骨喰い・b -3
菖蒲がこの二ヶ月でやってきたことは、全てこの日のためだった。
月島親子が決着を急がないことは早い段階で分かった。ならばこちらから攻めなくてはならないが、失敗は決して許されない。例え殺害に成功しても警察に捕まってしまえば、かなり長い期間の自由を失うことになる。
「何しろ君の姉は五〇年ぶんの歳を食ったわけだからね。当時が十二歳だったか? 新聞でそう読んだ記憶がある。ならば順当にいけば今の年齢は七十九歳。決していつでも会えるさ、などとのんびりは構えていられない年齢だ」
言われずとも分かっている。だから菖蒲は準備をした。準備をするのは慣れていたから。
月島親子の行動を調べ、性格を調べ、能力を調べた。殺しに来ると知られている人間を、それも二人を確実に仕留める計画は容易ではない。おかげで二ヶ月もかかってしまったが、十分なものができたつもりだ。
右手のナイフを握りしめ、駆け出す。
果たして、その刃が月島継嗣に刺さることはなかった。
◆◆◆
「はは、はははは! なんだなんだ、『骨喰い』! いくらなんでもお粗末すぎるだろう!」
月島継嗣の対応は、実に単純だった。
『憑路に逃げ込めば勝ち』
「憑路では人間殺しは禁じられている。だから夜乃はわざわざ現世での殺害を命じたんだろう? それがあっさり憑路に逃げ込まれるとは、いったいこの二ヶ月何をやってたんだ?」
「なんで、なんでよ!」
菖蒲は叫ぶ。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「なんで、最後の最後で……」
「ま、計画というのは往々にしてうまくいかないものさ。さてと、私には別に少女をいたぶるような趣味はないのだが」
言いながら、菖蒲に歩み寄る。
「教育的指導は、必要だな」
人を殺してはならない。それは逆に言えば、殺しさえしなければ大丈夫ということを意味する。殺したいが殺せば終わりの菖蒲は決して強く踏み込めず、体格と膂力に勝る月島継嗣が制圧するであろうことは火を見るより明らかだった。
「まずは、その顔に少しばかり傷跡を残させてもらおうか!」
右腕を振りかぶる。その拳が菖蒲の顔に迫り、しかし割り込んだ何かに遮られた。
「いっつ……!」
「ぐっ」
割り込んだ結弦の胸に拳が当たり、互いにのけぞる。同時に、パリン、という高い音がした。何かの破片で切ったような小さな傷が月島継嗣の右手に残っている。
「……お守りが」
「吾川結弦、お前も来ていたのか」
巾着袋に入れていつも持ち歩いていた、誰かからの預かりものの小瓶。それが、袋の中で粉々に砕けていた。
「女に手を上げた上に大事なお守りまで壊しやがって」
袋から灰がこぼれ、地面に広がる。それを踏みつけにしながら月島継嗣は吐き捨てる。
「自業自得だろうに。お前のものなど知ったことか」
その言葉に、結弦と菖蒲は頷いた。
「吾川くん」
「はい、連れてきています」
「何を言っている? 連れてきた? 誰、を……」
結弦と菖蒲の視線。その先にいたのは。
「私、なんでここに……」
「な……」
息子、いや、今は息子役の、月島修司だった。
二人の憑爺が、そこにいた。
「夜乃は言った。現世で心の臓を狙え、と。別に殺せとは言ってないのさ」
殺したら殺したで、それでよし。だがそれ以外の選択肢は、たしかにあった。
「そもそも夜乃様くらいの力があるなら、現世で人を動かしてあなた達を殺すくらいできないことじゃないんです。実際、あなた達の片割れらしき人間が殺された記録も見つけました」
時間はかかってしまったけれど、と、菖蒲は資料調査で凝った肩を回す。
「でもあんたらは今も二人いる。つまり、片方を殺してもまた二人に分裂できるんだ。本当に難しいのはあんたらを殺すことじゃない。二人同時に殺すことだったんだ」
だから、夜乃は二人に命じた。月島親子を狙え、と。
「……だから、どうした?」
「分かったところで、結局二人揃って憑路にいるんじゃ手は出せまい。結果は同じだ」
「ところがそうでもない。カモちー!」
結弦の声に答えて、浅葱色の羽織が現れる。
「はいはーい、幕末系超絶美少女カモちーでーす」
「俺、吾川結弦はここにいる被害者を代弁して、取引の不正を告発する。この月島は自分たちが購入したものの所有権を不当に他人に押し付けている」
結弦の言葉に、月島継嗣は首をひねる。詐欺や略取をこじつけてくるならまだ分かるが。
「『押し付け』……?」
予想外の単語だが、羽織の少女は大仰のお辞儀をして、言った。
「ユズル様の発言に、代理人としての効力を認めます」
「な、なんだと? おい、お前が夜乃側の者でも憑路の規則を曲げるのは……!」
月島修司が食ってかかるが、少女は動じない。淡々と、ごく当然のように、足元を指差した。
「いえいえ、規則通りですとも。僕はここにいる方から、ユズル様を代理人とするよう正式に依頼されていますので」
「ここにいる方? 誰もいないだろうが!」
「いいえ、います。ちょっと地面に飛び散っていますが、たしかにいます」
地面に、という言葉に全員の視線が下を向く。そこにあるのは唯一つ、先に割れた小瓶からこぼれた、わずかばかりの灰。
「……まさか」
「月島修司、自称憑爺。あなたが本人から購入し、しかし先ほど『お前のもの』とユズル様に不当に所有権を押し付けた品について、その取引歴を不正とみなして取り消します」
その品の名は。
「品名、四条菫!」
地面の灰が、人の形を取り始めた。
◆◆◆
――七年前
「お姉ちゃん! 何してるの!?」
「菖蒲は『なんでも』としか言ってません。対価として子供ひとりが妥当だっていうなら私でもいいでしょう?」
口に『道草』を押し込まれた菖蒲の姿が薄れ、消えてゆく。無事に現世へ帰ったのだろうと判断し、大きく深呼吸した菫は、自分を買い取った男を見上げた。
「これから、私をどうする気?」
「心配することはないとも。生きと脂の乗りがいい人間の子供が入ったら知らせてくれ、と言っていた得意先があるでな。売れ残ることはなかろうさ」
「脂が乗ってないとダメってことは、そういうことなんですね」
料理の知識、という概念的なものを売り買いするところを見せられた直後ではあるが、ここはあくまで食材の市場。純粋に腹に入れるものの価値は十分に高いのだろう。少し離れた場所で串に刺して焼かれている、豚肉に似た何かしらを見て菫は自分の未来を知った。
「ははは、話の早い童子は大歓迎だ。その聡さに免じて、大声で泣き喚くくらいは好きにさせてやろうじゃないか」
「大声出してもいいの?」
「市場の喧騒の中、助けを呼べるほどの声を出せるのなら、是非ともそうしてくれたまえ」
「ふーん」
だが、菫は菖蒲の姉である。無鉄砲な菖蒲の起こすトラブルに巻き込まれたことなど両手では数えられない。不測の事態においてもっとも重要なのは冷静さであると、十二歳にして菫はよく理解していた。
子供らしくもない淡々とした口調で言いながら、菫はバッグに繋がっていたキーホルダーを手にとる。
オレンジ色をした卵型の本体から、リング付きのヒモが伸びたプラスチックの機械。天然の色が多い憑路にあって明らかに浮いた色合いのそれに、憑爺は興味深げに目を寄せた。
「ふむ、現世で流行りのおもちゃかな?」
「そんなとこです。けっこう気に入ってるんですよ」
この当時より遡ること十年以上。日本を震撼させた猟奇事件があった。
事件の名を『附属池田小事件』という。二〇〇一年六月八日、大阪府の小学校に刃物を持った男が押し入り、八人の児童を殺傷した痛ましい事件である。
この『附属池田小事件』を始めとした凶悪犯罪の発生を受け、各地の自治体や学校は児童の安全を守るために『ある機械』を配布した。ヒモを引くことで、肉声など比較にならない大音量を炸裂させる通報用具。
「じゃ、遠慮なく大声出しますね」
名称を、防犯ブザーという。
フォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォンフォン!!!
「ぐあっ!?」
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