骨喰い・b -4

「ぐあっ!?」

「さよなら!!」


 不意の爆音。

 それに怯んだ憑爺の手をすり抜け、菫は一目散に駆け出した。後ろを振り返りもせず、なるべく人の多い方、喧騒の大きい方へと潜り込んでゆく。

 ただでさえ大人と子供、しかも相手が人間でないとすれば単純なかけっこで逃げ切れるなどとは思えない。身体の小ささを活かし、人混みの奥へ奥へと何度もつまづき蹴飛ばされながら進む菫の後ろから、すぐに憑爺の声がした。


「おおい、おいたが過ぎるぞお嬢さん」

「みんながあいつに道を開けてる……!」

「ははは、雑踏に紛れるとは見上げた知恵だが、地の利はこちらにあるようだな」


 追ってくる。悠々と歩いている様子で、しかし決して遠ざかること無く声が迫ってくる。周囲からは「『あの方』の他は奴に逆らえない」と口々に噂される声が聞こえる。自分が捕まったのは有力者だとは気づいていたけれど、まさかこれほどだなんて。

『あの方』を恐れてか菫を直接捕まえて突き出す者はいないが、雑踏が割れてできた道を来る憑爺との距離はいっこうに広がらない。


「逃げたところではここは爺の庭。見つかるのは時間の問題なのに意固地になってどうする」

「うるさい!」


 捕まれば食われる。

 その事実を知って逃げずにいられるものかと思うと同時に、絶対に逃さない自信があるから教えたのだろうという考えも頭をよぎる。息を切らして走りながら隠れられる場所を探すが、この市場を知り尽くした男から逃げ果せる場所など見つからない。


「痛っ!」


 石に躓き、勢い余って沿道の家に転がり込む。甘い香のかおりが漂い、黒と紫の垂れ布で外の音と光が遮られた小部屋。奥にはテレビでしか見たことのない大ぶりの水晶玉と、黒衣の老女がひとり。

 占い師の家だ。

 床の上でそうとだけ判断し、立ち上がる。


「す、すみません! すぐ出ていきます!」

「ははは、姿が見えなくなったが、どこに行ったかな。そこの箱の中かな? それともそこの家かな?」

 一秒が惜しい。憑爺はすぐそこまで迫っている。


「どうしよう、どうしようどうしよう」




「助かりたいかい?」




 老女の声。

 水晶玉の向こうの黒衣の女が、ゆっくりと口を開いた。


「え?」

「助かりたいかい、と訊いたのさ」


 信用してよいのか。

 そんな疑問が頭をよぎるが、考える暇などない。このまま憑爺から逃げ切ることなどできるはずもない以上、菫に残された選択肢はたったひとつだ。


「助かりたい! 助けてください!」

「おやおや、知らない人にはついていかないのが人間の決まりじゃないのかい?」

「そうですけど、食べられるより悪くなることなんてないです!」

「くくく、違いないね」

「それで私はどこに隠れればいいんですか!?」


 眼の前の老婆が殴り合いで憑爺を撃退してくれるとは思えない。ならば、と家の中を見回すが、先ほど見た通りで隠れられそうな場所など見当たらない。

 焦る菫に、老婆は落ち着きはらった様子で手招きした。


「隠れる必要は無いよ」

「え? で、でも」

「いいかい、君は食われると思っているようだけど、あれはただの脅しさ」

「……?」

「あたしに任せなさい」


 菫の額に指をつける。


「あんたはあの男に捕まっても死なない。そこから動き出す運命があるのさ」


 瞬間、菫の意識が遠くなる。

 次に目覚めた時、菫は己の体を見て悲鳴を上げた。


「わ、わた、私……」


 感じたのは圧倒的な虚無。つい先ほど、菫は過去に食べたものの記憶を失った。その時の『自分の中に空白が生まれる感覚』の真逆、『中身の無いまま皮だけが広がっていく感覚』が菫の脳を塗りつぶしている。


「あ、あ、あ……!」


 それは、菫が『歳を食った』姿。十二歳足す六十年、七十二歳の四条菫だった。


「私、おばあさんに……?」

「解放されたようだね。あの男、『歳』を押し付けた後はどこへなりと行けとばかりに放り出すのが悪い癖さ」


 ショックを隠せない菫を椅子に座らせ、老女は対面に腰掛ける。台の上の水晶玉に映る自分の顔を、菫はただじっと見つめている。


「訊いてなかったね。あんた、名前は?」

「……菫。四条菫、だったはず」


 しゃがれた、自分とは思えぬ声が自分の名を名乗る。


「背丈が一気に伸びて、脳みその形も変わったからね、しばらくは慣れないし頭も回らないだろうさ。満足に歩けるようになるまではここに置いたげるよ、菫」

「でも、いいんですか。あいつに逆らうのは危ないんじゃ」


 この状況で相手を慮るのは生来の気質か、教育がいいのか。いずれにしても大したもんだと笑いながら、老婆は被っていたヴェールを脱ぎ捨てる。


「おや、察しの悪い子だね。あたしが勝ち目もない喧嘩を売る質に見えるかい?」

「でも『あの方』しか逆らえないって」

「『あの方』。すなわち憑路の女主人、夜乃。あの男も彼女にだけはかなわない」


 そう言い終わると同時。老婆の姿が変わる。

 腰が伸び、髪は黒さを取り戻し、肌はみずみずしさに満ちてゆく。現れたのは元の菫より干支ひと回りほど年上らしき妙齢の女性。


「即ち、妾のことである」




    ◆◆◆




「菫お姉ちゃん……? 本当に……?」

「ええ、本当ですとも」


 地面に散らばった灰が象ったのは、ひとりの老婦人。その目元には、わずかだが菖蒲の知る菫の面影が確かにある。

 予想していなかった形での再会を受け止めきれないのか、菖蒲は震える声で問いかけを繰り返す。それににこやかに答えると、老婦人は、菫は再び憑爺に向き直った。


「あの灰がお前だと……?」

「命を救ってくださった夜乃様のもとで下働きをしながら礼儀作法や服装を学び、ようやく『道草』を手に入れた私は現世を戻りました。しかし……」




「六〇年の歳を『食った』私が帰り着いたのは、六〇年後の現世だったのです」




「タイムスリップ?」


 結弦の知識ではそれが最も当てはまるように思えた。


「そう捉えていただいてよいでしょう。夜乃様がどうして未来まで知っているか考えたことがありませんか? それが答えです。もっとも、夜乃様以外に未来を語ることは厳しく禁じられておりますが」


 未来に歳を食わせた部下を送り、そこで情報を得る。

 あまりに強引な、しかし絶対的な方法だ。


「四条菖蒲様。そこで私はあなたの未来を知りました」

「な、なんでそんな呼び方するのお姉ちゃん。昔みたいに菖蒲って呼んで……?」

「あなたは、私を探し続けた末に憑路で消息を絶ちました。洪(ホン)という男の手によって殺されたものと思われます」

「わ、私が、本当に……?」


 菖蒲は思わず聞き返す。

 あの時。洪との一件で菖蒲は本来死んでいたと、菫はそう言っている。確かに危ない場面ではあったが、自分が死んでいるはずだったと言われてハイそうですかといえる者もそういまい。


「今の私は夜乃様の配下ですので、貴方を親しげに呼ぶことも、まして嘘を憑くことも許されておりません。大人になったということですよ、四条菖蒲様」

「お姉ちゃん……」

「そして、それはあなたも同じです。吾川結弦様」

「俺も?」

「四条菖蒲様とは別の形で憑路に迷い込み、誰にも気づかれないまま憑爺に食われて消える。それがあなたの運命でした」


 だから、と言葉を切って菖蒲と結弦を交互に見比べる。


「私はふたりを引き合わせたのです。似た未来を抱えた者同士のほんの小さなすれ違いを解消する、それだけの方法で」

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