【完結】星降る夜に

桜泉

星降る夜に

 隙間なく星を孕んだ宇宙そらの下に、砂の海は広がりゆく。

 夜明けまえの冷たい空気で吐く息は白く濁り、日中の酷暑では我が物顔の砂獣すなのけものも、凍てつく気温を避けて地下に潜っている。

 地表で凍死するのは、潜る力を失った砂獣だ。

 世界の大半を埋めつくす砂漠に、転々と散らばる岩場は、凶暴な砂獣を寄せつけない。砂漠を旅する者にとって、岩場は水と安全を与えてくれる天の恵みだ。

 小石混じりの岩場の縁でたたずみ、重く凍えた星の天蓋に、シスルは片手を差し伸べる。

 届くはずのない天の河が、すぐそこにあるような気がして、思わず手を伸ばしてしまった。

 開いた指先がまたたくまに凍てつき、痛みが肩まで這い上る。

(遠いな。 王都も、同じくらい遠いのかな)

 思い描く夢は遠く、焦がれて過ごす時間ときは永い。

 力なく下ろした手のひらに、ため息がこぼれ落ちた。

 どこまでも沈む思いを止めようと、再び天を仰いだ口元へ、無理やり笑みをく。

 そうして思い切るように、シスルは振り返った。

 奔放に跳ねる黄金の髪が、星々の弱い光を反射して薄闇にきらめく。

 さっきまで曇っていた炎色の瞳は、意思の強さを灯し、くっきりと見開らかれた。

 期待通りだった、初めての砂漠の旅。

 初めて見る、里の外。

 初めて見る、自由な他国者。

 その数の多さに心がおどる。

 気持ちが舞い上がる。

 里で他国者と疎外されるシスルにとって、砂漠は夢見た外の世界だ。

 じぶんと同じ他国者が住まう、自由の天地。

 その活気あふれる力強さが、うらやましい。

 東の男の民三部族の里を出発して一ヶ月。ようやくこの岩場に、辿り着いた。

 ともに旅した者たちは水場に行き、シスルは岩場の縁から少し入った木陰に馬をつないでいた。

 陽が昇っても、ここなら涼しいはずだ。

 顔を上げた視線の先、生い茂る林の中心に、青く光る岩と幾人かの人影が見える。

 どこの岩場にもある泉の岩だが、部族が所有する特殊な鍵がなければ水は湧かない。

 いまアキ族の族長コサギが、鍵をかざして水を汲んでいた。

 そのまわりには、三部族を代表する族長の息子たちがいる。

 イヨ族のリョケ。モロヤ族のタグリとロギだ。

 聖域に住まう巫女族の守護者として、男の民三部族は存在する。

 帝都オーティンを筆頭に、クフラン、マルラと肩を並べる、東方一帯の一大勢力だ。

 部族の身分階級の掟は厳しく、他国者のシスルに水場への立ち入りは許されない。

 ふっと曇りかけた思いを払って、頭を振る。

(すべては、常に変化する。動かせないと定められた運命などはない。世界は広く、人はそれぞれに自由だ)

 成人の儀を迎え、いつか王都への商隊に加われる日が来れば、かならず未来はひらけると父は言っていた。

(もう少しだ。あと、少しだけ)

 薄く明け始めた地平線に目をやり、シスルは王都への旅を思った。 

(かならず渡る。王都へ)


******

 岩場の縁から砂漠を眺めるシスルに、ロギは意地の悪い笑みを浮かべた。孤立するシスルを見て、優越感に笑い出したくなる。

 ロギは、シスルのすべてが嫌いだ。

 どれほど踏みにじっても誇り高く顔を上げるシスルは、ロギを頭からバカにしている。

 まるでロギが存在しないように、置物でも見るように、感情を出さない目を向ける。

 それが、たまらなく自尊心を傷つける。

 指先まで痛むほど、腹立たしい。

(生意気なんだよ、他国者のくせに。おまえなんか、絶対に認めない)

 もしもシスルが屈服して、ロギの前で顔を伏せたなら、どれほど溜飲が下がるだろう。それは、どれほど心地よいだろう。

 もしそうなったら、シスルの事など忘れるのに。

(いっそ砂漠で消えれば、清々する)


******

 水場で立ちつくすロギを残し、リョケとタグリは水筒をかかえてシスルのほうへ行く。

 三人は幼なじみだ。ともに草原を駆け回り、砂牛を追いながら育ってきた。

 コサギもロギから離れ、平らな草地に天幕を張る。

 一人用の天幕は、巨大な砂蛇の皮でできている。軽くてかさばらないうえ、熱を通さず光を反射する。中にいれば、快適に休めた。

「ロギ、今のうちに寝ろ。昼近くでないと、炎華は咲かないぞ」

 岩場の縁で楽しげに語らう三人を睨みつけ、不機嫌に立ちつくすロギ。気に入った者しか受け入れないロギに、コサギは先を案じる。

 砂漠の旅は、ロギが思うほど安易ではない。

 ともに渡る者と助け合わねば、命が危うい。

 おのれの感情に振り回されては判断を誤ると、誰もロギに教えていなかった。

(族長の器ではない)

 ロギがシスルを嫌っているのは、一族の誰もが知っている。

 タグリとリョケがロギを嫌っていると、知る者は少ないが。

 皆はシスルと親しいタグリとリョケを変わり者と言い、シスルを拒むロギを正しいと言う。それが、神の定めた掟だと。

 成人の儀式を祝う酒造りは、神託で選ばれた者で編成される。

 この特別な旅にシスルを指名した女王は、十五年前にも、他国者だったシスルの父ゼーノを、長老に指名した。

(あれは、長老だったおやじや部族の者たちが、原因不明の流行病で死んでいった時だ)

 巫女族は力を振り絞って病を清めたが、治癒できずに多くの者が黄泉路を渡った。

 里は死者の骸で埋めつくされ、力つきた女王は己が命で部族を救おうとした。その時、神が女王の身体に降り、神託を告げた。

「砂漠から、人に宿った神が来る。国境の里クフランへ出向き、赤子を抱いた男を丁重に迎え、部族の長老とせよ。病を癒すために」

 数日後、まだ赤子だったシスルを抱いて、騎士の甲冑を身にまとった若い男がクフランに現れた。

 それが、ゼーノだ。

 皆は長老としてゼーノを迎えたが、心から従ったわけではない。

 孤児になったコサギを息子として育てさせ、コサギが成人すれば、ゼーノ親子を追放する。

 決して受け入れないと一族が密約して、女王の言葉に従っただけだ。

(利用するだけ利用して、捨てるのか。おれにとって、ふたりは大事な家族なのに)

 そう思うコサギも、自分の家族を持ってからは、表立って一族には逆らえない。

 アキ族の族長となったいま、部族をまとめるために、よけいな争いはしたくなかった。

(おれも、皆と同じなのか)

 長老となったゼーノの指示で、原因不明の流行病は驚くほど早く収まった。そればかりか、年々新しいやり方を取り入れ、部族の生活を豊かにしていった。

 けれど、極端に他国者を嫌う一族にとって、ゼーノ親子が自分たちより上位の身分になるなど、我慢できない。

 認めない。

 それは、どうしようもない心の壁だ。

 シスルがこの旅の一人に指名されたとき、一族の怒りが爆発寸前まで高まった。

 年に一度だけの、特別な酒を造る旅。

 いつも現役の族長と、次代の族長とで編成されていた旅だ。

 その中にシスルが含まれるなら、成人の儀式にシスルも名を連ねるという事。

 神聖な巫女を妻に迎え、一族の男になるという事だ。

 誰もが厭い、決して認めない卑しい他国者を、一族に迎えるなど許さないと皆は色めき立った。

(獣に巫女を与えるなんて、天罰で部族を滅ぼす気か!)そう叫ぶ者たちに、コサギは怒鳴った。

 部族の神に、神託に、逆らうのかと。

 女王の神託は絶対だ。

 神の意志に逆らう者はなく、誰もが不満を抱え口をつぐんだ。

 力で押さえ込むしかない自分を、コサギは恥じている。

 ゼーノなら言葉をつくし、心を砕いて説得しようとするだろうに。

(何も、起こらねばよいが)

 数年のうちに、コサギは三部族の長老になる。コサギの幼い息子が成人するまで、シスルがアキの族長に指名されるだろう。

 ほとんどの者が反対しても、女王の神託で名指しされたシスルを、一族は拒めない。

 至高の地位たる女王へ、年々不満と疑惑が積もっていく。

 術もなく、ただ手をこまねくしかない不甲斐なさを、コサギは噛み締めた。

(里から出れば、三部族など取るに足らない小さな部族だ。南の一大勢力だと、どの国も認めていないのに。尊大なことだ)

 横になったまま、すっかり明るくなった空を見上げ、そばに咲く炎華に視線を移す。

 砂漠特有の熱が、地面全体から立ちのぼり、空気が焼けはじめる。

「咲くのが遅いか、俺たちが早く着いたか。今日は、咲きそうもない」

 一年のうち、三日ほどしか咲かない蜜の華。花開く時は、夜明け頃から独特の香りがする。だが、蕾は何の香りも立てていない。

 聖域の巫女が丁寧に醸した酒へ、男の民の岩場で年に一度しか咲かない炎華の蜜を、開きかけた蕾ごとつけ込んで熟成させる。

 開花の時期を逃せば、酒はできない。

「仕方ない」

 隣に張った天幕から、心地良さげなロギのいびきが聞こえる。

 そっと身体を起こし、コサギは岩場の縁へ歩いて行った。

 休むよう言わねば、三人はいつまでも起きているだろう。

 砂漠に見入いる後ろから、同じ方向に目をやった途端、コサギの言葉が宙に消えた。

 肩を並べ、はるか先の地平線に目をこらしていた三人も、同時に息をのんだ。

「あれは、人?」

 ゆらゆらと陽炎が立つ熱い砂漠に、男がいる。

 もう砂の獣は、目覚めているはずだ。なのに、慌てたふうもなく歩いてくる。

「ばかな、死ぬ気か? 砂の獣に、食い殺されるぞ!」

 コサギが叫んだ瞬間、大きく波打った地面から、巨大な砂蛇が姿を現した。

 それは滑るように、男の頭上で鎌首をもちあげる。

 ただ見守るしかない中で、男をめがけて落ちる砂蛇の口が、おおきく開いた。

「喰われる!」

 とっさに叫んで、異様な光景に息をのむ。

 まるで岩になったように、男の手前で砂蛇は停止した。

(いや、違う。岩になった?)

 コサギのこめかみを、嫌な汗がつたった。

 戸惑いもなく歩き続けて岩場に辿り着いた男に、タグリは思わず後すさった。

 線の細い外観とは不釣り合いな荷物を、男は背負っていた。

 実際のところ、砂に刻まれた足跡は深い。

「おまえは何者だ? 魔法使いか?」

「すごいな。どうやったんだ?」

 コサギは警戒し、リョケは仰天して、立ち止まった男に声をかける。

 シスルは不可解な様子で、尊大な男の笑顔を見ていた。


******

 砂蛇が岩に変化する一瞬まえ、奇妙な音を聞いた。

 鎖のこすれる、嫌な音に似ていた。

「地表の者が、知る必要はない。眠れ、そして忘れろ」

 男の身体から、異様な音が流れ出す。

 高く突き上がる、不快な音だ。

 突然のめまいで、シスルは膝をつく。

 不自然な睡魔が、身体の奥へ広がった。

 浮遊する頭の内で、男の声が木霊する。

(眠れ、忘れろ)

 意識が白濁し、無の中へ落ちてゆく。それでもこじ開けた目に、倒れて動かないコサギたちが映った。

(眠れ、忘れろ)

 ぎりぎりと共鳴し、頭に響く音が限界まで達した。

「やめろ!」

 自分の声が、耳を打つ。

 気がつけば、膝をついて仰向いた鼻先に、男の顔があった。

「ほう、効かぬか」

 思わずのけぞって尻餅をついたシスルの肩を、男の両手が引き上げた。そのままそっと地面へ放し、岩場の奥へ入って行く。

「木陰に運んでやらんと、こいつらは干物になるぞ」

 言葉もなく立ちつくすシスルは、呆然と男の背中を見送った。


******

(真昼の 夢?)

 巨大な荷物を背負った背中が、林にまぎれた。

(まさか、勝手に水を)

 鍵を持たない者は、どれほど欲しても水を得られない。けれど、あの男なら何でもできそうな気がした。

(止めないと)

 追いかけようとして、足が止まる。

(みんなを、このままにはできない)

 ここは、砂漠に近すぎる。砂甲虫や砂百足なら、簡単に上がってこられる場所だ。咬まれたら、ただではすまない。

 コサギを引きずって、シスルは天幕を目指す。

 草地へ辿り着くまでに、意識のない人間がどれほど重いものか、充分に思い知った。

(二度とごめんだ。 あの野郎 くそっ)

 それぞれの天幕を張り、どうにかこうにかタグリとリョケも寝かしつけたあと、シスルは身体を投げ出した。

 ふきだした汗が見る間に乾いて、服の表面に塩が浮く。

 荒い息に、喉がへばりつく。

「あつい 」

 リョケが汲んでくれた水筒は、とっくに空だ。

 身体を起こして水場へ向けた目に、青く光る岩が映る。

 天幕を視線でなぞり、ため息とともにシスルは立ち上がった。

 このまま誰かが目覚めるまで、待っていられない。

 はじめて林の奥へ足を運ぶと、いままで知らなかった濃い陰が、心地よく頭上をおおった。

 空気まで、しっとりとほほにすり寄る。

 すぐ先から、涼しげな水音がしていた。

 林をぬけた空き地の中央に青い岩があり、頂上の割れ目から水が流れ落ちていた。

 ふた抱えほどの青い岩は、人の背丈くらいだろうか。

 岩のまわりに水が溜まって、乗って来た馬が鼻面をつけている。

 シスルの馬も、群れのなかで水を飲んでいた。

 そのそばで、男は足を浸したまま寝転んでいた。

 気持ちよく寝息をたて、警戒する様子もない。

 のぞき込んだ寝顔は、コサギよりもいくらか老けていた。

 身体の筋肉も、シスルほど鍛えているとは思えない。それでも、かたわらに置いた荷物は巨大だ。

 寝入っているのを確かめ、荷物に手をかける。

「!! 重っ!」

 渾身の力で持ち上げても、それはびくともしなかった。

「やめとけ、おまえの力じゃ持ち上がらんよ」

 飛び退いたシスルを見上げ、男はおかしそうに笑った。

 寝転んだまま片目をこすり、遠慮なしに大あくびをして起き上がる。

 そのまま流れ落ちる清水に口をつけ、のどを鳴らした。

「お おま  おまえ、なななにすすんだ」 

 神聖な水を口飲みするなんて、信じられない。

「ん? 飲んだが、どうした? おまえ、言葉が変だぞ」

 男の返事に、自分の顎がはずれた気がした。

 口飲みどころか頭から清水を浴びて笑う男に、めまいがする。

「いま代わってやるから、待っていろ」 

 こめかみに浮く青筋が、ドクドク脈打つ。押さえた指の腹で、脈拍を計れるくらいの勢いだ。

「かんべんしてくれ。誰かに見られたら、どうするんだ。それに、鍵も使わず、どうやって水を出した?」

 寒くもないのに、悪寒が走る。

「おまえ、名前は? おれは、アナンだ」

「アナン? 天空人?」 

 昔語りの一節に、『アナンの城』がある。天空人の城の話だ。

「そんなご大層なものじゃない。ただのアナンだ」

 それで? と、アナンは肩をすくめる。

 人の話をまったく聞かない男に、身体ぜんたいでため息がもれる。

 観念して靴をぬぎ、シスルも池に足を入れた。

 火照った足裏から水のなかへ、疲れが溶け出していく。

「おれはシスル。何者でもない、ただのシスルだ」

 思う存分水を飲み、さっぱりと身体をふいたシスルに、アナンは自分の隣を指差した。

 広げた布の上に皿をならべ、新鮮な果物や薫製、柔らかなパンを盛っていく。

 砂漠の旅では、考えられない食卓だ。

「おまえ、魔法使いか? それとも、やっぱり天空人?」

 真上の太陽に気づいて、シスルの腹が鳴った。

「面倒くさいうえに、ゴチャゴチャうるさい奴だ。水の礼だ。好きなだけ、食ってくれ」

 天幕を気にするシスルに、アナンはため息とも苦笑とも見える仕草をした。

「明日の朝まで、目覚めぬよ。気にせず食いな。おれは、おまえに食ってもらいたい。一人の飯は、不味いんだ」

 不思議な男だ、と思った。

 得体が知れないくせに、警戒する気になれない。

 聞きたい事はたくさんあるが、肝心な事ははぐらかされそうだった。

「いただきます」

 おとなしく腰を下ろし、柔らかなパンを口に運ぶ。

 焼きたてを食べるような食感だ。泣きたいほどうまい。

 砂漠に入って保存食しか口にしていないシスルは、ここが何処なのか忘れそうになった。

 熱い珈琲とパン、旨い高地豚の燻製。みずみずしい緋色の果肉。

 満たされて心地よい微睡みのあと、シスルは唐突に目を覚ました。

 あわてて見回した草地に、男の背中がある。

 人の声を発する銀色の箱から振り向いて、アナンは苦い顔をした。

「おまえ、薬も長くは効かんのか。驚いた」

 箱を大事そうに片付けたあと、アナンは荷物を背負った。

 泉の水は止まっていた。溜まっていた水も、乾いている。

 いつの間にか、空は夕方を迎えていた。

「迎えが来るまで、おまえの天幕で休ませてくれるか?」

 ほんの少し考えて、シスルはうなずく。

「いろんな事に、答えてくれるなら」

「しつこい奴だ。いじめるな」

 おおげさに反り返って嘆いても、目はおかしそうに笑っている。

「まぁ、仕方ないな。どうやらおまえは、特別らしい」

 林を抜け、みんなから離れた草地に天幕を張る。

 入口を頭に並んで寝転ぶと、天幕は満杯だ。

 交差する枝越しに、冷めてゆく空が見えた。

「先に言っておくが、おれは特別じゃない。一族の者ではないし、力もない。いつ追放されるか分からんし、最悪   いや、いい」

 言い淀んだシスルに、アナンは寝そべったまま笑んだ。

 低い天井を見つめて、シスルは吐息する。

 本当はなにを聞きたいのか、浮かばない。だから、一族の言いそうな事を口にした。

「アナンは、砂漠で遭難したのか? ここは本来なら、男の民以外は入れないし、勝手に水を飲む事は許されない。一族の者に殺されても仕方ない。砂漠の掟は、知っているはずだ」

「そうだな、地表の者よ。それはおまえたちが、勝手に決めた掟だ。おれは、それが良いとか悪いとか言うつもりはないが、この大地が与えてくれるものは、すべての生きものに与えてくれるものだと思う」

 しばらくは、風の音だけがしていた。

 吹き寄せられる薄闇が、岩場の上でも深まっていく。

 まるで、父の言葉を聞くようだ。心が凪いで暖かい。

 目を伏せ、シスルはアナンの言葉を、胸の内に繰り返す。

「おまえは、特別ではないと言った。力もない、一族でもないと。だが、そんなものは人として必要なのか? おまえはきっと、他の者とは心の向きが違うんだろう。たぶん、求めるものが、他の奴とは違うんだ。おまえが、他より優れているわけじゃない。喜びの種類が、他とは異なっているんだろう。この大地には、はじめから特別な者も、特別でない者もいないからな」

 ホゥと息を吐き見開いたシスルの目に、煌めきを増した天が広がった。

「おまえは、我らと同じ声を持っている。ただ人ならば意識を失い、記憶を無くするだろうに」

 アナンは、そっと空をうかがった。飛ぶ鳥さえない、星空だ。

「おれは、おまえにとって一夜の夢だ。おまえが生涯をかけても、すべてを知り得ない、夢。だが、ひとつ良い事を教えてやる。砂漠に生きる者でありながら、同族の声を持つおまえなら、きっと役に立つだろう。敵を退け記憶を消す、まじないの声を教えよう。それは、癒やすこともできる声だ。知りたいか?」

 シスルは勢いよく起き上がった。その目が、キラキラ輝いている。

「おれは、水晶谷の民。だが、おまえ以外に、我が部族の名を知る者はない。ここで見た事、おれから聞いた事は、忘れたふりをしろ。いつかおまえが、おまえ自身の命を、助ける時の為に」

 不思議な二種類の音が、深夜の岩場に木霊した。

 砂獣も人も、思いのままに操る声を、シスルは授かった。

 美しく輝く満天の下・・・星降る夜に。


 はるかな地平線の一点に、眩しい光が現れた。

 それは瞬く間に両のかいなを広げ、一直線に光芒を走らせる。

 眠ったふりでアナンを見送るうち、本当に眠ってしまったらしい。

 迎えの天船あまふねを見ようとしていたのに、残念だと思う。

 岩場は、甘くさわやかな香りに包まれていた。

 トロトロと眠りを誘う、妖しいにおい。


******

「起きろっ!」

 とつぜん跳ね起きたコサギが、大声で叫んだ。

 寝惚けまなこのリョケとタグリが天幕から飛び出して、キョロキョロとあたりを見回した。

 天幕の入り口へ頭を出し、ロギもあたふたしている。

「いつのまに、眠ってしまったんだ?」

 頭を抱えたコサギが、荷橇そりへ駆け出した。

「早くしろっ、炎華ひのはなが咲く! 酒だ!」

 コサギの悲鳴に、シスルもロギも、リョケもタグリも。

 いっせいに走り出した。

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