骨喰い・b -2
あまり大声を出されると騒ぎになるかもしれない。慌てて追いかけつつなだめるが、洪の顔には怯えの表情がありありと浮かんでいる。
「お前らと関わってからだ!」
「はい?」
「お前らとのことがあってから全部がおかしくなった! 金はなくなる、会社は潰れる、やり直そうとしても一円たりとも手元に残らない! おかげでドン底まで落ちたのに、これ以上どんな不幸を持ってきたっていうんだヨ!?」
それが菖蒲に仕込まれた憑路に棲む虫、『金食い虫』の仕業であることには気づいていないらしい。または気づいていても対処法が無いのか。いずれにしても菖蒲が打った布石がまだ生きていることを確かめて、結弦は声をひそめて言う。
「お金、欲しいか? 欲しいならやる」
その言葉に、洪の表情が恐怖から欲望へと瞬時に切り替わった。
「く、くれるのか。いくらだ!?」
「一〇万円。俺の貯金全部だ」
「じゅ、一〇万! そんなに!!」
万一に備えて残していた虎の子の貯金だった。世間一般の感覚だと大金とは呼び難いが、今の洪には十分な額だったらしく目が輝いている。
「あ、ここには持ってきてないぞ。外に待ってる友達といっしょに引き出しに行くから」
「ふ、ふん、四条菖蒲の真似事か! 何が目的だ。知り合いだからって金を恵むほど慈悲深い人間でもあるまいし、何か汚い条件があるんだろう!」
お前が言うか、という言葉を飲み込み、結弦はさらに声をひそめた。
「『道草』をくれ。持ってるだろ?」
危険を冒してここまでやってきた結弦の目的は、憑路からの帰還に必要なアイテム『道草』だった。菖蒲から預かっていたひと束は、月島の件で憑路へ行った際に使ってしまい、結弦の手元にはもう残っていない。
憑路で菖蒲を探すためにはなんとしても持っておきたいものであり、それを持つ可能性がある男は結弦の知る限りでは目の前の洪しかいない。
「無いね」
にべもない洪の即答。だが結弦はあくまで冷静に切り返す。
「いいや、ある。あんたはお父さんが大陸で負けて、東京でも負けて、それでも再起を諦めなかった人間だ。現世で何もかも失った今、それでもまだ残してある切り札があるとしたら憑路と行き来できる『道草』以外にありえない。でも、それもそろそろ潮時じゃないか」
「……なんのことだ」
洪の反応に『道草』の存在を確信する。
結弦はスマホを取り出し、ニュース記事を表示して洪につきつけた。その見出しは『再開発計画にメス 今こそ真の土地活用を』。
「これは……?」
まじまじと記事を読む洪。ネットニュース特有のやや崩れた日本語で、しかし現代の社会問題を背景とした再開発計画の進展が鮮明に書き綴られている。
「今の憑路は、つくば市の廃棄地区に繋がれて存在している。あの地区の再開発計画が見直されれば、あんたの知っている入口は使えなくなるだろう。そうしたらどうなる? 帰るための『道草』なんて、そもそも行けなければただの草だ」
「ぐ、いつの間にそんなことに……」
「分かったか? 売るなら今なんだよ」
「ぬぬ……いいだろう。だが十五万円だ。十五万円でなら売ってやる」
値上げの要求に移る洪。しかし持っていることを隠すことをやめた時点で切り札は失ったも同然だ。
勝った、と結弦は確信した。
「無理です」
「じゅ、十三万円でいい! これ以上はビタ一文まからない!」
「だから一〇万円が全財産なんですってば」
「四条菖蒲がいるだろ! あいつに土下座でもなんでもすれば何万円くらいは……!」
不快感を隠し、大きくため息をついて結弦は首を横に振る。
「分かった分かった。もういいや。四条先輩から買うから」
「は? い、いや。菖蒲夕からもらえなかったからオレのところに来たんだろ?」
結弦の態度に目に見えて慌てる洪。仮にも会社ひとつを仕切っていたの男だろうに、人間、追い詰められるとここまで脆くなるのかと、今さらに同情する結弦だが顔には出さない。
「最初は四条先輩に頼んだだけどな。四条先輩って意外に、いや、あんたなら分かってくれるか。欲しければ地に這いつくばって靴を舐めろって言ってきたんだ」
「そんなバカな。……いや、オレをここまで追い込んだあの『骨喰い』なら……」
「だから土下座して借金するくらいなら、最初から四条先輩に土下座すればいい話ってことに……」
「わ、分かった。一〇万円でいい」
折れた。
あとは結弦の『予算』に収めさせるだけだ。
「あ、すみません。昨日ガスと電気とスマホの引き落としがあったのを忘れてた。八万円になっちまう」
「な……」
「さすがに悪いよな。残念だけど帰るわ」
もともと、結弦が用意できたのは八万円だった。しかし八万と一〇万では桁も違えば心理的な圧も違う。その効果で言いくるめて了解させてさえしまえば、あとはどうにでもなると結弦は確信していた。
金に窮した人間の心理を、かつて所持金二十七円で放り出された結弦は痛いほどに分かっている。
「ま、待て!」
「なんだ?」
予想通り呼び止めてきた洪に、残念そうで悲痛そうな顔を作って振り返る。見れば、もっと悲痛そうな顔の洪がいた。
「それでもいい。八万円で、いや、でもそれじゃ毛布が、毛布が……!」
「……毛布?」
ちょっと予想していなかった単語が出てきた。
結弦に手招きすると、洪は周囲の目をはばかるように事情を話しだした。
「周りのホームレス達に借金があるんだヨ。八万円あれば借金は返せるが、これから冬支度しなきゃならないのにマイナスがゼロになるだけじゃ毛布も買えやしない。凍えて死ぬのは嫌だ……!」
『金食い虫』の影響か、思った以上に困窮していたらしい。
殺されかけた相手といえど、野垂れ死にされるのはやはり気持ちのいいものではない。とはいえ、結弦にも余裕などないわけで。
「……ちょっと待って」
「なんだヨ」
スマホを取り出し、通話をかける。きっと待っていてくれたのだろう、コール音一回もしないうちに繋がった。
『も、もしもし!? 大丈夫!?』
「ああ、大丈夫だ。ところで今村、ちょっとつかぬことを聞くんだが」
『な、なに?』
「お前んち、いらない毛布とか余ってない?」
今村薫からの返答を聞き、結弦は洪に向けて親指を立てる。その意味を理解した洪の目は、一〇万円と言われた時以上に輝いていた。
「ピンクの猫ちゃん柄だそうですけど」
「猫ちゃん好きだヨ! 是非くれ! くれ!」
喜ぶ洪の姿に、ほんの少しだけ結弦の良心が痛む。その理由は、握られたスマホに表示されたニュース記事。今回の交渉でキーとなった重要な記事だが。
こちら、偽ニュースである。
「社会の勉強って役に立つんだなぁ」
社会の重松。人格に問題ありでも腕は確からしいと、自分の書いた偽ニュース記事を見ながら結弦はぼそりと呟いた。
◆◆◆
翌日、日曜深夜。月曜を前に、街が寝静まっている時間。
「……我々にとっては、急ぐ理由のない戦いだ。だが君には違う。一刻も早く姉の居場所を突き止めねばならない。遠からず来るとは思っていたけれど、意外に遅かったじゃないか」
「急いては事を仕損じると言いますので。理事長先生」
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