骨喰い・b-5
「私はふたりを引き合わせたのです。似た未来を抱えた者同士のほんの小さなすれ違いを解消する、それだけの方法で」
「運命を変えるために?」
「運命などありませんとも。私が変えたのは『過去』にすぎません。貴方が乗り越えたものを、私も克服したというだけの話ですよ」
菫の言葉を、脇からの声が遮った。ガラガラにかすれた男たちの声を、結弦はしかしよく知っている。
「そんな言葉遊びはどうでもいい!」
「消える、俺の身体が消えてしまう! なぜ、なぜだ!」
爺、という芝居じみた自称も忘れ、膝で立つ力すら失った憑爺が地面で叫んでいる。周囲の野次馬を見渡しているが、誰ひとり手を貸そうともしないのは自分の業か。
「私がなぜ灰になったか分かりますか? これまでお前達が売り払ってきた『歳』を。全てこの一身に受けたからです。その取引が無効となった今、その全てがお前たちに帰るのですよ」
憑爺の本質はただの人間だ。それが何十人にも押し付けてきた年月を次々に送り返されれば、その結果は明白。若々しかった月島修司の肌はすでに土気色にひび割れ、手足の先から灰へと変わろうとしていた。
「そんなに自分の権威が大事か! 後から来た者を踏みにじることがそれほど愉悦か!」
「夜乃様は誰かの未来を想う方です。お前のような、過去を踏み台としか捉えない男とは何もかもが違うのですよ」
「くそ、くそが……!」
「これよりお前は黄泉へ向かい、夢幻となって消える。こうして真実を知って後悔する時間を持てたこと、幸運に思いなさい」
後悔。
後悔こそ復讐の本質だ。自分の行いを悔い、過去の自分を憎んで死ぬ。この復讐者が仇に求めるのは、その死体がカラスに啄まれることではない。地に額をこすりつけて謝罪させることでもない。己の愚かさを噛み締め、後悔の内に無に帰ってゆくこと。それだけを望み、今それが叶おうとしている。
「さらば、矮小な野心家よ。貴様が食ったものをぶち撒けて消えろ」
「おのれ……おのれおのれおのれ!」
「おの――!」
水に浸した塩の塊が溶けるように、憑爺たちの姿は闇の中に消えた。後には何もない石畳があるのみ。
「消えた……」
「んじゃ、次ですねー、次」
それまで黙って見ていた羽織の少女が、不意に割り込んできた。手には、三束の『道草』。
「次って?」
「貴方たち三人の番、ってことですよ」
「……今のは老衰だ。殺したわけじゃない」
「ええ、ですから急がねばなりません」
「急ぐ?」
菖蒲が聞き返した、その瞬間。
世界が、揺らいだ。
「なっ……!」
「結弦さんには話しましたよね。この憑路はもともと築地市場の裏側にあったもの。一度は浮島のように漂っていたところを、憑爺たちが強引にここに繋ぎ止めていた、と」
だがその憑爺たちは灰となって消えた。
「また浮島に戻るってことか」
「そういうことです。僕らはもともとここの住民ですが、お三方は早くしないと現世に帰れなくなってしまいますよ」
出入り口が消えれば行き来ができなくなるのは道理だ。その瞬間は、もう目前に迫っている。
菖蒲と菫が手渡された『道草』を受け取る。
「俺は外で手に入れたのがあるんだが」
「まあまあ、それじゃあそっちを食べて、これは僕みたいな美少女と知り合えた記念に持ち帰って押し花にでもしてください。花じゃなくて草ですけど」
「……じゃあ、もらっとくか」
少々味気なくも見える青い草。だがこのひと束の『道草』が菫と菖蒲を引き離し、結弦と菖蒲を出会わせ、そして今、三人を結びつけたのだ。憑路の思い出の品として、これ以上のものもそう無いだろう。
「全ての仕事は速やかに、が原則です。原則ですが……なんと、さっきこっそり買ったお団子がまだ一本残っていました。早く食べないと固くなってしまいますので、僕がこれを食べ終わるまでちょっと待っててくださいねー」
別れの挨拶を済ませろということだろう。どこからか取り出した団子をゆっくりと食べ始めた芹沢に小さく頭を下げた菖蒲は、七年ぶりに菫と話す時間を得た。
「お姉ちゃん、私は……」
「おっと」
言いたいことは山程あるだろう。だが、そんな菖蒲の言葉を、菫はすぐに遮った。
「いけませんよ、四条菖蒲。なにしろ私は六十年を犠牲にしたのですから。このわずかな時間くらい譲っていただかないと不公平というものです」
それを言われれば菖蒲に返す言葉はない。黙りこくった菖蒲に、菫は昔を懐かしむような目を向ける。
「初め、貴方を恨む気持ちがなかったと言えば嘘になります。貴方の軽率さのせいで憑路に迷い込み、そして憑爺に騙され、青春と人生のほぼ全てを失ったのですから」
「うん、そう。恨んで当たり前、だよね」
「しかし、貴方は私を忘れなかった。七年間、絶えず憑路に足を運び、私を探し続けた。そして最後は私を追って死んだ。だからこそ、私は今ここにいるのです」
「お姉ちゃん……」
先ほどまで憑爺が転がっていた地面をちらと見て、菫は夕の肩にそっと手を置いた。
「全ての元凶たる男たちは消えました。奴のために失った幸福を貴方が取り戻すこと。それを以って、私の、いえ、私たちの復讐は完遂します」
「そんな、私だけじゃない! お姉ちゃんにだって権利があるはず! 歳を売って少しでも若返れば……!」
「過去を変えた事実は、これが私にとって過去でなくてはなりません。今の私とこの過去の繋がりを保つためには、私が受けた全てを否定するわけにはいかないのです」
だから自分が直接に憑爺から食わされた歳だけは手放せないと、菫は確固とした口調で言う。言葉を失った菖蒲の手を取り、しっかりと目を見て続きを紡ぐ。
「しかし菖蒲様、貴方は間に合う。夢を追い、伴侶を見つけ、満たされた人生とすることができるはずです」
「……努力する。お姉ちゃんの分も努力する」
「努力、ですか。ふふ、人に頼るのが下手で孤独を気取り、今まで男の子と向き合ったことなどろくにないでしょうに。貴方のような人を受け入れてくれるとすれば、ひとりしかいないのでは」
向けた視線の先には、言葉通りただひとり。
「お、俺ですか!?」
「無理強いはできませんが、いかがでしょう? 気の利かないところは否めませんが、髪と顔は悪くないと思うのですが」
「お姉ちゃん!?」
戸惑いつつ、結弦にも思うところはあった。
考えたことは、実はある。『普通』を目指してきて、表面は取り繕うことができるようになった。だが、生涯の伴侶として誰かに自分の全てを預けることができる日など、果たして来るのだろうかと。素の自分を見せられる人間などこの世にいるのだろうか、と。
「……選択肢の少ない人同士をぶつけるところまで計算通りですか?」
「さて、どうでしょう」
「えっと、じゃあ、お友達からで」
「え、あ、そうですね、そうしよう」
「いささか物足りなくはありますが、ひとまず安心といったところでしょうか。まったくもって菖蒲は何をするにもぎりぎりでいけません」
「菫……」
「夜乃様にはお前からご報告を。短い間でしたがお世話になりました、と伝えるのですよ」
「忘れなかったら言っときまーす」
羽織の少女の返事に納得したか、菫は深々と頭を下げて微笑んだ。
「それでは皆様、ごきげんよう。……じゃあね、菫。結弦くんと助け合って生きるのよ」
老婦人の姿が消えると同時、『道草』を口に含んだ結弦の意識もまた現世へと引っ張られる。赤提灯の灯りと市場の喧騒がふっ、と遠ざかり、代わりにコンクリートとアスファルトの匂いが濃さを増してゆく。
我に返ると、結弦は菖蒲とともに学校裏の廃棄地区に立っていた。幻世の入り口だったはずのそこは、もう足を進めてみても赤提灯の光は見えず、コンクリートの壁に行き当たるのみの袋小路に変わっていた。
これが、吾川結弦が憑路で体験したことの全てである。
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