50
そうして、月日は流れて――。
寮生活でなくなったことは俺にとって結構な変化だったが、学校生活そのものには大した影響もなかった。登校時間が少し長くなったくらいのものだ。
そもそも俺が前の家に戻ったこと自体、あまり知られていない。知っているとすれば寮生と鷺沼くらいのもので、もしかしたら風の噂で聞いたという奴もいるかもしれないが、誰かからわざわざ確認されるようなこともなかった。それくらい一生徒の私生活なんて周囲は気にしないということだ。
しかし一つだけ、俺自身の学校生活において、目に見えて変化したことがある。
「ねー、カブちーん」
隣の席でだらけている獅子手さんが、いつものように俺を呼ぶ。彼女の手には今日が提出期限のプリントが握られていた。
「これ書いたらからさぁ、暇な時に職員室まで出しに行っといてくんない?」
「ああ、それなら今、舞佳が集めてると思うぞ」
「あン……?」
腕枕から顔を上げる獅子手さん。彼女の視線の先では、何人かの生徒が舞佳にプリントを預けている。
「ならカブちん、芦北に出しといてよ。ほら、なんだっけ、幼馴染って奴なんでしょ?」
皮肉めいた言葉と意地悪な笑み。
事実だから腹を立てることでもない。俺は「まあ」と頷きつつもプリントは受け取らず、
「せっかくだから、獅子手さんが自分で出してくればいい」
「は?」
「この前の仲直り、まだなんだろ?」
それとなく言ってみると、獅子手さんは不貞腐れたような顔になりつつも手を引っ込め、
「……チッ」
わざと聞こえるほどの舌打ちを鳴らして、舞佳の席まで歩いていった。
「勘違いすんじゃねーよ? うちはただ、カブちんに言われたから……」
そんな声が聞こえてきて、俺は思わず口元が緩んだ。
――こんな風に、直截ではないにしろ、獅子手さんからの願いを断ることもできるようになっていた。全部が全部というわけではなく、俺がするまでもないことはというか……取捨選択ができるようになってきた、とでも言えばいいのか。
それでも普通の奴に比べれば、断るのが苦手なことには変わりないのだろうが。それはやはり性分なのだから致し方がない。
それに――約束はまだ、続いているのだから。
学校生活に関わることでほかに変化があったとすれば、あとはもう放課後、取り分け下校時間くらいのものだろう。登校時間が伸びたのだから言うまでもないが。
寮までの道のりよりも少しだけ長い帰路を歩いて、家まで帰る。
懐かしくもあり、少しだけ新鮮でもある、俺たちの家まで――。
「あ、おかえりユウ。ちょうどよかったわ」
玄関を開けようとした時、タイミングを計ったかのように藍香さんがドアを開けて出てきた。ちょうど外出でもするつもりだったのだろうか、しかしその姿にはエプロンが装着されたままである。
「どうしたんだ藍香さん。そんな格好で出かける気か?」
「え? ……あー、洋服脱ぐのを忘れてたわ。裸エプロンでユウを出迎えるつもりだったのに」
「いや、脱ぐべきなのはエプロンであって洋服じゃないだろ」
大体なんだ裸エプロンって。同じ屋根の下に住んでいるだけでも充分過ぎるくらい刺激的なのだから、これ以上思春期男子の理性を弄ばないでもらいたい。
「もう、ジョークよジョーク。そんな格好で玄関まで出てきたらただの痴女じゃない。ユウを試したのよ」
「そんな抜き打ちテストになんの意味があるんだ……」
「それより、ちょっとスーパーまでひとっ走りしてきてくれない?」
「スーパー? なにか買い忘れたのか?」
「カレールー買うのを忘れたのよ。カレーを作ろうとしてたのに」
「それは致命的過ぎるな……」
食事当番は持ち回りで、今週は藍香さんの番だった。
料理は得意ではないと聞いていたが、どうやら買い出しの時点でミスを犯したらしい。得意不得意の問題ではなかった。
「ルーがないんだったら肉じゃがにでもすればいいんじゃないか? わざわざルーだけ買いに行くこともないだろ」
「ダメよそれじゃ。カレーって決めた時からもうカレーの気分だったんだから」
「だったらなぜカレールーを買い忘れるなんてぽかを犯すのか」
「うるさいわね。ごちゃごちゃ言ってるとユウのカレーだけジャワ的な激辛の奴にするわよ?」
「そのジャワ的な激辛の奴すらないのが現状だろうが」
などと漫才みたいな会話になっていた時。
「――ちょっと、なにしているの?」
背後からの声に振り返ると、舞佳がジトっとした目で俺たちを見つめていた。どうやら今しがた帰ってきたらしい。
「二人して玄関先でいちゃついて……ご近所に見られたら恥ずかしいから、早く中に入ってくれないかしら」
「へえ、家の中ならユウといちゃついてもいいわけ? それなら舞佳的にOKなんだ?」
なぜか揚げ足を取るように訊き返す藍香さん。
それが癪に障ったのか、舞佳はむっと表情を強張らせ、
「早く家の中に入ってって言っただけ! 別にいちゃつくこと自体許したわけじゃ」
「あっそう。舞佳はあたしがユウといちゃつくのがそんなに嫌なんだ? へえー」
「な、なによその顔は! 今はそういう話をしているんじゃなくて……!」
ミイラ取りがミイラになったか、今度は舞佳と藍香さんがいちゃつき……もとい、軽い口論になっていた。怒っているのは舞佳だけで、藍香さんは終始おかしそうに笑っているだけだが。
二人の間柄を知っている俺からすれば仲睦まじいものだが、このままでは本当に近所迷惑になりかねない。
「ああもう、分かったから。とりあえず俺がカレールー買ってくるから、二人とも続きは中で……」
「カレールー? なんのこと?」
「藍香さんが買い忘れたらしいんだ。だから買ってきてって、帰ってきた途端頼まれてこの有様で」
「そう……それなら」
一瞬、舞佳は藍香さんに不敵な笑みを向ける。
その直後――パッと俺の腕を掴み、
「今から買いに行きましょうか。私とユウ君で」
「な、なんですって?」
口をあんぐりさせる藍香さん。
かく言う俺も似たような表情だった。呆気に取られてしまっていた。
「ちょっと、あたしはユウに頼んだのよ。舞佳にまで頼んだ覚えはないわ」
「私も頼まれた覚えはないわ。でも、一人で買いに行かせるのも可哀想じゃない。私なりの善意よ、善意」
「うぐ……なら、あたしも一緒に行く!」
そう宣言すると、藍香さんは後ろ手にエプロンの紐を解こうとする。しかし結び目が固いのか、一向に脱げる気配がなさそうだった。
そうこうしているうちに舞佳が俺の腕を引き、
「姉さんはほかにも準備があるでしょう? 買い物なら私たちだけでいいから――行きましょう、ユウ君」
「お、おい、舞佳――っ」
俺からの返事を待つことなく、舞佳は玄関先を飛び出してアスファルトの上を走り始める。手を引かれているから俺もついていく以外になかった。
「ちょっと、待ちなさい舞佳! ユウを独り占めしてデートなんて、ずるいわよ――」
ようやくエプロンが脱げたのか、藍香さんが猛烈な勢いで追いかけてくる。
その様を振り返って見ている舞佳の顔には、とても楽しそうな微笑みが浮かんでおり、俺も不思議と口元が綻んだ。
「大丈夫よ、時間はこれから、まだいくらでもあるんだから――」
息を弾ませて答えると、やがて舞佳は走るのをやめて歩き始める。するとすぐに、藍香さんが俺たちの隣まで追いついてくる。
……まったく、たかだかカレールー一つ買いに行くだけなのに。思いのほか賑やかになってしまった。
だけど今は、こんな時間がずっと続いてくれることを願う。
この三人で一緒に、昔のように笑っていられる時間が、ずっと――。
アスファルトに影を映す赤い夕陽が、並んで歩く俺たちを家族のように照らしていた。
断れない系男子と家出姉妹 界達かたる @Kataru_K
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