僕の不安

その日僕たち二人はテレビを見ていた。

朝日放送のぽつんと一軒家だ。


歩美あゆみが言った。

「私、こういう暮らしに憧れるなあ。」

「僕はこういう山の中じゃあ無くて 小さな島にあるぽつんと一軒家が良いなあ。釣りがしたいからね。」

と僕が返す。


「海に浮かぶ島かあ・・それも良いねえ。船を持ってて・・週一で本土に買い出しに行くのって。そういうのも素敵じゃあない!」


「あのさあ・・歩美が僕と結婚してくれるんなら、島を買っても良いんだけど。」

「何にそれ!プロポーズ?」

「いや・・だから・・とても素敵な島が有ってね・・知り合いから買わないかって言われているんだ。で、迷っているんだよ。歩美が俺と結婚してくれるなら買う。」


「だけど島って高いんでしょう?」

「3000万で売ってくれるそうなんだ。」

「3000万って・・そんなお金持ってるの?」

「お金は何とかなる。」

「うそ!何とかなるの!? じゃあその島を見に行こうよ! 現場を見て私が島を気に入ったら浩司と結婚する。」

「まじか・・。」




瀬戸内海に島は多い。外周が1キロを超える島だけに絞っても700以上ある。小さな島を含めると3000を超すそうだ。

周囲が10キロ以上ある島は人が住んでいるが、2キロ以下だと無人島が多くなる。僕は釣りが趣味で小型船舶の免許を持っていて時々レンタルボートを借りて釣りをする。なので瀬戸内海の情報に詳しいのだ。


レンタルボートを運転しながら僕が言う。

「ほらあの島だよ。本島と近いだろう。ボートで片道30分ってところだ。数年前までは住民が居て、電気は海底ケーブルで来ているんだそうなんだ。昔は石を切り出す会社があって、その社員が30件ほどの家を建てて住んでいたそうなんだけど、今は会社も無くなって、4年前に最後の住民が島を出て無人島になったそうなんだ。」


船着き場に着くと歩美が言った。

「まだ家が有るんだね。」

「この島の所有者の前島さんの家が有るんだ。年を取って不便だから街に引越ししたんだけどね。まだしっかりしているからリホームしようと思うんだよ。君が気に入ればだけどね。」


コンクリートの桟橋にボートを係留すると、先ほど見えていた屋敷に向かった。

大きな屋根の平屋で隣には納屋が立っていて、門札には前島と書かれている。道は舗装されていて林の中に続いている。

「大きな家だろう。」

「おっきいね・・この道は何処まで続の?」

「島の反対側が昔の石切り場と後は山の神社跡までかな。まだよく知らないんだ。1

周して3キロ半ほどの島だからね・・そんなに道は無いと思うよ。」


話していると小型の漁船がやって来て桟橋に係留をした。

「ああ、あれは前島さんの船だよ。前島さんは漁師なんだよ。」


前島さんはにこにこ笑いながら話しかけて来た。

「あんたらが来とんさると聞いてね・・ああ、ここは暑いから家に入んなさればいい。鍵は掛かっとらんけ・・」

そう言って玄関を開けて玄関の電灯をつける。

「ほら!電気は来ているんじゃ。まだ時々ワシが来るもんで、電気は生かしておる。この道の曲がった先に最後の住民の家が残っているよ。その家もまだまだつかえる。島を出て行くとき土地も屋敷もワシが買い取ったんじゃ。まあ、餞別代りにな。」


「どうしてこの島を売る気になったのですか?」

「わしはずーっと漁師一本でやって来んだけど、もう年だしな 辞めようと思っとるんよ。まあ・・あまり良い事は無かったし・・子供もおらんし・・最後にバーンと遊んでやろうと思っているんよ。と言ってもこんな島を買う者はおらんけな。ところがあんたが買うような話をするけえ・・ほらジャパネットクルーズって知ってるだろう?ああいうのに乗って世界を回れたらって嫁が言うんよ。子供もおらんかったし、嫁を一人ほったらかしとったからな・・最後は嫁のいう通りにしちゃろうと思ってな。」


「何か・・いい話聞いちゃった。そういう考えって素敵ですよ。」

と歩美が言うと、

「素敵って事も無いんじゃが・・一緒になってから何処にも連れて行ってやっとらんしな。」と前島さんは少し照れている。


その時 歩美が突拍子もなく言った。

「浩司、この島を買おう!!」

「良いのか?」

「良いよ!」


前島さんが言う。

「不便な島だけどボートが有れば町までは近いし、この屋敷も付けるからな・・買い得だと思うよ。ほれ!家の鍵を渡しておくよ。と言ってもここは人は来んけどな。そうだもう一つ・・この島と家の固定資産税が年に10万円ほど掛かるからね。人の住める島は少し高いんよな。ほんじゃあ、町の司法書士に頼んで契約の準備をしましょうかな。それで良いね。」

僕は改まった態度で、

「はい、よろしくお願いいたします。」

と頭を下げた。



前島さんが帰ると僕たちは家の中を探索した。

「まだ全然使えるよね。畳も新しいし・・」

「エアコンも付いているしね・・冷蔵庫もあるし・・いつでも暮らせそうだ。」

僕は急に歩美の後ろから腰に手を廻した・・そして耳元で言った。

「じゃあ結婚しような。」

「うん・・良いよ・・」



「レンタルボートを返しに行くついでにボートを注文するよ。」

「ボートって高いんでしょう?」

「そうでもないよ。300万ぐらいだから。車一台ってところだよ。」

「島が3000万・・ボートが300万・・家のリホームもあるでしょう?」

「家の改築は500万ぐらいを予定してる。」

「大丈夫なの?あなったってそんなにお金が有るの?」

と心配そうに歩美が言う。

「資金の一部は親が出してくれるんだ。両親は日本に来てずーっと中華料理店をやって来たんでね。俺は一人っ子だし、お金は大丈夫。」


「じゃあ浩司こうじも両親と一緒に日本に来たの?」

「いや、僕は日本で生まれたから・・俺が生まれた時には、親は帰化していたからね。僕は生まれた時から日本人・・中国系日本人ね。」



僕はソフトエンジニアなのでリモートワークが出来るのだが・・ここで暮らすとなると 早急に島の家に仕事のスペースを作らなくてはいけない。僕はDIYは苦手なので町から業者に来てもらい早速作業に入ってもらう。庭に面した部屋の外側にテラスも付けてもらい、テラスの日除けも設置してヤシの木を3本植えて貰った。これで少しリゾート感がでた。


歩美は花の苗をたくさん買い込んできて花壇を作っている。庭仕事に疲れたらテラスで海を見ながらお茶タイムだ。

「親にね・・歩美の話をしたら会いたいって言うんだ。今度ここに来るって言うけど、良いよね。」

「忘れてた、親が居たんだ。」

「心配いらない。うちの親は固くないから。そうだ、歩美の親も呼ぼうよ。」

「そうだね。その方が面倒が無いよね。この家は部屋も多いから泊まってもらえばいいよ。となると寝具を買ってこなくちゃあね。食器は人数分有るのかなあ・・」

僕らはもう新婚気分で、買い出しリストを作ったのだった。




一か月ほどでリホームが終わって、さっそく親を招待した。

歩美は母子家庭なので二人暮らしだ。ボートには歩美と歩美のい母と僕の両親、そして僕の5人が乗り込んだ。僕の親は商売人だから話し上手で、早速歩美や歩美の母と仲良くなり 楽しそうに雑談を交わしている。


「婚約したなんて急に言うから 寝耳に水でびっくりですよ。彼氏がいるなんて知らなかったんですよ。歩美は何も教えてくれないから。」と歩美の母が言うと、

「島を買うからお金をくれって言うんですよ。島を買わないと結婚が出来ないとか・・何が何だか・・一人っ子で甘やかしたのかしら。」と僕の母が返す。

すると父が「俺たちは仕事ばっかりで・・気が付けば息子が結婚する年ですわ。」と感慨深げに言う。


島に到着するとリホームの終わったばかりの家を歩美が案内をする。親たちは歩美に任せて僕はボートから荷物を運んで夕食の準備に掛かる。メニューはテラスで焼き肉パーティーだ。これが一番手間が掛からない。ビールや日本酒も準備をしたし高級ワインも父が持ってきてくれた。これで万全だ。


夕方になりコンロに火を入れる。

テラスからは瀬戸内海が見渡せる。

左方向に別の島が有り、その島陰に夕日が沈む・・

それを眺めながらテラスで酒を飲み談笑をする・・

すべて・・全て僕のイメージ通り・・

最高の雰囲気だ。


しかし、海辺は蚊が多い。それが海辺の悪い所だ。

蚊取り線香をバンバン焚いて蚊を追い散らす。

「連休頃ならまだ蚊が居なくて最高だったのですがね。」

と僕が言い訳を言うと、

「いや、都会の喧騒の中で暮らしていると、ここは天国だよ。この島では釣りは出来るのか?」と父が聞く。

「島の裏手の石切り場の方に行けば魚は釣れるそうだけど・・」

「良いなあ・・店の定休日にはここに釣りに来て良いかなあ。」と父。

「そうねえ、それは良いわね。ああ・・別にあんたたちの邪魔はしないから。この島を使わせてもらうだけだからね。若い者には干渉しないから。ねえお父さんキャンプに来ようか。」と母。

「魚釣りキャンプか。それは良いなあ。ねえ、歩美さんのお母さんも一緒にキャンプしましょうよ。」と父。

それを聞いて歩美が心配そうに僕の目を見る。


正直言えば、親に新婚の世界を荒らして欲しくは無いのだが、この島を買う資金は僕の親が出したのだから・・時々ならしょうがない。

僕が牽制をするように言う。

「あのさあ、石切り場は石を掘り出した後に水が溜まって池のようになっている場所が有るんだよ。そこは深いし切り立っているから落ちたら自力では上がれないから気を付けてね。石切り場の山側の方には行かない方が良いよ。」

すると父が、

「ほ~う、そんなんだ。明日の朝、石切り場を案内してくれるか?」

と言う。

「うん、良いよ。」



次の朝僕らは全員で島の裏手にある石切り場の跡地に向かった。

「瀬戸内海には石切り場の有った島が多くあったそうなんだよ。この島も山の東側は石を取っていたようなんだ。会社が廃業してから跡地を別の人が買い取って、それを前島さんが相続したそうなんだ。」

「何の石を取っていたの?」

「花崗岩らしい。ほら、墓石で使うやつね。今は海外から安い石が入ってくるからね・・廃業したところが殆どらしいよ。」

「墓石かあ・・」


現場に着くと、山は垂直に切り取られ、ところどころ海面より深く切り込まれている。そこには水が貯まり野球場程度の池になっている。淵は切り立っていて水面を見下ろすと怖いぐらいの高さが有る。

僕が言う。

「ここは落ちたら上がれないよ。以前は柵がしてあったそうなんだけど、今は誰も来ないから放置されているようなんだ。」

「池は深いのか?」

「30メートルぐらいの深さが有るそうなんだ。」


「30メートルかあ・・しかし、島の正面から見たのと裏側では別世界だなあ。あれは切り出し途中の石だね。四角い石が転がっている。」

父が指さす方には、草ぼうぼうの中に切り出された大きな石がまるで巨大な豆腐のように無造作に並んでいる。


「こちら側の景観は良くないけど、でも岩場が多くて魚は釣れるそうなんだ。まあ、山側に近づかなければ問題ないよ。ほら! あそこの護岸の所が広くなっているだろう。あそこから石を船積みしていたんだよ。あの護岸の辺りは良く魚が釣れるそうなんだ。」


母が言う。

「家からここまで結構歩いた気がするわね、どのくらいあるの。」

「山を迂回したから2キロはあるかもね。あ、お父さん用にバギーを買ったら? ここは私有地だから免許もナンバーもいらないよ。」

と僕は父に誘いをかける。

父は僕の考えを見抜き「ハハハお前が使いたいのだろう?いいさ、結婚祝いに買ってやるよ。その代わり条件が有る。この石切り場の護岸の近くに小屋を建てさせてくれよ。別荘と言うほどのものでは無いけど、俺たちにも遊び場が欲しくなった。ダメか?」バギーを買ってくれるのならしょうがない・・僕は「ダメなわけやあ無いだろう。」と笑いながら言った。



しかし父親たちは幾らお金を持っているのだろうか。僕に3000万くれた上に、島の反対側に別荘を建てたのだ。しかもガラスをふんだんに使った近代的な建物だ。入り口は指紋認証の自動キーが付いていて、登録された指紋でないと開かないようになっている。

もっと驚くのは別荘には地下室が有り、そこは核シェルターのようになっているのだ。しかもどのドアも電動ドアと来ている。そのうえ停電の時は自動で発電機が回るらしいのだ。そんなものが必要か? いったい僕の親は何を考えているのだろうか。

「いくら掛ったの?」と僕が聞くと父は「1億円をだいぶ超えたな。怪訝に思うのは分かるけど、俺とお前では趣味が違うんだよ。」と気楽にこたえる。


僕は父を中華料理店の古風で難しいオヤジだと思っていたが、そんなイメージが根底から崩れてしまった。そらから僕と歩美の指紋も登録されて、親が居ないときはこの別荘を使って良いと言う事になったが・・それは当然だろう。


僕がドアの前に手をかざすと自動でドアが開く。

部屋に入ると自動感知で照明がつく。「テレビをつけて!パソコンを起動させて!照明を少し落として!」と命令すれば、全て自動で家が反応するのだ。それだけでは無い、何とトイレのドアまで手をかざせば開くのだ。いくら何でもこれはやり過ぎだ。

ミル付のコーヒーメーカーも最新式の高級品で、使用後は自動洗浄する機能まで付いている。


歩美が言う。

「もお・・こんな物を建てるとは思わなかった。小さな別荘と言ってたのに。お父さんってどんな人なの? 聞いていたのと全然違う感じなんだけど。」

「いやー、解らないんだよね。高校を出てからアメリカに留学してたから、親の事はよく知らないんだ。そこそこお金は貯めているとは思ったけど・・何か解らなくなった・・」

「それと、あの地下室は何?核戦争に備えているの?」

「核シェルターなら水とか食料の大量保存が必要だろう?そんな物は見当たらないしね・・」と僕。


「でも、地下室にもベッドが有るよね・・あれって必要?」

「秘密の趣味が有るとか・・まさかねえ・・」と僕。

「それって変態趣味とか?」と歩美。

「どうだかなあ・・地下室のクロークに鍵が掛かっているだろう。あれだけは僕らの指紋では開かないんだ。これだけセキュリティの効いた家の中でだよ・・ クロークに鍵が必要か? ああ・・想像したくないよ。親のエロビデオなんて・・」



それから少し経って、父が島に来た時に僕はそれとなく父に聞いた。

「地下室は何の為に作ったの?クロークに鍵が掛かっているよね。あれが気になってさあ・・」そう聞くと父親の表情が急に厳しくなった。

「お前だって親に言えない事が有るだろう。親にも子供に言えない秘密は有るんだ。まあ・・時期が来たら言うよ。だが、今はこれ以上は言えないんだ。」

父親の厳しい表情を見て僕はそれ以上聞く事はできなかった。


それから暫く経って秋も深くなり温かい瀬戸内にも寒い日が来るようになった。

その日は朝から雨が降り風も強かったので、予定していた買い出しもやめて、歩美とのんびりと家で過ごしていた。そしてその夜の11時頃の事だった。

歩美が言った。

「ねえ・・何かエンジンの音が聞こえない?」

「うん・・ゴトゴト音がするねえ。」

「聞きなれないエンジン音なんだけど、この島じゃない?」

「この時期に、こんな時間に、島に近づく船はいないしなあ・・ちょっと見てくるよ。」


僕は合羽を着てバギーのエンジンを掛けた。

「ちょっと見てくる。直ぐ戻るから・・」

そう言ってバギーを始動させた。


聞きなれないエンジン音は島の裏手の石切り場の方からだった。父の別荘は誰もおらず真っ暗だ。しかし、護岸に見慣れないボートが接岸していた。エンジンが掛ったままで近くには誰も居なかった。

誰かが島に入ったのは間違いない。僕はバギーのエンジンを切り徒歩で石切り場を探してみた。誰かは知らないが もし池の方に近づいたなら危険だからだ。


池の近くまで行くと誰かの懐中電灯の光がチラチラ光った。黒い衣装の男が二人・・何かをしている。僕は不穏な気配を感じて懐中電灯を切り草むらに身を隠した。そして二人の方に少しずつ近づいて行った。二人は何かを運んでいるようだった。何か重い物を・・

そして、二人はその重い物を池に投げ落とした。それは人のサイズのようにも見えた。二人は黒い合羽を着ていて一人が懐中電灯を持っていたが、その光が一瞬男の顔を照らした。・・父だ・・一瞬だったが父に似ていた。いや、違ったかもしれない。それはほんの一瞬だったのだ。


もし父なら何をしているのだ・・

こんな時間に・・

いったい誰と・・

今、何を捨てた・・

いや、父じゃない・・

父なら島に来る時は連絡をくれる筈だ・・

頭の中を得体の知れない不安が駆け巡る・・

あれは・・ビニールに入った死体なのではないか・・



家に帰ると歩美が心配そうに出て来た。

「遅かったわね・・どうだった?」

「うん、見た事のない船が島の近くを低速で通過したみたいだ。何でも無かったよ。一応別荘の周りも調べてみたから遅くなったんだ。」


もしあれが父なら・・

もう少しハッキリするまで、暫くこの事は歩美には黙っておこうと思った。



その事があって、僕の不安とモヤモヤが覚めやらない三日後のことだ。

今度は予告も無く父が母と島にやって来たのだ。しかも父は怪我をして頭に包帯をしている。前島さんを頼ったらしく、前島さんの船で送ってもらったのだ。

「お父さん、大丈夫?何が有ったんだよ。」

「店が襲われたのよ。火も付けられて火事でめちゃめちゃなのよ。」と母が言う。

「何で!誰がやったの?」

「解らんが想像はつく。ともかく別荘に行こう。説明はそこでするよ。」

と父が言う。


別荘に着くと僕らは地下室のテーブルを挟んで座った。歩美がコーヒーを運ぶと、それを待っていたように父が話し出した。

「つまり・・偶然やばい物を手に入れてしまったようなんだよ。それを狙われたようなんだ。」

「やばい物って?」

「話せば長い・・」

父はそう言って立ち上がりクロークの扉に手を当てた。扉は静かに開いた。クローゼットの中は次の部屋の扉が有り、その奥は別の部屋になっていたのだ。


「こっちに入ってくれ。」

父に促されて部屋に入ると、そこはコンピュータールームの様になっていて沢山のモニターや通信機器のような物が並んでいた。

僕はいった。

「ここは何?ここで何をしていたの?」

父は言った。

「聞いてくれ・・これから話すことは・・それはお前たちの思う事とは違うんだ。」

「??それは何?」

「私たち夫婦はスパイなんだよ。ああ、裏家業がスパイという事だ。」

「スパイって中国の?」

「そうだ。そうなんだが、お前たちの考えるようなスパイとは違うんだ、誤解しないでくれ。テレビドラマの様なものじゃあ無いんだ。」

「じゃあ、どんなもの?」


「向こうのテーブルに戻ろう。」父はそう言ってテーブルに戻ると、椅子に座りコーヒーを一口飲んだ。そして話し始めた。

「日本はスパイ法が無い国なんだよ。もし捕まっても窃盗罪ぐらいにしかならないんだ。だから世界中のスパイが日本で活動しているんだ。」

「世界中のスパイが日本の何を探っているの?」

「日本に探るものなど無いよ。日本はセキュリティが甘い国で、例えたら鍵の開いた家みたいなもので・・探る価値は無い。」

「じゃあ何故スパイが集まるの?」

「スパイ同士の情報交換のためなんだ。スパイは映画の様なものじゃあ無いんだよ。スパイもサラーリーマンと同じでね・・収入に見合った仕事をしなくてはならないのんだ・・・だから相手に渡しても大した問題の無い情報をね。それをお互いに交換するんだよ。もちろん、相手からもらう情報も、大した役には立たない情報なんだよ。」

「何の為に?」

「だから・・収入に見合った報告をする為にだよ。いやいや、スパイなんてほとんどがそんなものなんだよ。映画のようなかっこうの良い物じゃあ無いんだ。愛国心の為に命を捨てたりしないよ。だだね・・日本はアメリカと軍事同盟を結んでいるからね。だからアメリカはどうしても日本と軍事情報を共有する必要があるんだ。解るだろう・・もちろんアメリカのセキュリティは厳しい。アメリカの情報をアメリカから取るのは難しい。だからセキュリティの甘い日本からアメリカの情報を取るんだよ。」

「世界中のスパイがアメリカの情報を知る為に日本に?」

「だってアメリカは気に入らない国を亡ぼすからね。朝鮮・ベトナム・イラク・リビア・アフガニスタン・シリア・・他にもたくさんの国が攻撃されている・・世界にとってアメリカが何を考えているのかは安全の為に必要な情報なんだよ。」


「でも役に立たない情報ばかり交換していたんだよね。それなのにどうして狙われたの?」

「役に立つ情報には簡単には接触できないんだよ。軍隊や政治家として内部に潜り込まなきゃあね。そんな事は私らには出来ないよ・・もちろんその気も無い。」

「じゃあどうして狙われたんよ?」


「そこが解らないのだが・・何か重大な情報を入手してしまったようなんだ。いや・・どれが重要なのか解らないのだが。情報を交換した相手のスパイが自国で逮捕されたんだよ。相手と急に連絡が取れなくなったんだ。おそらく彼からもらった情報に何か重要な事が含まれている。だとしたら情報交換したスパイの母国から狙われている事になる。まあ大丈夫、心配は要らない。ここに別荘を建てる時は、別人の名義にしているし、どこからも足がつかないようにしてある。それに今、私と妻はマレーシアに旅行しているんだ。」


「情報交換した相手は何処の国のスパイか判っているの?」

「おそらくアラブ首長国の一つだ。日本と友好国だから無茶はしないだろうが・・いったい何の情報を手に入れたのかが解らない・・何で俺を襲うほど必死なのか。手に入れたのはメモリーカードでね、英語とアラビア語で書かれているのだが、パソコンをアラビア語設定に変えないと読みだせないんだよ。読みだした言語を日本語に翻訳しても意味不明なのと、膨大な量の情報なので何処が重要な個所なのかも解らないんだよ。でも必死になるほどの情報が含まれているのは間違いが無い。」


僕は心配になり聞いた。

「本当におとうさんの所在は解らないんだよね?」

「その辺は抜かりはないよ。今俺たちはマレーシアで行方不明になっているよ。役場で調べてもお前とは繋がらないようにしてある。」

「見つかれば殺される?」

「解らない・・彼らは情報が中国に渡ったと考えるだろうな、普通はね。或いはアメリカのスパイと情報交換したとか。どちらにしても情報は既に送られたと考えるだろうな。俺のような小物に興味はないさ。横浜の中華街の夫婦がマレーシアに旅行に出かけて行方不明になった。ただそれだけの事さ。」


「お父さんと中国との関係は?」

「中国に居たときは共産党員でね。日本に来た時に情報屋になったんだ。ほんのアルバイト感覚だった。日本で商売が上手く行くかも判らなかったからな・・保険みたいな感覚だった。でも危険な情報には近づかないようにしていたんだよ。特にアメリカの情報にはね。人の好いアラブ人と仲良くしていたんだよ。その彼が突然自国に拘束されて俺の店が何者かに襲われたんだ。そして俺たちは急遽マレーシアに脱出して行方不明になったのさ。中国の機関もそう捉えているよ。実際に俺たちのパスポートを持った夫婦がマレーシアの空港に着いて現地ツアーに参加しているんだ。その夫婦はどこかに消えた・・」

「誰か身代わりが動いたの?」

「まあ、そうだな。」


しかしそんな簡単にはいかない。もし父が不審尋問にでも合えば辻褄が合わなくなる。僕はそこを父に聞いた。

「でもどうするよ、法的にはお父さんたちは日本に居ないんだよね。そこはどう説明するの?」

それに答えて父は言う。

「別にどうって事もないだろ。暫くはここで釣りでもしているさ。ほとぼりが冷めた頃に突然日本に帰国したって事で・・また店でもやるよ。」

別にどうって事もないと話す父と母・・

本当だろうか・・


「ねえお父さん、2日前にこの島に来なかった?」

と僕が父に聞くと父は答えず、代わりに母が言った。

「だから、店が襲われて大変だったのよ。来れるわけないでしょう。」

本当だろうか・・


あの暗い夜に見たのは僕の見間違いだったのか・・

あの雨の中で見た物は何だったのか・・

あの池の中に沈むのは・・


聞けば何か知りたくない事を知りそうで・・

それ以上は聞けなかったのだった。


それから何年か経ち父の予告どうり両親は店を再開した。

周りの世界は全てが順調に回り、歩美も親たちも幸せそうだ。

しかし・・


僕は何か別の事実に触れてしまったのだ。

知ってはいけないもの・・

見てはいけない世界・・

それが何なのか・・

冷たい池の底にある物・・

・・それは僕の不安・・





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あまり怖くない『短編集』(紅色吐息) 紅色吐息(べにいろといき) @minokkun

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