幕間
地獄を手に入れる
毒を含んでも喉を通しきれなかった。
縊首は直前で執事に見つかり抱え込まれ、自傷してみても傷が浅く血は噴出しない。
そんなことを繰り返したら、危険な物は全て撤去されたがらんとした部屋で療養するようにと、ブルターニュ公から命じられた。四六時中見張りをつけられたうえ、ブルターニュ公の命を救った”赤い魔女”の弟子だという、なんとなしに気味の悪い長髪男が出入りしている。
「今のあなた様に必要なのは心を休めることです。これを飲めばぐっすり眠れますよ」
「それならば永遠に目覚めぬ薬を持って来るがいい」
隔離され、自分一人で死ねない苛立ちがなお募ると、次は湯水のごとく金を使い豪遊だった。タガが外れたように夜ごと豪勢な宴を催した。
金をばら撒けば自ずと人は集まる。資金が底をつけば土地を売り払い、恐喝して土地を奪ってはまた売り飛ばす。狂ったように享楽を求める姿は異常に映ったはずだが、いつ死のうとするか分からない状態よりはマシだと、近しい者は口にする。
「見ものですね、人がまるで甘い汁に群がる虫ケラのようだ」
「吸い尽くせばすぐに離れて行くものだろう」
「おやおや、妙ですね。人に囲まれたいわけではないのに人を集めていらっしゃる。他に何か目的がおありですか」
どんちゃん騒ぎから離れた暗い庭で、ジルは一人佇んでいた。足元には赤や紫のアネモネが短い美しさを満開にしている。
「どなたか、待っておられるのですか」
「……」
「しかもその方は、待っても決して来ない人ですね」
「……」
「それでもあなたは待ち続けている」
「笑いたいなら笑うがいい」
こうしていれば、ジャンヌがひょっこり現れるのではないか。『これだからお貴族はね、バカみたいなお金の使い方して!』とふくれて詰め寄ってくるのではないか。そう期待してしまっている。
そんなはずはないのだ。あの日、ジャンヌ・ダルクはルーアンで火刑に処され、灰はセーヌ川に撒かれた。それからもう三年になる。
「いいえ」
「お前は赤い魔女の弟子で錬金術師だったな。忘却薬を作ってみろ」
「…苦しいのですね」
肖像画があるわけではないのに、ぱっちりした目とサクランボのような唇、ふっくらと艶のある頬がふとした時に現れる。ケンカばかりしていたはずなのに、思い出すのは数少ない優しい言葉。そして決まって胸の中を引っかき回されたようになるのだ。
「いつになればこの苦しみは終わる? 時が経てば悲しみは癒えるものではなかったのか? 忘れさせてくれるのなら何でもいい。俺に与えてくれ」
すると、屋敷からこちらへ近づいて来るシルエットが視界に入り、プレラーティは一礼して姿を消した。それが貴婦人の影だったからだ。
「………」
ジルは声をかけられなかった。
「ご無沙汰しております。あなた」
別居中の妻だ。元々別の男に嫁ぐところを半ば強姦して既成事実を作ったが、決して愛情からではなく、養父だった祖父に命じられてした。後に自分よりも前に祖父から手を付けられていたと知り、追い出だしたのだ。その時、夫人は子を宿していた。
「……マリー」
「おとうさま…?」
夫人の後ろから幼い少女がひょこっと顔を出している。
産まれてくる子の父親は祖父なのかもしれない。だから腹の中にいる間に母親ごと追いやったのだ。今まで数えるほどしか会ったことはないし、まともに顔を見たこともない。
だが、この子は俺の子だ。
鏡で見る自分の顔とそっくりだったのだ。現実を恐れ、無気力に漂っているだけの。
「来月からマリーは修道院に預けることにしましたわ。今夜はそのご挨拶に」
「そうか。マリー、こっちにおいで」
おずおずと出て来たマリーは、ジルの前でドレスをつまんでお辞儀をした。
「赤いドレスがとても似合っているね」
「ありがとうございます」
「これを着けるともっと良い」
そこに咲いている真っ赤なアネモネを一輪手折り、結った黒髪に挿してやる。
「…きれい?」
「ああ、とてもきれいだ。修道院でもいい子でいなさい」
褒められたマリーは歯を見せて少しはにかむ。
思いがけず、その顔はジャンヌを彷彿させた。
なぜ。年齢も、髪の色も、顔だって全然似ていないのに。
「あなた、こんなにお金を使って毎週パーティーなど、どういうおつもりなのですか? そんなに財産は残っていないでしょう。支払いはどうなっているのですか?」
語気を強くして妻は責め立てるが、ジルには何一つ響かない。
「執事から聞きましたわ。借金ばかり増やして一体何をお考えなのですか⁉ このままでは何もかもを失ってしまいます!」
「なぜ思い出させる…?」
二度と会えないのだ。
俺が待っていたのはこういうことじゃない。
「別の男と暮らしているのだろう? 生活には不自由していないはずだ。もう二度と会いたくない」
「…っ!!」
拳を震わせた妻は踵を返す。おどおどとこちらを振り返りながら母について行くマリーは、やはり鏡の中の自分を見ているようだった。
どうしようもない思いが後から後から湧いて出る。しかし底なし沼へと流れ込むように、暗い感情は溜まることも排出されることもない。
奈落の底とは、これを言うのだろう。
無意識のうちにジルの足は天守へ向かい、階段を上っていた。塔の上では夜風が肌寒く、黒髪を舞い上げる。
塔の縁に立って、目を閉じた。このまま平衡感覚を失い足を踏み外せばそれで終わるのだ。人の形でなくなる惨めたらしい最期を迎えられる。
ふわっと浮遊感がしたと思ったら、後ろから腕に抱かれていた。そのまま尻から落ちるが、人の上に乗ったようだ。
「このっ、離せっ!」
「なりません!」
だが予想外に強いプレラーティの力に押さえつけられ、床の上で揉み合うも組み敷かれる。
「ク…貴様っ!」
「なりません。死とはもっと魅惑的であるべきです。絶望に打ちひしがれて選ばされるものではごさいませんよ」
プレラーティの顔から垂れた長い髪が、ジルの顔に降る。
「死は何かを遂げた先に手に入れるものです。なぜなら、死ぬのだけは他人のためにはできないのですよ。目的も理由も無く産み落とされた命に対する、唯一の答えです。たとえどんなに望まなくとも死は自分だけのもの。絶望になど渡してはなりません」
「…何を言っている」
だが底なし沼へ落ちたプレラーティの言葉は底をとらえて、雫が跳ねた。すると湧いても湧いても吸い込まれていた激情が逆流して溢れ出し、排出せねばならなくなる。
いや、便所から下水に流されていた汚物が、溜まりに溜まって一気に放流されたと言った方がふさわしい。そんなおぞましい衝動が全身を駆け巡る。
「あなたの心は壊されてしまった。誰が壊したのか? この世界ですよ。あなたの愛しい人を奪ったこの世界、この国。このフランスに生きる人々によって。それを壊せば、あなたの心は生まれ変われる」
「再生にどんな価値がある」
何をしたところであいつはもう、戻ってこないのだ。
救えなかった。俺に助けを求めていたのに、何もしてやれなかった。
「そうですよ、あなたのせいです。自分を責め続けて苦しめばいい。ああ、そんなあなたがたまらなく愛おしいのですよ。だから痛みを伴って生まれ変わりましょう」
舌なめずりをするように、プレラーティが耳の下から首筋へと舌を這わせる。ジルは首に巻いていた付け襟を外し、ボタンを開けた。
「壊すのですよ、復讐するのです。死には死をもって、最も凶悪で汚らしい、極悪非道な死で。そうすればあなたは地獄を手に入れる。最上の死とともに、地獄で魔女と結ばれるでしょう」
魔女として処刑されたジャンヌの行き先は地獄だ。そうか、地獄を手に入れれば、きっと。
全身からほと走る激情と堕ちてゆく快感にジルは身を任せた。
「待っていろ」
やがて終わりにたどり着くまで———
荒々しく重ねながら、
暁の約束 乃木ちひろ @chihircenciel
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