かなしき君に約束を ーかなしき君にさよならをー

唯月湊

第1話

 月の神様がお隠れになる月籠の晦日の夜は、決して外へ出てはならない。月籠の宵闇は暗く深い。神不在のみ空の元、「影憑き」は私達を食い殺すその時を今か今かと待っている。

 幼い頃から幾度となく聞かされた御伽話。

 けれど、今自分の目の前に広がる月籠の空は、光を散りばめた上等な織物を垂らしたように美しかった。光瞬く天蓋に、彼はしばしの間魅入られていた。

 彼の吐いた吐息は空へ向かって白く上るもすぐにかき消えていく。それはどこか、空に焦がれ惹かれているようにも思えた。

「おにーさん、目ぇ覚めた?」

 死角から声がする。その声でようやく、自分がこの寒空の下で横たわっているのだと自覚した。四肢の感覚もある。身体を起こして、声の方を振り返った。

 背の低い石塀に囲まれた袋小路。視線の先には、塀の上へ粗雑に座り込む子どもの姿だった。

 この国の人間にしては珍しい、月の光を閉じ込めたような銀色の髪。麻ひもで結われたそれは、山から身軽に飛び降りた拍子に遅れて跳ねた。

「ダメじゃないか、月籠の夜に出歩いちゃ。今夜は一晩お祈りする日でしょ?」

 ごくごく当たり前の話と、目の前の状況がいまいち結びつかない。呆けているうちに軽い足取りで目の前まで歩み寄ってきたその子どもは、自分の肩ほどまでしかない身の丈で自分を見上げた。

「それで、何してたの? こんな夜更けにひとりでさ」

 少し透明な声に促され、自身の状況を思い出す。

 否、思い出そうとした。けれど幾度頭の中を探っても、どうして自分がここにいるのか思い出せない。この場所が一体「どこ」なのかも、そして自分が「誰」なのかも、全く思い出せない。

 口を開こうにも、どう告げればいいのか分からない。状況に混乱しているだけでなく、これが異常なこと、そしてなにより「禁忌」と呼ばれることであるのは、それだけは理解していたからだ。

 ただ、黙り込んだその様子で、自分を見上げるその目が少し陰る。

「『食われた』ね。おにーさん」

 残念そうな、けれどどこか想定ができていたような声音。

 月籠の夜に、外へ出てはいけない理由。それは今の自分のように、記憶を「食われる」ことがあるからだ。人の記憶、果ては自我におけるまでを喰らい尽くす「影」と呼ばれる魔物が、この国の夜に棲んでいる。

「ぼくが見たときは、もうおにーさんそこに倒れてたから。嫌な予感はしたんだよ」

 それでも、記憶だけで済んだなら良かったのかもね、とその子どもは気遣うように付け加えた。その態度に、こちらが困惑する。

「……きみは、「影憑き」が怖くないのか?」

 「影」に記憶や自我を食われた人間を「影憑き」と呼ぶ。そして、それはいずれ同じ「影」に成り果てる。己が失ってしまったものを取り戻そうと、他人の記憶や自我を喰らうのだ。だからこそ、この国では影憑きは見つけ次第捕縛、もしくは討伐することになっている。

 影憑きといえどもその身体は人間と同じ。心の臓を突けば、首を落とせばころりと死ぬ。されどもそれより前に自分の記憶や自我を食われてしまうことの方が多い。だからこそ、皇国の人間は影憑きを恐れる。

 怖くないのか、という至極真っ当な問いに、言われて初めて気がついた、というふうにその子どもはキョトンとした表情を見せた。けれど、それもすぐに破顔する。

「怖くないよ。強いからね。ぼく」

 至極あっさりと告げる。少なくともおにーさんに負ける気はしないな、とも。

 確かに、自分には魔法も魔術も扱えないし、戦闘訓練も受けたことがない。直近の記憶を喰われていても、なぜかそれは断言できた。

「困ったね。善良な皇国の民なら、ここでぼくはおにーさんを衛士に引き渡さないといけない」

 影憑きは、その息の根を止める以外にももうひとつ、祓うことも可能であるとされる。けれど影祓いを行えるのは皇国の御子、または巫女に類する力を持つもののみ。おいそれと会うことの出来る相手ではない。

 軽い声音とは裏腹に、自分を見つめる眼光は研ぎ澄まされたナイフのように鋭い。その不均衡さに背筋へ冷たいものが走る。

 だが、その剣呑さも瞬きの合間にきれいに拭い去られ、代わりにどこかいたずらめいた笑みを見せる。

「大丈夫だよ。そんなことしないから。一応ぼく、おにーさんを助けるために出てきたわけだしさ。自分で助けて恩赦目当てに衛士につきだす、なんてやらないよ」

 皇国にとって善良ではないけど、ぼくは人がいいからね。そんなことをうそぶいた。くるくるとよく表情が変わるテンポの速さに、少し目が回る。

「ただ、おにーさんどうするの? これから」

「……どうする、なんて」

 選択肢など残っていない。自身の記憶が喰われた以上、戻る場所も分からなければ戻ったところで皇国へ仇なすものとして処刑される。ここで自分のことを見逃してもらったとしても、遅かれ早かれ同じ末路をたどるのだ。

 けれど――――。

「……死にたくない」

 無意識にこぼれ落ちたその言葉を、にっこりとした笑みが迎える。

「そうこなくっちゃ」

 せっかく助けた命だもの、と応えるその声はどこか柔らかい。そうと決まれば話は早いねと、その子どもは青年へ手をさしのべた。

「一緒に来る? どこにも帰れないなら、どこへ行ったっていいじゃない。ぼくはおにーさんが「影憑き」でも気にしないしね」

 ひとつ、指し示された選択肢。ひとつ目を閉じて、開いた。

「名前は?」

「?」

「きみのことは、なんて呼べばいい? 私は、名前も食われてしまったから。名乗ることはできないが」

「……ニシェだよ。ぼくの名前。食われないように、しっかり覚えておいてね」

「……保証はできないけれど。努力するよ」

 ニシェの差し出す手を握った。自分よりも小さな白い手は、この寒空の中でも温かかった。


 ニシェは近くの空き家を勝手に宿にしていた。子どもの身なりでは宿にも相手にされなかったと告げる表情は不満げだ。もっとも、この街はこうした空き家が少なくない。そのため、宿にする場所は困らなかったそうだ。

「この空き家の主は……」

「んー、知らない」

 その空き家は放置されてそれほど時間も経っていないのか、あまり荒れてもいなかった。簡単な掃除はぼくがやったんだよ、とニシェが付け加える。元は一人暮らしの人間が使っていたのか、家具はだいたい一人分しかなかった。

 少し、すり合わせをしないとね。背の低いテーブルを間に、向かい合わせに座したニシェはそう切り出した。

「まずは、名前からにしよう。いつまでもおにーさんじゃ不便だし。好きなものとか、大事なものとか、そのへんから名前をもらいなよ」

「そんな、勝手に名前をもらうなんて……!」

 名前は「神」からいただくことが習わしとなっている。この世に生を受けて初めて、神が施すもの。名前は人の好きにしていいものではない。それがこの国の不文律だった。

 ただ、この反応にニシェは「あのさぁ」とどこか呆れ顔だ。

「従順なことはいいことだね。でもさ、おにーさんは「影憑き」。神を侵す影の使い。影憑きも影も認めない、そんな神様を信じててもさ。その神様はおにーさんに何をしてくれる?」

 ニシェの言葉に、頭が鋭く傷んだ。

 どこかで、同じ言葉を聞いた気がした。

 痛む頭を押さえながら、ニシェの呼び掛けにも応えず空っぽになってしまった記憶を探る。

 けれど、しばらく思いめぐらせてみても、それが一体いつ誰に言われたことなのか。思い出すことはできなかった。

 影憑きの記憶は戻ることがない。その知識だけが頭をちらついた。

 影憑きの青年の返事を、ニシェはただじっと待っていた。むやみに押しても無駄だと知っているようだった。

 ひとつ、思いを振りきるような吐息が青年から漏れた。

「きみがいいなら、呼びやすい名前をつけてくれないか。本当なら、私が禁を破るべきなんだろうが」

 名前など考えたことがなかった青年にとっては、何かの名前を作るというのはやはり本能的に忌避してしまう。いつまで経っても決まらないことが容易に想像できた。

「真面目だなぁ。いいよ。僕は不真面目な国民だからね」

 そう軽やかにニシェは快諾し、何がいいかな、とあれこれ名前候補らしいものをつぶやいていく。その単語の羅列に聞き覚えはなかった。

 影憑きは失ったものを埋めようと、人を襲うと云われている。

 影になってしまう前に、自身が失われた記憶の代わりになる他の記憶を喰らえば、元の人間に戻ることができる。影憑きとなった者たちは、それを信じていると聞いた。

 自分も、いつかはそのようになるのか。その可能性に、目の前が暗くなる。

「トモリ、にしようか」

 真っ暗な奈落に引きずり込まれていた思考を掬い上げるように、ニシェの言葉が飛び込んでくる。仮想の暗闇から現実に引き戻され、視線はゆるりと自然にニシェの方を向いた。

 皇国の人風に書くならこうさ、とニシェは埃の残る背の低い棚に指を走らせ、書いた文字は「灯理」

「皇国の文字が書けるのか」

 皇国の人間は民族的に、色の濃淡はあれども黒や茶の髪をしている。ニシェのもつ銀髪は外からの移民を表す。この国の文化に慣れていないものだと思っていた。

「親切な人が教えてくれたんだよ。読めなきゃ困るだろうから、ってさ」

 嘘だ、と思う。皇国の識字率はそう高くない。大抵の人間は文字を知らずに一生を終える。実際に文字を知る者がニシェへ教えたのだとしても、こんな無造作に書くような真似をさせるはずはない。

 文字は力を持つ。それは時として人を惑わし狂わせるものである。だからこそむやみに書き散らすものではないとされ、皇国は文字を扱う人間を制限、管理していた。

 一体、この子どもはどういう人間なのか。その思いが少し強くなる。

 ただ、ニシェは「気に入らない?」と首を傾げ、こちらの拘泥には気づいていないようだ。ニシェの言葉を否定する。

「いいや。トモリ、か。これにしよう。ありがとう」

 どういたしまして、とニシェは笑う。どこかその様子にホッとする。これから先のことなど何も分からない状況は変わらないが、それでも少しずつ、前に進んでいるような気がした。

 ニシェは部屋の奥から薄手の布団を引っ張り出してくると、一枚を青年――トモリへ差し出した。彼と出会ってから、それなりに時間も経っていた。明日は早めにここを出たほうがいい、とニシェは言う。

「衛士はきっとこの辺りを改めはじめるからね。僕は通報しなかったけど、おにーさん、トモリを引っ張り出すのにちょおっと乱暴はしたから」

 外での騒動に気づいた人間がいないとも限らない。早めに休んでしまったほうがいいね、とニシェは布団にくるまる。

 そうだ、と布団の中からニシェが問いかける。

「結局、どうしてトモリが外に出てたのか。それ、覚えてたりしないの?」

 出会った時にも尋ねられたそれ。あのときは状況を飲み込むことで精一杯で、自分が今でも覚えていること、忘れてしまったことの切り分けすらうまく行っていなかっただろうとニシェは思っているらしかった。

「一応さ、きみの荷物も改めたけど、ちゃんと旅に出る支度はされていたから。どこか、行きたいところがあったんじゃない?」

 その言葉を受けて、目を閉じる。こうして記憶を探るのは、はたして何度めか。

 そして、これからどれ程あることだろう。そんなことを頭の片隅に置きながら、何故外に出ていたのかを思い出そうとした。


――約束だ。いつか、一緒に海を見に行こう――


 誰かの声がした。自分が言ったものなのか、誰かに言われたものなのか、定かではなかった。

 けれど、確かにその言葉を耳にして、約束をしたことは「覚えて」いた。

「……海に、行こうとしていたんだと思う」

 ニシェは目を瞬かせて、ゆっくりとその言葉を咀嚼した。珍しいこともあるものだね、と告げる声音は穏やかだった。

「ぼくも、海を目指して旅をしてるんだよ」

 海は「月神様の寝所」と呼ばれる。月神は陽神の夜の姿。人々の眠りを司るそのために御身を白銀に変えて空へ浮かぶ。

 眠りと死は隣り合わせの現象。海へ挑むものは死へと歩むものと言われ、皇国では不用意に近づいてはならない場所とされていた。

 そんな海を、自分はどうして目指していたのか。自分が影憑きになったと分かっても、このまま死にたくないと願ったのは本心だった。おぼろに霞む記憶の中でした約束も、誰と、どうしてしたものなのかは分からない。そして、ニシェは何故海を目指しているのか。

 それを、ニシェに尋ねることはできなかった。


*****


 トモリが目を覚ましたとき、既にニシェは身支度を終えていた。おはよう、と笑う彼の姿に違和感を覚える。

「ニシェ。その髪、どうしたんだ?」

 彼の髪は漆黒に染め上げられていた。月を思わせる白銀は面影もない。ニシェはトモリを意外そうに見た。

「トモリとは年の離れた兄弟ってことにしようと思って。どのみち、あの髪色じゃあ目立つし。染めてみただけだよ」

 トモリだって目立つのは嫌でしょ? と同意を求められる。

 ただ、彼はこれまでも旅を続けて来ていたはずだ。トモリと同行するために急遽対応したのだろう。

「多分、次の月籠の夜くらいにはまたもとに戻っちゃうけどね」

「……なんだかいろいろと迷惑をかけて、すまないな」

「ま、謝らなくてもいいけどさ。その代わりに今日はトモリが荷物持ってよ。それで許してあげる」

 次の町ではちょっといろいろ買い物しようかな、などと笑っているニシェに、トモリもそれ以上この話を続けることはできなかった。ニシェの気遣いをありがたくいただいておくことにする。


 まだ朝霧に飲まれた未明、トモリはニシェとともに一晩の宿を後にする。

「……やっぱりいるね」

 濃い霧を裂くように、明かりがふわりふわりと浮き歩んでいる。衛士の持つ松明の炎が、薄ぼんやりと辺りを照らしているのだった。日が昇りきるよりも前に衛士が巡回に出ることはない。あるとすれば、何か明確に探す目的があるときだけだ。

 仕方ないね、とニシェはトモリの方へ向き直った。

「きみ、魔術なんて使えないだろうから、ぼくが代わりにかけてあげる。ちょっと怖いかも知れないけど、大丈夫だからね」

 そっとニシェの両手が自分の顔へと伸びる。いきなりのことで、トモリはその手を掴んで止めた。

「すまない。私の身を案じてのこととは思うが、さすがに説明をくれないか」

「トモリ、そういうとこ細かいよね」

 悪いようにはしないのに、とニシェは口を尖らせた。出会って二日も経っていないのに、随分ないい草だとトモリは少し眉をひそめたが、口にはしない。

「彼らは物や人を探す時、人の意識を少しばかりいじる魔術を使うんだよ」

 声を聞いたものが抗えなくなるように、かしずくように仕向ける魔術。それはほんの小さな「暗示」にすぎないようなものであっても、この国の人間にはよくかかる。そんなふうに「なっている」んだとニシェは続けた。

「だから、その魔術にかからないように、ぼくの魔術で防ごうってこと。ぼくと手をつないでいる間だけ、周りの音が聞こえなくなる。ついでにぼくたちを目に止めにくくなる」

 ひとまずこの町は抜けてしまわないとね、と彼はトモリの両頬に手を添え、額を合わせる。

 彼の唱える魔術式は柔らかな歌のようだった。


 自分たちの声は普通に響くからね、とニシェはささやくようにして念を押した上で、トモリの手を取った。彼に手を引かれるまま町外れまで歩いていく。

 時折、それこそ衛士のすぐ隣を通り抜けることもあったが、こちらと彼らの目は合わず、すれ違ったことすら気がついていないようだった。ニシェの魔術は上手く効いているということだろう。

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