明星、君と。

絵空こそら

明星、君と。

 薄青く澄んだ空に金色の曲線が浮かんでいる。

 窓一枚隔てた外の空気は、別世界のように凍っていた。空木は振り向いて、白い息と共におはようと言った。ダウンジャケットの肩に乗っていた髪が、さらりと音を立ててこぼれる。

「明けましておめでとう。今年もよろしくね」

 ほんの幽かな声で、空木は微笑む。彼の頭上に明けの明星が光っている。明け方の空を背景に、彼の気配は限りなく薄い。

 俺は言われた言葉をそのまま返して、空木の横に並んだ。煙草の箱を尻ポケットにねじ込む。

「いつから起きてたの」

 またさらりと音がした。たぶん、首を傾げたのだろう。

「わからない。時計見てないから」

「そっか」

「うん」

 会話は終了。空の色にも飽きてしまい、早々に煙草かスマホが欲しくなる。

「煙草、吸わないの?」

 見透かしたように空木がきく。

「いや。空木の様子を見に来ただけだし」

「そっか」

「うん」

 沈黙。吐く息が白い。手と足が悴む。

 空木は、寒くないんだろうか。

「暉岡くん」

 さらり、と音がする。

「日の出を見に行かない?」


 空木蛍が同居人になってから一年が経つ。

 もともとは同じ大学で同じゼミに所属していた。四年に進級するかしないかのタイミングで、彼は突然大学を自主退学した。仲がいい方だと思っていたから、何の音沙汰もなしに辞めてしまったことがショックだった。

 その約一年後、夜の公園で偶然彼を見つけた。ベンチにぼんやりと座っていた空木は、俺を認めると、懐かしそうに微笑んだ。俺は事情を聞き出すべく、彼を飲みに誘ったのだった。

 空木は酒を飲んでもあまり酔わなかった。大学を辞めた理由についても、はぐらかすようなことばかりを言って煙に巻いた。あまり踏み込まれたくないのだと思ったから、質問の矛先を変えた。どうして公園でぼんやりしていたのか。ちょうどバイトに向かっていた折、バイト仲間から今日と翌日のシフトを交換してほしいと頼まれたのだと彼は言った。それで手持無沙汰に、公園のベンチに座っていたらしい。

「それなら、家に帰ればいいのに」

と俺は言った。

「うん、そうだね」

と、彼は言った。


 別れ際、連絡先を教えて欲しいと頼むと、彼はスマホを解約したのだと言った。

「なら、住所は?」

 空木は首を振った。

「……教えられないんだ、ごめんね」

「そっか」

 平静を保ちながら、彼に拒絶されたことがショックだった。繋がりを断ちたくはなかったが、強引に聞き出すこともしたくなかった。物わかりのいいふりをして、手を振る彼を見送った。


 再会は案外早かった。

 俺は、よくその公園を通る様になった。また項垂れた空木がベンチに腰かけていやしまいかと、探すようになった。しかし、空木はベンチではなく、思いも寄らない所から現れた。

 その日も夜だった。残業で遅くなった帰りに、その公園を通った。公園には中央に丸い岩山のような滑り台があって、その真ん中はトンネルのような穴が空いている。夜のその穴には何かが潜んでいるように感じられて、なるべく近寄らないようにしていた。

 その日、遠くから俺は見た。その穴から人の手が這い出してくるのを。声を上げそうになる口を押え、逃げる態勢に入りながらも、俺の目はその穴に釘付けになった。

 出てきた人影は、そろそろと水飲み場に近づいていった。街灯に照らされたその顔には見覚えがあった。

「空木」

 蛇口を捻ろうとしていた影は、可哀想なほど驚いた様子で、俺を振り返った。

「暉岡くん」

「何してんだ、こんなところで」

「その、水を、飲もうと思って」

「今、すべり台から出て来たよな……?」

「あの、俺、」

 壊れかけた電灯の、仄暗い明りの中でも、空木が赤面したのがわかった。

「俺、今家ないんだ……」

 

 聞けば、親が働いていた会社が倒産したらしい。弟と妹はまだ中学生と小学生で、金を貸してほしいと親に頼まれたのだそうだ。そこで空木は学校を辞めて貯金を明け渡して、借りていたアパートも引き払った、と。

「ちょ、ちょっと待てよ。確かに大変なんだろうけど、住む家まで手放さなくてもよかったんじゃないの」

 空木は「だって俺、平気だよ」と言った。

「あったかくて安全な公園も知ってるし、友達もたまになら泊めてくれる。激安のネカフェも知ってる」

 その「友達」の中に俺は含まれていないのか、と思ったが、言わずにおいた。

「バイト応募するとき、住所必要だったろう」

「実家のを書いたよ」

「だったら、実家に帰ったらいいじゃないか」

「それが、帰れないんだ」

 あくまでフラットな調子で空木は言った。俺は馬鹿なのかもしれなかった。実家に帰れるくらいなら、今頃彼は路上生活などしていないのだ。

「……おかしいだろ。空木の貯金で、空木の人生じゃん。卒業までだって、あと一年だったのに。そしたら、選べる職種も増えたのに。全部家族の為に犠牲にしたの」

「さあ。俺、夢とか、やりたいこととかないし。誰かの役に立てるならそれでいいかなって」

「じゃ、じゃあさ」

 しばらく俺んち住めば。勢いで言ってしまったことを翌朝思い出し、すぐさま後悔した。就職したてで生活が疎かになっていたから、部屋は散らかっていた。物が散乱したカーペットの上で、空木は小さく寝息を立てていた。俄かに不安になった。気ままな独り暮らしに慣れてしまった俺が、果たして他人と暮らせるのだろうか。しかし、その心配は杞憂に終わった。

 空木は、充てがった一室から、ほとんどプライベートを越えてこようとしなかった。所作も静かだから生活音すらせず、本当にそこにいるのか疑うほどだった。そのくせ、細かいことによく気がづいて、昼と夜のバイトの合間に洗剤を詰め替えてくれていたり、ゴミをこまめにまとめて捨ててくれていたり、掃除をしたりしてくれていた。泊めてもらっているという負い目があったのかもしれない。でも、毎月家賃を貰っていたのだから、負い目に感じることなどないというのに。

 それから、よくベランダにいた。煙草を吸うわけでもなく、ただぼんやりとそこに突っ立っている。最初は俺に遠慮しているのかと思ったが、そういうわけでもないようだった。



 年末に降り積もり、固まった雪を踏みしめて歩く。郷里の東北ほどではないにしろ、足元から駆け上がってくる冷気に身が震えた。

「見えないね」

 空木は小高い丘の上に立って、東の空を眺めた。地平線の上にもくもくとした雲が鎮座ましましている。太陽はその裏側にあるようだ。

「もう少し高いところに登ってみるか。その間に顔を出すかも」

「うん」

 振り向いた時、また、さらりと音がした。



「空木ってさあ、なんで髪伸ばしてんの」

 大学時代、ゼミ仲間と徹夜で発表の準備をしていた時、話の流れで誰かがそうきいた。一瞬の間があって、空木は静かに答えた。

「なんとなく」

「バンドとかやってんの?」

「やってないけど、なんで?」

「なんとなく。バンドやってる奴って髪長いの多くね?」

「そう?」

 空木は微かに笑ったようだった。軽音サークルに所属していた奴が元気よく起立する。

「はい!ボク!今度駅近のハコでライブやります!みんな来てねっ」

「お前の話はしてねーよ」

 そこから話題は段々と逸れ、他のメンバーは俺と空木を残して飲み物の買い出しに行ってしまった。

 騒々しい話し声が遠のいていき、部屋はしんと静かになった。俺がキーボードを叩く音と、空木が資料を捲る音だけがしばらく続いた。俺はパソコンから顔を上げて、空木を見た。その頃の空木は、肩にかかるくらいの髪を細いゴムでひとつにまとめていた。

 確かに、目立つことを極力避ける空木がそんな髪型をしているのは、少し違和感があった。

「願掛け、とか」

「え?」

「あ、いや。さっきの、髪の話」

 空木は一瞬目を逸らし、伏せて、おもむろにこんなことを言った。

「幸福な王子って話を知ってる?」

「オスカー・ワイルド?」

 確か、宝石で飾られた王子の像が、貧しい人の為に自分の宝石を分け与えていく話だ。

「そう。俺、あの話が昔から好きで。でも、俺は何も持ってないからさ。だから、ええと」

「誰かにあげるの、その、髪」

 なぜか空木は、ひどく委縮した様子で頷いた。

「気持ち悪いって思う?」

「なんで?」

「わざわざ髪伸ばしてまで感謝されたいのか、みたいなの、思わない?」

「思わないよ」

「本当?」

「本当」

 空木は少しだけ顔を上げて、俺の目を見た。けどすぐに逸らした。口元が何か言いたそうに動いて、そこで、ゼミのメンバーが買い出しから戻って来た。



 今、目の前に長い髪が揺れている。

 俺たちは古いビルの外階段を登っていた。不法侵入では、と冷や冷やしているのは俺だけで、空木は存外平気な様子で長い階段を上がっていく。初めてではないのかもしれない、と、なんとなく思った。

 辿りついた屋上でも朝日は見えなかった。重そうな雲が陽を遮っている。空木は息を整えながら柵に手をかけて、ビル群と明るくなり始めた空を見ている。ベランダにいる時と同じように。

「空木」

 彼が振り向く。さらり、と音がする。

「飛ぶなよ」

 空木は表情を変えなかった。

「飛ばないよ」

「髪が伸びたら死ぬ気なんだろう」

 ヘアドネーションに必要な髪の長さは30センチメートル。あとどれほどでその長さに到達するだろうか。

「好きだ」

と、俺は言った。空木はしばらく黙って、そして少し笑った。

「暉岡くんは思い違いをしている」

 やはり空木は、幽かな声で言う。

「同情と吊り橋理論だよ。近くで暮らしていたから、そう錯覚しているだけだよ」

「違う」

 首を横に振る。

「最初からだった」

 初めて会った時、まだ髪は短かったけれど、同じ目をしていた。空っぽな瞳。諦めたような瞳。彼は微笑んでいた。とにかく声が小さくて、自己主張が苦手で、気配を消すのが上手くて。俺はずっと、空木を目で追ってばかりいた。

「俺のどこがいいの」

「全部」

 ふっと息を漏らして、空木は笑った。

「暉岡くんは変わってる」

「知ってる」

 そっと手を伸ばす。少しだけ癖のある髪に触れる。指でゆっくり梳いていくと、途中で引っかかった。空木は赤面した。

「あ、梳かしてこなかったから……」

 途中で唇を塞いだ。少しだけささくれた冷たい感触が、僅かに震えた。顔を離す。空木は泣きそうな顔のまま黙っている。

「……嫌ならはっきりそう言えよ」

 ずるいことを言った。空木は決して拒まないから。たとえ嫌なことでも、辛いことでも、身に起こった全てのことを淡々と受け入れてしまう。だから今まで踏み込めなかった。

 でも、もう時間がない。俺は来春、県外に異動する。空木も勘づいて、出て行く気でいる。また黙って一人で行ってしまう前に決着をつけたい。

「嫌だ」

 いつになくはっきりと、空木は答えた。そしてショックを受けて何も言えずにいる俺に、そっと口づける。俺は混乱したまま、我慢できずにその身体を引き寄せた。

「空木、どっち」

 厚い服越しでも伝わってしまいそうなほど、心臓が脈打っていた。

「暉岡くん、俺、」

 空木は震える声で言う。

「ずっと、誰かの為になりたくて」

「うん」

「小さい頃、ベランダが俺の居場所だった。中から鍵がかかってて。そこから毎日、下のゴミ捨て場を漁ってる人とか、ゲーム買ってもらえなくて泣いてる子とか、杖ついて歩いてる人とかを見て、どうして俺の身体には宝石がついてないんだろうと思った。いてもいなくても同じな俺にも、分けられるものがあればいいのにって」

「……うん」

「でも俺には宝石はないけど、目も内臓も、健康な脚もあるから、もし、それがあれば生きていける人にあげられたら、うまく生きられなかったとしても、許される気がして。何もできない、持て余してる俺の命を、もっと上手く使える他の誰かが、使ってくれたらって、ずっと思ってた」

 空木は俺の背に手を回した。震えているのがわかって、強く抱き寄せた。

「平気だったんだ。一人でも、寒くても、死ぬかもしれないと思っても、平気だったんだ。でも、暉岡くんが作ってくれた目玉焼きのこととか、乾燥機入れててくれた布団があったかかったこととか、どんなに寒くても、俺がベランダにいる時は窓を開けていてくれたこととかを思い出すと、耐えられないくらい、痛くなる。手放すのが怖くなる。俺が持っていても、うまく使えないものばかりなのに」

 きみが好き。と空木は言った。幽かに、叫ぶように。堪えられずにキスをする。空木はそれに応えた。愛しい気持ちが痛いくらい胸に広がって、何度もキスを重ねた。

「空木、誰にも何もあげるなよ」

と、俺は言った。

「目も内臓も脚も、空木の中にあるから綺麗なんだ。そんな空木が好きなんだ」

「……うん」

「……まあ、ヘアスタイルくらいは変わってもいいと思うけど」

「……うん」

 空木は濡れた瞳で微笑んだ。


 いつの間にか、明けの明星は姿を消していた。太陽は相変わらず雲の向こう側にあって、でも、そんなことはもうどうでもよかった。

 悴む手を繋いで歩く。もう二度と、彼が寒い思いをしないように。

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明星、君と。 絵空こそら @hiidurutokorono

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