第2話

 トモリに残された知識の中に、魔術に関してのものはそれほど多くない。ただ覚えているのは、魔術には「系統」があったということくらいだ。

 音を媒介とするもの、色を媒介とするもの、そして文字を媒介とするもの。魔術とは学問の側面を持つ。これ以外は発見されていないとされる。

 ただ、ニシェの扱う魔術は、どの系統とも異なるように思えた。強いて言うなら「音」なのだろうが、それにしても馴染みがない。

「よし、ここまでくれば大丈夫かな」

 その声は思考の霧に沈み込んでいたトモリの意識を現実に呼び戻す。ニシェの足取りに迷いはなく、町の中心部からはずいぶんと離れたところまでやってきていた。それでも、朝焼けがようやく終わるくらいの時間帯だ。普通の歩みで来られる距離ではない。

「トモリが魔術酔いする人じゃなくて助かったよ。ちょっと距離を稼ぐやつも混ぜておいたからさ」

 のんびりした徒歩の旅もいいんだけどね。そんな風にニシェは気軽にのたまった。

「先を急ぐ理由があるのか?」

 その問いに、ニシェは不思議そうにトモリを見た。そんな問いがかけられることは、まるで想定していなかったらしい。くすくす、と忍び笑いが漏れる。

「ある、って言ったら、トモリはぼくの味方をしてくれる?」

 子どもの甘えるような声音に、どこか寂しさが滲んでいた。望むように問いかけながらも、それが叶わないことが分かりきっているような。諦めきっているような。無邪気な中に諦観をにじませたニシェの言葉に、トモリは一度口をつぐんだ。

「やだなぁ。冗談だよ」

 お人好しのトモリには刺激が強すぎたのかしら、などとニシェはのたまう。ただトモリはその言葉をそのまま受け取ることはしない。

「確かに、一緒に行くことにしてまだ二日。挙げ句私は影憑きだ。それでも私は、きみの味方だと思っているんだが。ニシェは違うのか?」

「……トモリのくせに生意気だ」

「くせにとは何だ」

 ケラケラと笑うニシェに、ひとつ嘆息するよりほかにない。これ以上なにも話はしないだろうと、この短い旅路の中でも気がついていたからだ。

 次にたどり着いた町で、ニシェが別行動を申し出た。トモリには宿をとっておいてほしいという。この町の宿は一区画にまとまっていて、数もそれほど多くない。迷うこともないという。

「ひとりで大丈夫? 文字の書き方、わかる?」

「それはまだ忘れてない」

 からかうような笑い声を残して、ニシェは雑踏に消えていく。トモリはフードを少し被り直して、宿を取るべく手近な建物へと入っていった。

 夜も更けた頃、予約もない二人連れであったが、それほど労せずして宿を取ることは出来た。そしてちょうどその頃、ニシェの用事も終わったらしい。

 部屋に入ってすぐ、ニシェがひとつ口笛を吹く。ふわりと風が頬を撫で通りすぎていった。不思議そうな顔をしていたのだろう。ニシェがクスクスと笑う。

「音がそとへ聞こえないように、っておまじないだよ。そんなに強い魔術ものじゃない」

 音の魔術でいえば初歩中の初歩だよ、と彼は軽々告げる。

 そんなことより、と彼はトモリへ別行動で仕入れてきたもの一式を手渡してきた。

 中に入っていたのは服が一式。折りたたまれたそれは古着の類に見える。

「小綺麗なのもいいんだけど、ちょっと綺麗すぎるんだよね」

 トモリは自分の服を見る。彼が一体なにを気にしているのか、あまり理解が及ばない。

「トモリの服。ぼくの格好と釣り合わないし、格好を変えておいたほうがいいこともあるしね」

 装飾の少ない生成り仕立ての服。少し手触りも荒いものだが、着心地はそれほど悪くもなかった。

 元々着ていた服は適当に売り払って路銀の足しにするという。

「トモリ、元々は位の高い人間だったのかもしれないね。皇家とか」

「皇家はみな陽神様の加護がある。影には憑かれないはずだ」

 皇国は代々世襲で政を行っている。その一族を「皇家」と彼らは呼んでいた。

 皇家はこの国を統べるために、陽神からは病に至らぬよう加護を、月神からは餓え凍えぬような恵みの土地を賜った。彼らの行いが正しきものなれば、皇国は豊かに栄え続けるとされる。

 覚えていることは随分と曖昧なものだ、と苦笑する。自分のことはなにひとつ覚えていないのに、とため息をついた。

「そんなに、自分の記憶は大事かい?」

 その声は、彼にしては不釣り合いにこわばって聞こえた。軽やかなソプラノは鳴りを潜めている。

 もはや戻らぬと定められている己が記憶を求める行為は、彼からすれば滑稽に見えるのかもしれない。愚かしい行為なのかもしれない。

「それでも、諦めたくはないんだ。今、こうして生きているなら」

 「影憑き」でなかったとしても、全てを覚えておくことは出来ないのが人間だ。

 それでも、自身が見て、触れて、感じたことを、出来得る限り心に刻みたいと思う。

 それは、トモリにとって当たり前の話だった。

 ニシェはその答えに、ふいと視線をそらして応えるにとどめた。


*****


 心臓を握りつぶされるかというほどの痛みに、息がつまる。

 脂汗が滴り落ちるベッドへ伏せ、少しでもその苦痛を和らげることを祈り、シーツを掴む手は力を込めすぎて指先が白く色が抜けていた。

 いつもの発作。心の臓が病に冒されている、と分かったのは十五の誕生日。彼を診たどの医師も、遠回しに、または黙り込むことで、少年の生が長くないことを告げた。

 薬が聞き始めたのか、しばらくして痛みも引いた。脱力してベッドに沈む。汗で張り付いた寝巻きが気持ち悪いが、すぐに身体を起こすことも難しかった。部屋でひとり、少年の荒い息だけが響いていた。

 あと幾度、この発作を越えられるのかは分からなかった。人の知識と力だけでは、少年の病を直す手だてはないとされている不治の病だった。

 呼吸も落ち着いてきて、彼はゆっくりとベッドへ仰向けになった。

 見慣れた自室の天井。せめてその病の進行を遅らせるためと称して、加持祈祷の術式が書き連ねられている。遙か昔、皇家に加護をもたらしたとされる陽神を祀るもの。

 皇家は代々血族でこの国の政をなしてきた。それは遙か昔、この国の興りに神が力を貸したからだといわれる。そのひとつが、病に至らぬ加護だと少年はいい聞かせられていた。

 なれば、この自分の病はいったいどういうことか。結局、神話はお伽噺にすぎないのだと、彼は文字通り身をもって知った。

 少年の病を知るのはごくわずかの者のみ。十五で成人を迎えるこの国では、既に次代の皇としての工務につき、周囲へ気取らせはしなかった。

 窓の外には月が浮かんでいる。この部屋から月が見えるなら、おそらく起きているものは誰もいないだろう。ひとたび発作が収まったなら、今すぐに医師を呼んでもなにも出来ないことは分かっている。なにかと騒がしくなるよりは、静かな夜に浸っていたかった。

 流れる雲が月を隠し、青白く照らす光の代わりに影が部屋を満たした。ひとつ小さく息をつく。眠れるかは分からないが、身体は確かに疲れていた。ゆっくり目を閉じたそこで、ふと。視線を感じて窓とは逆の、部屋の入口の方を振り返った。

 そこにあったのは、暗闇の中でも不思議と目を惹く、二対の瞳。目が合った瞬間、驚いたように廊下へ引っ込んでしまったが、また恐る恐ると部屋の中を覗き込んできた。ゆっくりと、身体を起こす。おっかなびっくり覗き込むふたりへ、願うように「逃げないで、くれないか」と声をかけた。

 覗き込むふたりは自分と同じくらいの年齢に見えた。暗くて顔まではよく見えないが、その立ち姿にも気配にも見覚えはない。そもそも、この屋敷に同年代の人物はいないはずだ。来客にしても、私室の連なるこちら側まではやってこない。

 本当ならば、声をかけてはならなかった。自分の立場を忘れたわけでもない。けれど、御簾越しでない人との会話などいつぶりか。年甲斐もなく、誰かと話がしたかった。

「君たちに害をなしたりはしないよ。人も呼ばない」

 そう小さく笑いかければ、ふたりは互いに顔を見合わせた。そして、そのまま暗がりの入り口から部屋の中へと入ってくる。

 雲の切れ間、窓から月明かりが部屋を照らす。その光を受けて、彼らの髪は白銀に煌めいていた。それはまるで、月がそこにあるような。

「――――はじめまして」

「はじめ……まして?」

 少女の方がそう繰り返して首をかしげた。見たところ、この国の人間ではないのだろう。自分達の習慣が彼らにはないのかもしれない。

 初めて会ったときの挨拶だと微笑みかけた。どこかおどおどと動揺した素振りを見せる少女と、そっと目を伏せる少年。けれど、こちらへ控えめながらもはにかんだのは少女の方だ。

「はじめまして!」

 明るいその表情に、不思議と肩の力が抜けた。隣の少年は少しはにかむ程度だったが、表情が柔らかくなったことに少し安心した。

 聞きたいことはたくさんあった。けれど、ゆっくりと話を進めたかった。夜は更けていくけれど、この時間は愛おしく思えた。

「名前を、教えてもらえないか? 君たちと話がしたいんだ」

 もてなすことはできないが、君たちにまだ時間が許されるなら。その言葉に、少年はクスクスと笑い少女は軽やかに頷いた。良かった、と胸を撫で下ろす。

 彼が望んで叶わぬことは、この国では限りなく少ない。本来ならこのように願うこと、相手に意見を求めることは不要な環境で生きていた。けれど彼はそんな中でも他者への礼節を尊び、穏やかに話を進めていくのだった。

 まだ名前を聞いていなかった、と小さく謝る。名というのはその者の存在すべてを表す。そして、名を聞く限り、こちらから名乗るのも礼儀だろう、と口を開く。

「私の名前は――――」


「――――――リ。トモリ?」

 呼び声に目を開けば、自分を見下ろすニシェの顔。ぱちぱち、と瞬きをすれば、ホッとしたような呆れたようなため息をついた。

「随分とお寝坊さんだね。よく眠れたようならいいけどさ」

 ニシェは手に抱えていた紙袋をテーブルに置いた。トモリが窓を見れば、すっかり空は明るくなっていた。昨晩は特に遅かったわけでもないのに、と思いながら身体を起こす。

「ぼくが買い物に行くって声をかけても全然起きなかったし、ちょっと心配した」

 ニシェは紙袋から丸い果実を取り出すとトモリへと投げる。ずっしりと重いそれをしげしげと眺める。甘酸っぱい香りに覚えはあるが、果たしてこれはこんな見た目だっただろうか。

 ニシェの方を見れば、彼も同じものを手にしていた。彼はその果実をふたつに割って、中の実を一房無造作に口に運んでいた。ただ、トモリがじっと眺めているのに気づいたらしい。

「……どうかした? まさか、食べ方忘れたとか? それとも嫌い?」

「いや、好きだった、はずだ」

 彼に倣って果実をふたつに割る。酸味を帯びた香りが強くなる。半円形にならんだその一房を口に運べば、果肉がぱちぱちと弾けた。甘酸っぱく香り高いそれに自然と肩の力が抜けた。そしてぼんやりしていた思考も次第にクリアになっていく。

「……夢を、見ていたんだ」

「夢?」

 夢は次第に薄れぼやけて消えていくもの。思い起こせるのも、きっと今のうちだろう。

 月の照らす薄暗い部屋。訪れたふたりの子ども。

 彼らを迎えたあの光景は、自分のかつての記憶なのか。それは誰にもわからないことだ。

 トモリの話を聞いたニシェは「ふぅん……?」と考え込むように腕を組み目を伏せた。

「あれは、私の記憶なんだろうか」

「影憑きは持ってる記憶も揺らいでいくそうだし、覚えていても自覚ができないのかもね」

 厄介な話だね、と肩をすくめる。それ以上、ニシェが何かを言うことはない。

 けれどほんの少しの沈黙の末、口を開いたのはニシェだった。

「思い出せないのは仕方ないじゃない。夢だって思い出になるかもしれない。今は、大事に持ってたら?」

 ニシェの浮かべるその笑みは柔らかかった。問題に目隠しをするようで、ただの時間稼ぎのようで。それははたして正しいのか。トモリは視線をさまよわせる。

 ただ、ニシェもトモリの様子に気がついた。トモリは真面目だなぁ、と。ニシェは軽く感想を述べた。それ以上でも、それ以下でもない。ただただ真っ直ぐに、ニシェはトモリを見ていた。

「本当とか望まれることとか。そんなものを大事にする」

 誰にも答えられないその言葉は、部屋にふわりと消えていった。


 そして、この夜を境にトモリはよく夢を見るようになった。それは度々視点も場面も違っていたが、ただひとつ、共通することがあった。

 トモリが見る夢のほとんどは、白銀の髪をもつ少年、ニシェと共にいる夢だった。


*****


 彼の長い髪を梳かすのが好きだった。今日も自分は彼の髪を手にし、櫛をあてがう。

「好きだねぇ、×××××」

 飽きない? と背後のこちらを見上げるように、彼は顔を向ける。こら、と彼の頭を前へと向き直らせた。あの体勢では髪が梳かせない。

「飽きないよ。ニシェの髪は綺麗だし。ずっと触っていたいくらい」

 月色の艶やかなそれに櫛を通して結うだけで、香油もなにもつけていないのになんだかいい香りがする。自分の知らない、けれどどこか心の安らぐその香り。

「きみだって伸ばせばいいじゃない。髪」

「私はダメ。ニシェのがいい」

 短く切られた毛先を手に取りじっと見る。癖が強く、あちこちに跳ね回ってしまう毛先はちっとも美しくない。

「ぼくはきみの髪型、好きだけどね。かわいいじゃない」

 髪を結い終われば、ニシェはこちらへ向き直ってこちらの頭をくしゃりと撫でた。

「きっと珊瑚の飾りが良く似合うよ」

「さんご?」

 彼は「そうだよ」とその水辺に手をやった。彼が小さくメロディを口ずさみはじめる。水面を指が滑り、その軌跡が煌めいていく。

 ニシェの魔術は美しい。歌うときは少し低くなるその声も、媒介に触れる所作も。

 軌跡がひとつの像を描き、歌が終わるその頃には、ニシェの手元に小さな髪飾りが出来ていた。幾重にも枝分かれした小ぶりな桃色のそれ。どこか華奢なそれは、手に取ることを憚られるほど。

「それが、さんご?」

「そ。×××××は見たことなかったね」

 ニシェが見せる笑みはどこか遠くを思い出すようで、けれどそれはどこかとても寂しそうだった。彼の思い起こすその景色に、きっと自分はいないのだろう。

「ニシェは、どこで知ったの? 珊瑚のこと」

 彼はなにも知らない自分にとっての兄であり親であり先生だった。尋ねることは、悪いことではない。

 問いかけの後ろへ、彼の見ている景色を、少しでも共有したいと願う心を潜ませた。

 ニシェは答える前に少しだけ時間を使った。いつもは、尋ねればすぐに答えてくれたのだが珍しい。自分がなぜ問いかけたのか、その理由がばれてしまったのかと少し不安にも思った。

「ずっと、ずーっと前にね。ぼくは海で生まれたんだよ」

「……海? ここではなくて?」

「ここは海なんかじゃあないよ。海に似せて、作ってはあるけれどね」

 ×××××はここで生まれた。ここ以外の場所を知らない。けれど、思えばニシェは自分よりもたくさんの世界を知っているハズなのだ。

「きみの故郷がここであるように、ぼくの故郷は遠い遠い彼方の海なんだ」

 ゆっくりと、けれど様々なことをニシェは語り聞かせてくれた。どこまで行っても果てのないほど広く遠い海の話を。その語り口は、今まで聞いた何よりも温かかった。

「……ねぇニシェ。私は、きみの海が見てみたい」

 半分本当で、半分偽りの願い。彼の故郷を知りたいと思ったのは本当。けれどそれよりも、彼に故郷を見せてあげたいと思った。

 彼の言葉は、今でも故郷を恋しがっているように聞こえたから。それでも、ひとりで帰るつもりは無いようだったから。自分が一緒に行きたいとせがめば、その躊躇を飛び越えられるのではないか。

 傲慢で淡い願いに、ニシェはすぐに返事をしなかった。彼の視線はそのまま伏せられている。

 けれどそれもひとときの間。視線を上げたニシェの表情は明るくいつもの様子に戻っている。

「ぼくもずいぶんと帰ってないからなぁ。知り合いはいなくなってるかも」

「それでもいいよ。私はニシェの故郷が知りたい」

 ニシェのことを知る者がいようといまいと、自分の好奇心は変わらない。

「でも、ニシェは嫌? 海に行くのは。ニシェが嫌なら、もう言わない」

 ×××××にとっての「故郷」は、この狭い狭い海だけれど、そこにニシェがいるのは当たり前の話だった。彼がいない故郷は寂しいだろう。それは、想像するだけで震えるほどに。

 ニシェは「妙な気を遣うんじゃあないよ」と、×××××の頭を撫でた。

「……それじゃあ、約束をしようか」

「約束?」

 ニシェはこちらの手を取って、そこへ額づくように額を当てる。自分達の「約束」は、どこか神聖な儀式に思える所作で行われる。

「約束だ。いつか、一緒に海を見に行こう」

 そっと、手を握り返す。

「うん。約束。絶対だよ」

 表情は見えない。けれど、小さな肩はどこか不安げに見えた。

 だから、彼が顔を上げてくれたとき、少しでもその思いが軽くなるように。

 祈りと慈愛をこめて、×××××はニシェへと笑いかけた。


 目を覚ましてしばらくは、自分が今どこにいるのかが解らなかった。先ほどまで見ていた部屋とは全く違う内装。すぐには頭の処理が追い付かないが、それもじきにすりあわせが出来てくる。

 けれど、もう一度寝直すことはできそうもなく、トモリはゆっくりと身体を起こした。隣のベッドには布団にくるまるニシェの姿がある。閉められた障子を開けば、月明かりが部屋の内へと入り込み影を作る。

 自分の名前、自分が「影憑き」となったこと、旅の同行者の名前、どこへ向かっているのか。そんなことを反芻する。せめてもの悪あがきといわれても仕方がない行為。それでも、何もしないよりはマシに思えた。

 目が覚めた後の日課を終えて、思い起こすのは先の夢。自分は夢を良くみる[[rb:性質 > たち]]だったのか、と反芻してみても、答えはやはり出るはずもない。

 ただ、前にみた夢よりも今回は幾分か鮮明に覚えていた。

 こちらに背を向け、丸まって眠るニシェの方を見る。黒々と染められたその髪は今でも髪質を落とさず艶めいている。

 あの夢にはニシェがいた。彼の所作は今トモリが知るニシェと変わらないように思えた。

 遠い遠い海で生まれたと告げる彼の声音を「覚えて」いる。けれど、そこに自分がいたかどうかが曖昧だった。はたして、彼の髪を梳かしていたのは本当に自分だったのか。違うところで聞いた話を、今の夢と混同しているだけなのか。

 ただ、どちらにしろ自分は彼のことを知っていたのではないか。あの月籠の夜、自分が記憶を失う前に出会っているのではないか。

 取り留めなくこぼれ落ちる思考に区切りをつけるように、トモリは緩やかに頭を振った。ここでひとり考えたところで、答えが出るものでもない。ため息をひとつこぼしながら、窓の外を見上げた。月は幾分か傾き、その姿を隠しはじめていた。それでも、日が昇るまではまだ時間がある。

 ゆっくりと目を閉じる。眠れる気はしなかったが、もし眠れるならば、あの夢の続きがみたかった。

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