儚い雪
知らない人
儚い雪
暖房の切れた肌寒い教室で、里香はゴミ捨てに向かった麻衣の帰りを一人で待っていた。頬杖を突きながらなんだか物憂げな様子で、机の上の進路希望調査票をみつめている。
トイレから帰ってきた私は、ちらりと手元を覗き込んで驚愕する。調査票の第一志望には麻衣や私とは違う高校の名前が書かれていたのだ。私の気配に気付いたのか、里香は慌てた様子で調査票を折りたたんだ。
「えっ。なんで……」
私の口からこぼれ落ちた言葉が、里香の鼓膜を震わせる。そのあとすぐさま帰ってきた言葉に、私は衝撃を受けた。
「麻衣と離れたいから」
振り返った里香はいつになく毅然とした眼差しで、私を見上げていた。いつもの小動物みたいな弱々しさはなくて、むしろ猛禽類のような強かさを孕んでいるように思えて、私は小さく後ずさりをした。
どうしてなのだろう。二人は仲がいい。仲が良すぎるくらいだ。距離感は近いし、お互いに遠慮し合っていないようにみえる。だというのにどうして離れたいだなんていうのだろう。
全て、洗いざらい知りたかった。質問しようと口を開けたとき、明るく響く声が飛び込んできた。
「ただいま。さ、早く帰ろう。二人とも」
私はこのことを麻衣にも伝えようかと思った。だけど里香の視線は私に無言を強いるように冷たく鋭くて、結局私は何も言えなかった。
夕暮れの帰り道を、小さな雪が舞っていた。指先に触れるだけで簡単に消えてしまう儚い雪だった。
*
その言葉を思ってても口にはしないし、仕草にも出さなかった。告白されたって、いつも通りの態度を変えなかった。手を繋ぐのも腕を組むのも体を寄せ合うのもいつも通りで、私はなんにもドキドキしないし平気なのに、麻衣がなんでそんなに顔を赤く染めてしまうのか、どうして私の顔は真っ赤に染まってくれないのか、そのたびに疑問と不安は募るばかりだった。
だって、親友だから。親友だから真正面から向き合いたいなって思ってしまう。あわよくば相手と同じ気持ちになりたいって願ってしまう。親友ってそういうものだから、だから私はいつまでたっても麻衣を、拒絶できなかった。
期待していたんだと思う。いつかきっと同じ気持ちになれるはずだって。漫画やアニメみたいに、最初は好きじゃなくても思い続けていればいつかは、恋心を芽生えさせることもできるはずなんだって。
だけど、現実は不毛だった。親友はどこまでいっても親友。同じ気持ちになりたいって願いは無尽蔵に湧き出してくるけれど、願うだけじゃ虚しさが積もってゆくだけ。そのせいで私は少し焦っていた。手を繋いだり体を寄せあったりするだけじゃなくて、もっと過激なことをたくさんすれば好きになれるんじゃないかって、誤った考えに足を取られてしまった。
抱き合って、キスをして、深く沈んでいくたびに息苦しくなって、どうして好きになれないのって自分が大嫌いになって、最後には逆恨みまで。麻衣が私を好きになったのが悪いんだ。そんな考えが一瞬脳裏をよぎったせいで、私は本当に自分のことが大嫌いになってしまった。
「ねぇ麻衣」
「なに、里香」
何気ない夕暮れの帰り道ですら地獄みたいだった。有紀ちゃんがいるのといないのとは全然大違いで、有紀ちゃんがいなくなると麻衣は遠慮をしなくなる。キスをしたり、抱きしめたり、頭をなでたり、愛おしそうにみつめたり、そういった言動一つ一つすべてが、私の心をとげみたいに傷付けていく。
あぁ、いま私はこの人を騙しているんだな、って。
だから、もう限界だった。
「……私、違う高校に進もうと思うんだ」
私がそう口にすると、麻衣は信じられない言葉を聞いたみたいに目を大きく見開いた。
「なんでっ。模試の成績が悪かったから?大丈夫だよ。里香なら絶対に大丈夫だって」
成績が悪かったのはここのところずっと麻衣のことや自分のことについて悩んでいたからなのだろう。勉強もまともに手につかなかった。恋なんかにうつつを抜かすのは馬鹿のすることだと私は思っていた。だけど私は馬鹿にすらなれなかった。
「違うよ。私、麻衣を騙してたから、一緒に進む資格がないんだよ」
嘘をついているという後ろめたさから救われたいって気持ちもあった。だけどなにより、麻衣を傷付けたくないって気持ちの方が強かった。これから先ずっと付き合うことになれば、色々な思い出が積もっていく。積もったもの全てが嘘だったなんて裏返すのは出来るだけ早い方がいい。そうすれば、麻衣はそんなに傷つかなくて済むかもしれないから。
あぁ、違う。こんなの全て都合のいいきれいごとだ。結局私は利己的なだけなんだ。早く、この鬱屈とした状況からすくわれたいだけなんだ。
「私、麻衣のこと、好きじゃないんだよ」
「え。……私のことが、すきじゃない?……好きじゃない」
数えきれない数、私の言葉をかみ砕いて、反芻していたのだろう。気が遠くなるほどの沈黙の後、麻衣は私の瞳をじっとみつめて、震える声でつぶやいた。
「いつから?」
「……最初から」
私はもう嘘をつけなかった。
「でも親友としては大好きだよ。これだけは分かってほしい」
するとはっとしたように麻衣は目を見開いた。
「だったら一緒の高校に行こうよ。なんで別の高校に進もうとするの?私のことを好きにならなくていい。彼氏だって作ってもいい。だからこれからも私の傍に友達としていてよ」
あからさまに作った笑顔の裏側に、苦虫をかみつぶしたような表情があることを私は見逃せなかった。
「でも、それだと麻衣は苦しくなる」
「それでも私は里香と一緒にいたいんだよ。それだけ里香のことが大好きなんだよ」
私が麻衣のことを好きにならないと知っていながら、それでもそばにいることを願うなんてあまりに愚かだ。本当に愚かなのはこんなにいい人を好きになれない私の方なのだろうけれど、でもやっぱり麻衣はただの世界で一番大切な親友でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。
だからこそ、苦しんでもらいたくないんだ。報われない気持ちに縛られてほしくない。
「麻衣に苦しんでもらいたくないよ。麻衣のこと親友として大好きだから」
頬を生ぬるい液体が流れ落ちてゆく。恋人としては好きになれない癖に、親友としては好きになれる。そんな自分への自己嫌悪の涙だった。
「……そっか」
麻衣はそう言って、私の目の前で忍ぶように泣いた。私はなんの言葉もかけてあげられなくて、はらはらと雪の降るなか、霞んだ視界で大切な親友をみつめるだけだった。
儚い雪 知らない人 @shiranaihito
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