接吻

望月あん

接吻

 ティムは肩に釣竿をかけ、手には釣った魚を入れる籠を持っていた。

 湖まで続く小道は枯葉に覆われ、踏み込むと軽く沈んだ。道の脇にはふくらはぎまでの雑草が茂り、花のない枝葉が所在なさげに揺れている。華奢な幹をした白樺は季節のなかで丸裸になり、手の骨のような枝を灰色の空へ翳していた。

 冬に染まりゆく木立は人も動物も少ない。木々の向こうに透けて見える湖にも、釣り人の気配はなかった。

 湖の向こうに建つ教会が、午後の鐘を鳴らす。何百年も昔からそこに建つという教会は、首都からの左遷先として有名だった。煉瓦の鈍い赤銅色が愚鈍な佇まいを際立たせる。幼いころは憧れた神父さまも、今はただの小うるさい大人と大差ない。

 空も木立も教会も、霞んでいる。世界は色に溢れているはずが、ティムの目にはどれも精彩さを欠いて映った。朝早く起きて学校へ行き、夜遅くまで仕事を手伝っては泥のように眠る。繰り返しの日々はやがて差異をうしない、土に還っていく枯葉のように均されていくのだ。

 それでも自分は神に祝福されているのだという。なぜと口にすることはできない。そんなことをすれば、父に殴り飛ばされてしまう。ひっそりと、心のうちで密やかに、ティムは神に問い続ける。

 あなたはどこから僕を見ているの、と。

 ティムの問いへ応えるように、やや深い茂みから枯れ枝を踏む音がした。兎か蛇だろう。鳥にしては音が大きかった。

 耳を澄ますと、かすかに話し声がした。誰かいる。しかもひとりではない。ティムは釣竿と籠を置いて、そっと茂みを覗いた。

「くすぐったいわ」

 鈴を鳴らすような少女の声だった。どこかで聞き覚えのある声だ。ティムはさらに身を乗り出して、白樺に寄り添う少年少女を見つけた。少年の顔は少女のかげに隠れて、ティムのいる場所からはよく見えなかった。少女は少年に抱かれ、こちらに背を向けている。彼女の麦穂のような美しい亜麻色の髪に、あっと声をあげそうになった。

 シェリーだ。

 美しい髪と愛らしい目鼻立ちだけではない、シェリーはどんな少女よりも可憐で、天使のような透明感を持ち、すべての少年の憧れだった。ティムは教会で何度か挨拶をしたことがあったが、その日はどんなにつらいことがあっても乗り越えられる気がした。たとえその挨拶がティムでなく、一緒にいた神父さまへ向けられたものだとしても、特別な一日になった。

 その少女が、猫なで声で口づけをせがんでいた。淡い黄色のスカートはめくれ上がり、生白い脚には少年の手が見え隠れする。

「くすぐったいなら、やめようか?」

「いや、いやよ。やめないで」

 悩ましげに腰をくねらせ、シェリーは少年の首に手を回した。少年はくすくすと楽しげに笑って、シェリーと顔をあわせる。熱に浮かされたような息遣いで、二人はこぼれそうな果汁を吸いとる。ティムは目の前で繰り返される綻びに、釘付けになった。

 見てはいけない、見ていることが知られればどうする、シェリーに嫌われるだけではない、みんなから馬鹿にされるのだ。そう思っても、視線を逸らすことができない。胸の奥がちりちりと痛むような、首の後ろが痺れるような、味わったことのない浮遊感に飲み込まれて、ティムははだけていくシェリーの後ろ姿を見つめていた。

 一羽の烏が不躾な鳴き声をあげて、頭上を過ぎ去っていく。その声にティムは我にかえった。茂みの向こうでは、シェリーが泣きじゃくるような嬌声をこぼしている。神に祈る罪びとのように、シェリーは少年に縋りついた。

「ルーク、ルーク……」

 吐息のなかで、シェリーが少年の名を呼ぶ。ティムはその名を口の中で反芻して、ぐっと息をとめた。あの少年が自分ならと夢想していたティムは、その行為の虚しさにうな垂れた。

 立ち位置を一歩ずらして、ティムはルークの顔を覗く。彼は最近町へ出入りするようになった商人、エルガーの末息子だ。父や兄は小柄で蛙のような姿をしているが、ルークだけは母が違うらしく役者のように端整な顔立ちをしていた。闇を写しとった黒髪は異国の人のようで、そこから覗く青い目は抜き身の剣のように鋭く静かだ。薄い唇は曇り空のように無感動だが、差しだされる舌先は南国の果実のように真っ赤な色をしている。肌は日に焼けて、それが黒い髪とよく似合っていた。

 商人の父親とともに各地を回っているせいか、ルークはティムよりずっと年上に見える。二つしか違わないようにはとても思えなかった。

 遠い世界だった。二人とティムを隔てるものは茂みだけだが、それよりもっと深く広い溝が横たわっているようだった。先ほどまで体の内側で渦巻いていた熱情はすっかり冷め、ティムは肩を落とした。

 足元に広がる枯葉の絨毯から、蟻が姿をあらわした。その向かう先を目で追っていると、頬のあたりに羽虫がとまるような感触を覚えた。ティムは視線を戻して、息をのむ。

 ルークがティムを見つめていた。

 シェリーの声を唇で吸い上げながら、ルークの片目がティムをとらえて微笑んだのだった。

「ひゃっ」

 ティムは思わず声をあげて、腰を抜かした。すぐに両手で口元を押さえるが、もう遅い。

「なんの音?」

 まどろむような声音でシェリーが呟いた。がさりと、枯葉を踏む音がする。逃げなければと思うが、立ち上がれば見られてしまう。ティムは息をとめて膝を抱えた。

 大丈夫、とルークの声がした。

「きっと兎かなにかだ」

 ルークはそう言って、動物の鳴き声を真似た。

「シェリーがあんまりきれいだから、見とれていたんだって」

「まあ。ルークは兎とお話ができるの」

「そうだよ。それにシェリーの心の声を聞くことだってできる」

「どんな?」

 問いかけは最後まで続かず、やがて押し殺された喘ぎに変わった。ティムは釣竿と籠を掴んで、その場から転げるように走り出した。

 湖岸までたどりつき、ティムは木陰に身をひそめた。鐘のなかへ放り込まれたように耳がわんわんと鳴る。どんなに息を繰り返しても、まったく足りない。胸が高鳴って、心臓が体から飛び出してしまいそうだった。指の関節には汗が滲んで、思わず籠を取り落とす。丸い籠はゆるやかな岸を転がっていき、小舟のように湖に浮かんだ。ティムは濡れるのも構わず、水の中へ踏み込んで籠を拾い上げた。冷たい水にようやく落ち着きはしたが、踏み出すたび熟れた野菜を潰すような不快さに、ティムは眉を歪めた。

 小さな崖に腰かけて、ブーツのなかの水を捨てる。真冬でないとはいえ濡れたつま先は冷たく、すぐに赤くなった。湖面をすべる風が指の感覚をいっそう奪っていく。ティムは両手で足先をこすり合わせて、冷たいブーツを履きなおした。

 崖の端まで行き、ティムはあらためて腰を落ち着けた。巨岩がせり出してできた崖の下は、魚も多く、座り心地も悪くない。絶好の釣り場だった。

 釣り糸を垂らして、じっと湖面を見つめる。水面は風に揺られて波立ち、それに合わせて細い糸も傾いだ。

 鈍い灰色をした湖の表面には、ティム自身の姿が陽炎のように映りこんだ。赤茶けた髪はぼさぼさで硬く、つやなどほとんどない。鳶色の瞳は丸く大きく、いつまでも子どものときのままだ。声はようやく低くなってきたが、輪郭も背丈もまだまだ幼さの影が強い。

 ティムは先ほど目にした光景を思い出し、釣竿を握りしめた。喉の奥が深く脈打つ。唾を飲み込むと思いがけず大きな音がした。

 シェリーの肌の色、蒸れたため息、媚びる腰つき、それらはすべてティムの世界にはないものだった。まだ踏み込んではいけない、未知であるべき世界のものだ。見てはいけないものを見てしまった罪悪感と高揚感が、寝汗のように背中に張りついている。だがそれとは別で、ティムの脳裏から消えないものがあった。

 ルークが見せた青い微笑みだ。

 背骨を撫で上げられるような、体の内側から泥を掻きだされるような、昂りと濁りがティムを襲った。こちらの意思など見向きもせずに、いやおうなく喉元に咬みつくような微笑みだった。

 なるほどシェリーが別人のようになるのもわかる気がした。もしティムが少女だったなら、シェリーを深く妬んだだろう。

 ティムはふと首をひねった。

 思考の底に、針で刺すような小さく鋭い痛みがある。弟が褒められたときにも感じる、苛立ちにも似た痛みだ。それが何の痛みか、ティムにはわからない。まさか嫉妬だろうか。しかしルークは男の子で、シェリーは女の子で、ティムは男の子だ。まさか、そんなことあるはずがない。ティムは額に手を押し当てて、豊かすぎる想像力に深いため息を落とした。

「糸、引いてるよ」

 背後から不意に声がした。顔をあげて竿を見ると、確かに魚がかかっていた。ティムは中腰になって釣竿を引っ張ったが、すでに魚は逃げたあとだった。

「あぁ……」

 目の前でむなしく揺れる釣り針を見つめて、ティムは落胆した。うしろから笑い声がする。振り返ると、そこにはルークがいた。彼は膝を立てて座り、頬杖をついて笑っている。ティムは驚いて、目を何度もしばたかせた。

「えっと、あの」

「ここはよく釣れるの? 結構すぐ引いてたよ」

「す、すぐって。いつからここに」

「君が釣りをはじめたときから」

「だって、シェリーは? あっ」

 ティムは顔から火が出そうなほど恥ずかしくなり、俯いて口篭もった。笑い者にされてしまう、おそらくシェリーも近くから見ている、そう思うと涙が出そうになった。ティムは、恥ずかしさが増すだけの涙は決して流さぬよう、かたく目をつむった。

 しかし、ルークは笑わなかった。

「シェリーならいないよ。怒って帰った」

「……え?」

 ティムが首をかしげると、ルークもそれに合わせて首をかしげる。目深にかぶったハンチングから、青い目が覗いている。その青さは深い洞窟の底に沈む、澄んだ地下水のようだ。光を受けて宝石のように輝くが、あまりにも淀みがないせいで畏れにも似た躊躇いを感じさせてしまう。

 ルークは肩をすくめて、乾いた笑いをもらした。

「好きかって訊かれたから、別にって答えた。そうしたら怒って帰っていったんだ」

 頬杖をついていた手を離し、頬を指差す。日に焼けた浅黒い肌では目立たないが、よく見ると赤く腫れているようだ。

「一発殴ってから、ね」

「そりゃ、怒るよ……」

 ティムは呆れて笑みをこぼし、釣り針を湖に投げ入れた。

 すぐ隣へ、ルークが座り込む。彼は空っぽの籠を両手でもてあそびながら、じっと湖面へと視線を注いでいた。ティムはルークの横顔を盗み見ながら、話しかける機をうかがっていた。

「なに?」

 ルークは伏し目がちになって微笑み、短く問うた。ティムは何度も言葉に詰まりながら、うな垂れた。

「えっと、あ、あの、さっき」

「ああ、そのことか」

「悪気はなかっ……たんだ。ただ、誰がいるのか気になって」

「謝る必要はないよ。むしろ礼を言いたいくらいだ」

「礼? まさか」

 ティムが声を裏返すと、かぶったハンチングのつばを押さえて、ルークは肩を揺らした。

「ほんとだよ。君が覗いてくれたことには、感謝してる」

「言ってる意味が、よくわかんないんだけど」

「そうだよね、ふふ。ごめん、ごめん」

 ひとしきり笑うと、ルークは一息ついて唇を舐めた。

「あんなに興奮したのは初めてだったんだ」

 絞めたばかりの鶏の内臓にも似た、てらてらとした真っ赤な舌が、唇の端をなぞって艶めく。ティムにはルークの言葉の意味がまだわからなかったが、それが深い溝の向こうの話であることはわかった。

 ティムが竿を握りしめたまま黙り込んでいると、ルークはそうかと納得したように呟いた。

「君はまだ知らないんだ」

「な、何の話」

「キスのおはなし」

 ルークはティムへ向かってにこやかに微笑んだ。ティムは先ほどのルークとシェリーを思い出し、釣竿を取り落としそうになった。

「き、きき、キスくらい」

「おやすみのキスは数えないで。ママみたいに与えるばかりのキスじゃない、奪いあうキスだよ」

 奪いあうと大声で叫びたい気持ちを抑えて、ティムはどもりながら大きくうなずいた。

 疑わしげに、ルークが目を細める。

「ほんとかなあ。だったら僕の言葉、わかるよね」

「も、もちろん!」

 鼻息を荒くしてティムが声を張り上げると、ルークは笑みをひそめて首を振った。

「あまり問い詰めるのも野暮だね。いいよ、そういうことにしてあげる」

「え……」

 それではまるで、ティムが嘘をついていると言われているようなものだ。実際嘘なのでティムにルークを責める余地はない。

 ティムは体中の力を喉へ集めて、声を振り絞った。

「ない、ないよ」

 膝を抱えて体を小さくし、ティムはさらに言葉を重ねた。

「そんなキス、僕は知らない」

 恥ずかしいより、情けなかった。すこしの見栄のために嘘までつき、その嘘を見抜かれ、許されている。たかがキスくらいのことで。

 キス、くらい。

 ティムは心のうちで繰り返して、やがて首を振った。たかがではない。ルークとシェリーのキスは、そんな言葉でまとめられるものではなかった。それは見ていたティムがいちばんよくわかっている。

「十三にもなって、そう思っただろ。いいよ、笑っても」

「笑ったりしないよ、するものか」

「ほんとに?」

「知らないなら、知ればいい」

 ルークはティムの肩に手を置いて、声をひそめた。気がつくと、さっきよりずっと近くにルークの顔がある。ティムが訝しげに眉をひそめると、ルークは自分の唇にあてた指を、そっとティムの唇に押し当てた。

 誘われているのだと、さすがのティムにも伝わった。

「だって、そんな。僕たち、おとこだよ」

 握りしめた釣竿に、魚のかかる手応えがあった。ティムは顔を逸らして竿の先端へ目を向けた。不規則に引いている。生きるために強くもがいている。ティムはルークと竿を交互に見遣って、困り果てた。肩に置かれたルークの手に、一切の強引さはない。羽根が乗るような軽さで置かれている。いつだって振り払うことのできる手だ。

 それはつまり、絶対に振り払えない手でもある。

 からからの喉に唾を押しこんで、ティムはルークへ顔を向けた。そっと目をあげて、罪深いほどの青の微笑を見つめる。

 茂みの向こう、深い溝の向こう側に見つめた青い眼差しが、すぐそばからティムだけを見つめ、ティムだけを映している。

「知りたくないの?」

 そしてティムはその青の中に閉じこめられた。

「知りたい」

 釣り上げられた魚のように、ティムに抗うすべはない。されるがままに頬を撫でられ、逃げられないほどの強さで手を押さえられる。

 互いの吐息が触れて、ルークは思い出したように言った。

「名前、きいてなかったね。教えて」

「……ティム」

 口を動かすとすぐにも唇が触れそうで、ティムは口篭もった。

「ティムか」

 ルークはそう言ってティムの唇を舌でなぞり、名を口にするたび何度も何度も舐めあげた。

「かわいいね、ティム」

 綿毛が舞い落ちるように、ふわりと唇が重なる。ルークの唇は熱く湿った舌先と違って、枯葉のように乾いていた。それぞれの唇がおさまりのいい場所を探して蠢き、より深いところへと食いこんでいく。窪みの深淵まで塞がると、やがてティムの唇をこじあけてルークの舌が分け入った。

 息継ぎをしようとすると、吐息まじりの声がもれた。自分のものとは思えない声に、ティムは体中が火照るようだった。差し込まれた舌が絡みつき、背中に震えが走る。

 きっとシェリーもこうだったのだろう。ティムはまだ残った冷静さで思った。空を飛んだことはないが、飛べたならきっとこんな感じだ。

 より深く繋がろうとして生まれる隙間から、二人だけの秘密がこぼれそうになる。ティムは少しも失いたくなくて、自らの舌をルークへと差し出した。

 いつしか釣竿はしんと静まりかえっていた。空も木立も湖も、ときおり風にざわめくだけで素知らぬ顔をしている。

 ティムはルークを真似して彼に咬みついた。やさしく傷つけないように、けれど肌の奥深いところへ刻みこむように、唇で挟んでこねる。やがてルークの乾いた唇は冷たく濡れていった。

 遠く、教会の鐘が聞こえた。ルークが舌先だけで結びながら笑った。

「ねえティム、兎が見てるよ」

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接吻 望月あん @border-sky

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