エピローグ『約束』
「予約のお客様、こちらへどうぞ」
老齢の支配人が右手でレストランの奥を指し示す。彼に導かれてテーブルの並ぶフロアを進むのは、黒のドレスを身にまとったこちらも老齢の貴婦人。
「良いお店です。細部まで心配りが行き届いている」
「光栄でございます。お料理もお口に合えばよいのですが」
支配人の言葉に、婦人はすれ違う客たちの顔を見てにこやかに答えた。
「料理がすばらしいことも、帰ってゆく方々の顔から分かりますとも。皆が口々に閉店を惜しんでいる」
「ありがたいことです。しかし、始まりがあれば終わりがあるもの。今夜で本店は閉店であり、貴女が最後のお客様です。腕によりをかけた最後の料理、どうか心ゆくまでご堪能ください」
支配人はゆっくりと歩きながら店の内装を見回し、そこに刻まれた四〇年の年月を読み取るように深く頷いた。
「そうさせていただきましょう。それで、五十三年前に予約したテーブルはどちらですか? 支配人、結弦様?」
「ええ、ご案内しましょう。貴方の、菫様のためだけの席です」
カレンダーの日付は、二〇七四年九月六日。
結弦と菖蒲が憑爺と争った事件から五十三年が経っていた。それはつまり、菫が売り払われた件から六十年が経ったことを意味する。
菫が歳を『食った』ことで飛ばされたのが六十年後の未来であるならば。その時代に菖蒲がレストランを経営していたならば、きっと菫は来るに違いない。そう考えた菖蒲と結弦は、高齢を押して技術を磨き、営業を続けていた。
その願いは今宵、ようやく叶う。
「このお店を開くことができたのも菫様のおかげです。お迎えできて本当に良かった」
「何をおっしゃいます。あのお金は元より貴方のもの。私の方こそ貴方のおかげで妹を救い、仇敵に報いることができたのです。そのご恩は一生忘れないでしょう」
菖蒲には料理について膨大な知識と熟練の技術はあったが、無名かつ後ろ盾もない若い女性がいきなり店を持てるはずもない。その元手となったのは、憑路を去ったあの日にカモちーを通じて菫が送った資金だった。
その額、およそ七〇〇〇万円。
「九州まで行ってくれた彼女にもお礼を言いたかったんですが」
「奴のことです。感謝で腹はふくれません、とでも言って終わりでしょう」
中学生ほどの少女から飛び出る小憎らしい口調を思い出し、ふたりでくすくすと笑う。
羽織の少女が九州で手に入れてきたもの。
それはかつて、結弦が奪われたもの。伯父夫婦が『食い荒らし』『甘い汁を吸った』、結弦の両親の死に対して支払われた金だった。七〇〇〇万円ぶんの取り立てを受けた伯父夫婦のその後については、結弦も菖蒲も知るところではない。
「さあ、こちらへ」
用意されたテーブルは、夜景を一望できる最良の席。草の押し花が飾られたその席に菫がついたところを見計らい、厨房からコックコートに身を包んだ女性シェフが現れる。その顔には深い皺が刻まれているが、目には覇気があり背筋は紳士と同じくしゃんと伸びている。
テーブルの横につくと、シェフは菫に向けて恭しく頭を下げた。
「シェフの吾川菖蒲です。ようこそ、四条菫様」
ふたりして思い出すのは、六十年前のあの言葉。
『これを買えたら、菖蒲がもっと美味しいものを作ってくれるんでしょ?』
『……作る。いくらでも、世界一美味しいものをお姉ちゃんに食べさせてあげる!』
「約束を果たしに来ましたよ、菖蒲」
「こちらこそ、お姉ちゃん」
長い晩餐が、始まった。
だから彼女は骨を喰った 黄波戸井ショウリ @sieg_kiwa
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