彼が一度も見せたことがない、嫌悪の奥に諦観を押し込めたような、そんな眼差し。

 空にはいつのまにか星が瞬く時刻となっていた。ニシェの髪が、気づけば黒から白銀に変わっている。今宵は満月。月が彼の髪を照らし出す。

「もう隠しておく必要なんてないからね」

 さっぱりとした口調はどこかなげやりさを感じさせた。

 分からないことばかりが積み重なる。けれどそれでも、だからこそ、自分はひとつずつ尋ねていくより、他に方法を知らない。

「ニシェ。きみは何を知っているんだ」

「随分漠然としたことを聞くね。きみよりはいろんなことを知ってるよ」

 凍てついた視線。少年が宿すには老獪すぎるそれ。けれど、トモリも視線をそらすことはしなかった。ここでそらせば、二度と彼は話してくれないだろう。それだけは肌で分かった。

 トモリの腕をすがるように掴んだ人間は、トモリのことを「御子」と呼んだ。ただの影憑きの青年への対応ではなかった。

 これまで、追っ手とされる者は皆トモリが影憑きだからこそ現れると聞かされていた。

 ただ、それが誤りであったなら。彼らはなぜ、自分達を追ってくるのか。

「追われているのは、私か? それともニシェ、きみなのか?」

「どっちもだよ。ぼくはぼくで、そしてきみはきみで追われる理由を抱えてる。とはいっても、ぼくが追われる理由は、きみのせいだけれどね」

「私の……?」

 あまり長話もしてはいられないんだけどな、とニシェは周囲を一別した。軽く口笛を吹けば、一瞬音の籠るような違和感。彼が普段扱う、音が漏れないようにする簡単な魔術。

「トモリ。きみは、人魚という種族を覚えている?」

 ぽつり、と零すようなその言葉。人魚、という単語に、ひどく嫌な胸騒ぎがした。

 知っている。識っていた。思い出さなくてはならない。けれど、思い出すことを何かが拒んでいる。知れず、胸元をきつく握りしめていた。

「海とともに生き、海にてすべての生を終えるもの。その姿は案外、この陸を生きる人間と変わらなかったりもするんだよ」

 紛れてしまえば、人間と人魚の違いなどそうそう分からない。元々人魚は好奇心が旺盛であり、人魚は陸の話を、人間は海の話を聞きたがった。どちらも異界に惹かれる生き物だった。

「ただ、簡単に見分けられる方法がひとつある。人魚は」

「月籠の夜は、その髪を隠すことができない」

 ご名答、とニシェが笑った。彼の言葉を継ぐようにするりと出てきた言葉に、トモリ自身が驚いていた。混乱するトモリをおいて、そのままニシェは語り継ぐ。

「人魚は月神様の寝所に侍る生き物。月の見えない夜であっても月神様の存在を感じられるよう、人魚に月色の髪をお与えになった」

 語られる「物語」を、聞き覚えはなくとも「憶えて」いた。

「昔、ぼくが教えたことだよ。思い出した?」

 暴れる心臓をなだめるように、胸元をつかむ。ニシェは静かにトモリを見つめたまま、「やめておくかい?」と問いかけた。

「すぐにどうこうなるわけじゃあない。目を閉じて耳を塞ぐ時間だって、今のきみには必要かもしれないよ。終わりの日はきっと近いけれどね」

 トモリは頭を振る。ひとつ、細く長く息を吐いた。暴れる心臓をなだめる、気休めの呼吸法。

「ぼくは、トモリのところでずっと囲われていた人魚だよ。そこから逃げ出したおかげで追われてる。きみだって、ぼくを追ってやってきたんだよ」

 面識がない、なんて嘘はとうに見抜いていただろ、とニシェはにべもない。ただ、トモリが気にしたのはそんなことではなかった。

「ずっと、気になっていた」

「?」

「きみが私を見る目だ。大事なものを見るような時や、ひどく怒りを圧し殺しているような時もあった」

 ニシェはトモリを見る目をそらさなかった。琥珀色の瞳はなにかを見定めるべく、こちらを注視しているようにも見える。 

「ぼくだって感情を持つ生き物だからね。色々思うことはあるよ」

 言葉とは裏腹に、その声音には感情の色が宿ってはいなかった。けれど、トモリがこの後何を言うのか。言葉の続きを促していた。

 静寂は瞬きの合間ほど。こぼれ落ちたのは、ひとつの問いかけ。

「それは、本当に「私」に向けた感情だったのか?」

 私を通して、違う「誰か」を見ていなかったか。トモリはその答えを待った。

 けれど、その答えは語られない。代わりに彼が見せたのは、どこか寂しげな笑顔。

「ここまでだ。もう一緒には行けないや」

 取り出したのはひとつの小瓶。なかにはたっぷりと何かしらの液体が入っている。トモリが見るのは初めてではない。以前一度、それを扱うところを見ていたのを思い出す。

 なにもないところから魔術の奇跡を起こすのは骨が折れるが、慣れ親しんだ「触媒」があったなら話は別だと、彼は昔語っていた。


――ニシェの魔術は美しい。歌うときは少し低くなるその声も、媒介に触れる所作も――


 誰かの記憶を「思い出す」 そっと手を濡らし、彼は戯れるように中の水を周囲へまいた。聞き取れないその歌詞にのせて、ゆっくりとニシェの身体が薄闇に溶け込んでいく。

「ニシェ!」

 手を伸ばすも空を切る。そこに残るのは残滓ばかりで、もはや止める術は残されていなかった。

「悪くはなかったよ。きみとの旅も」

 最後にそんな声だけを残して、銀の髪の子どもは姿を消した。残された青年はひとり、ただ空を切った手を握りうつむいた。


「御子君」

 多くの足音と共に、その声は背後からやってきた。振り向けば霧を抜けてきた「追手」がようやく追いついてきた。トモリの眼前で膝を折り頭を垂れる。

「よくぞご無事で」

 決して彼らは顔を上げない。おそらく、見たところで自分の記憶に残っているとは思いがたいが、隔絶されたその仕草に胸がざわついた。

「……あいにくだが、私には記憶がほとんど残っていない。お前達はいったい何だ?」

 言葉を繕うだけの余裕もなかった。別れ際のニシェの言葉が繰り返される。記憶を失いつつあることは確かであり、そのうち自分は「影」となり果てるのだろう。けれど、それでも真実を追い求めることは許されるはずだ。

 トモリの問いに、頭を垂れたままの彼らはさらに低頭した。頭を上げよと言うのは簡単だが、それを命じたところで聞く耳を持たないとは容易く予想がついた。

 ならば、トモリの告げる言葉などひとつだけだ。

「私のことを知っているんだろう。記憶のない影憑きの私を。どうせ死にゆく身の上であれども、死出の旅路に持ち行く土産話くらいは許されよう?」

 するすると出てくる言葉は、ニシェと語らう時とはまるで別の色をもっていた。彼らの振舞いがそうさせるのか、それともトモリの身体が覚えていることなのか。

 トモリの言葉に、平伏したままのひとりが頭を振った。おいたわしや、と嘆く声がそれに続く。

 また少し胸がざわつく。たしかに自分は影憑きであるが、それでもこれほど嘆かれねばならないのか。

(……あぁ、そうか)

 そこでようやく思い至る。

 ここまでの旅路を、ニシェというひとりの少年と歩んだこれまでを、否定されたくないのだと。

 例えそれが、この世の理に抗うものであったとしても、決して悔いるような、断じられるようなものではなかったと。

 言葉を連ねようと口を開くも、一度閉ざす。低頭した者のひとりが少し頭を上げた。

「あなた様は皇家の御子君。やがてはこの国を統べられる御方です」

「皇家……? 私が?」

 仰々しい彼らの振る舞いと、ニシェの「元は身分の高い人間だったのではないか」という推論は真実だった。

 そして、同時に合点がいく。

 彼らがトモリのことを「御子君」と呼ぶのは、それ以外に呼ぶ名を持ち合わせないからだ。名は体を表し、神々によって与えられるもの。皇家の人間は、己と名付けに立ち会う神官以外にその名を明かすことは禁じられている。

「御子君、あなた様の「呪い」を、解く方法はまだ残されております」

「……呪い?」

「あなた様は呪いをかけられたのです。あの子どもによって」

 一度、目を閉じた。ひとつ呼吸を置く。

 自分は知らないことが多すぎる。

 ようやく目の前に現れた、自分の関わる「物語かこ」の一片。これがたとえ虚飾にまみれていようとも、彼らにはそうするだけの理由がある。

 ニシェが自分と別れたことにも、同じように理由はあるのだろう。

 なれば、トモリが今出来ることなどひとつだけだ。

「話してくれ。私が呪いをかけられたというならば、事の起こりから今までを」

 皇家の人間は神の如くに扱われる。御簾なしに拝謁してはならない。その尊顔を拝してはならない。このような場にあってなお、彼らは敬虔にもそのしきたりを守っていた。

 一度も目の合わぬ彼らのひとりが符を取り出す。皇国では多く使われている「文字」を媒介にした魔術。話すには向かぬ場だと判断したのだろう。魔力が通り、符の文字が光に彩られる。

 ふと、歌うニシェの魔術を思い出した。彼の魔術は、ただ口ずさむようなそれであっても、目も耳も離せはしなかったのに、こちらはずいぶんと味気ない。

 そんなことを思っている間に、放たれた符は宙で燃えたつ。その灰が地に引かれ落ちるころには、トモリは彼らと共にどこかの一室へと転移を果たしていた。

 トモリの眼前には下ろされた御簾がある。簡素な間仕切りのようなものではあったが、置かれた調度品ひとつとっても、これまでトモリがニシェと共に泊まり歩いた宿に比べればかなり質の高い部屋であるのは見てとれた。

 御簾のこちら側には寝台がひとつ。その上には着替えが畳んでおいてある。トモリにとって「最初」の記憶にあったものと似ていた。いい生地で仕立てられているのは分かったが、手には取らない。

 相変わらずの調子で拝礼と謝辞を述べる彼らの言葉を制した。

 聞きたいことはそんな飾りたてた言葉ではない。そう言いきってしまえば、御簾の向こうの彼らは一度窮したように黙り込んだ。

 そして、少しずつ話し始めた。トモリの知らない、御子君トモリのことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る