『音』だけで人を好きになれるのだろうか。

@isihya7

本文


 人間は『音』だけで人を好きになれるのだろうか。


 結論から言おう。なれる、と。何せ、俺が音だけで好きになる人間なのだから。


 例えば先週、俺がレンタルCDショップに足を運んだときのことだ。店に入ると俺は音楽のジャンルだけ確認して、棚からCDをいくつか引っ張ってくる。このとき、ジャケットやアーティスト名は見ない。一切だ。ジャケ買いという言葉があるが、ある意味これはその反対かもしれない。

 試聴用ブースまでCDを持っていき、オーディオ機器に対応する番号を入力する。そして、ここからが本番だ。

 ヘッドホンを着け、目を閉じ、耳を澄ませる。意識を次第に音に集中させてゆく。


 すると間も無く、豊穣の春の風景が目の前に広がった。


 森の奥にある秘密の花園。小鳥はそこで囀り、花々は繚乱と咲き誇る。そこにはきっと春の妖精も訪れるのだろう。

 はぁっと、俺は嘆息した。多分、人に見せたら恥ずかしいほどの、恍惚とした表情をしているのかもしれない。だが俺は個人用の試聴ブースで一人。そこは問題ない。

 それから、俺は答え合わせを始める。俺はヴィヴァルディの『春』を収録したCDの裏面を確認した。

 そこには演奏者であるヴァイオリン奏者の一覧が顔写真付きであった。そのうちの、微笑んでいる女性の写真に目線を移す。


「この人か、やっぱりな」


 実際に人が演奏する以上、音にはその演奏者の人柄というのが滲み出てくる。一番簡単な例で言えば、荒々しい気風の奏者はスタッカートの歯切れが良いだろうし、柔らかで優しい人間はレガートに、つまり滑らかに演奏することが得意だろう。

 そういう意味で言えば、この奏者は俺が知る限り最も繊細で優しい音を紡ぎ出す、最近の推しの奏者だ。

 数ヶ月前に知ったのだが、名前をネットで調べて、音楽家としての活動を調べるうちに、その人柄や性格も推せるようになった。つまり、音をきっかけとして、人を好きになったのだ。

 考えてみれば当然かもしれない。演奏家の魂というものは音に宿る。だから音が好きなら、もうその人を好きになってると言っても過言ではないのだ。

 特に俺はこうして音楽を試聴することが、演奏するよりは好きだった。そのため、音からその人を推測することには少なくない自信があった。

 そんな俺が、最近気になっていることがある。

 今度は一昨日の出来事だ。放課後、借りていた本を返すために図書室に寄った俺は、いつものように昇降口を目指していた。この時間には既に、トランペットやチューバ、クラリネットの豊かな音が三階の廊下を満たしている。

 水曜日はレッスンの日だった。昔からの親の強制で、隣町の先生の元へピアノを習いに行かなくてはいけないのだ。吹奏楽部には入りたかったけど、レッスンは週三回もあるので諦めざるを得なかった。

 そんな中、俺はいつもとはを聴いた。


「え?」

 吹奏楽にはない楽器の、アルトリコーダーの音だ。

 俺は足を止めてその音に聴き入った。なぜかその音は俺の琴線に触れたのだった。

 一目惚れ、という言葉がある。俺の場合、それは『一聴惚れ』というべきものかもしれなかった。

 心の琴線は音の振動に反応するように鳴り出し、俺は浮き足立って、音の発信源へと近づいた。

 音が聞こえるのは、どうやら三階の空き教室からのようだった。演奏している曲はフォーレのシチリアーノだ。ミステリアスな雰囲気を持ち、流れるように唄うようなその曲は、ト短調の、古くからあるバロック音楽の一つだ。

 気持ちが抑えられず、耳をその教室の扉に押しつけてしまう。そうすると、旋律がよく聴こえるから。意識を集中させると、遠く聞こえていた他の楽器の練習の音は次第に薄くなった。そしてこの空間には壁越しの柔らかで繊細な音と、俺の心臓の鼓動だけが残る。

 息を呑んで俺は聴いていた。一聴惚れでもあるため、関心が奏者にも向く。演奏者は誰なんだろうか。こんな音が吹ける人が吹奏楽部にはいたのか。同じ学年なのであろうか。


 様々な憶測と期待、そして驚きが脳内で行ったり来たりして、頭がパンクしそうになる。そして息を止めていたせいで、酸欠気味になっていた。

 ぷっはぁっと俺は盛大に呼吸を再開する。さらに悪いことに、俺は教室の壁を蹴ってしまった。

「……誰?」

 か細い声が聞こえた気がした。俺の幻聴かもしれなかった。確実に言えるのは、演奏が止まり、奏者は急な来訪者を確認するために廊下に近づいていることだった。

 俺は一目散に、三階の廊下を駆け出して逃げる。

 立ち聞きしていただけで、やましい気持ちは一切なかった。けれど……いきなり相手に会う勇気がない。

 どちらかというと、好きな人に急に会うのが恥ずかしいとか、そう言った理由だった。

 俺は階段の死角まで辿り着くと、奏者が俺を見つけなかったことを祈りながら、ぜぇはぁと肩で息をするのであった。


  


 それから数日後、俺はカバンを肩から引っ提げながら下校していた。一昨日の出来事について考えながら。

 三月の陽の光は暖かく、通学路と周囲にある菜の花畑を柔らかく照らし出している。

「なあ、結弦ゆづる

「……」 

「おい。大丈夫か? もしかして立ったまま寝てないよな」

 今度は軽めに彼の鞄で小突かれた。見ると、幼馴染の陽斗はるとが怪訝な表情で俺の顔を覗き込んでいる。

「悪ぃ。今考え事してた」

 一緒にいながらの考え事は陽斗に失礼だった。だから俺はすぐに頭を切り替えたのだが、

「……咲本さんのことか?」

 彼は思うことがあるらしく、話題に食いついてきた。

「まあ、そうだけどさ。なんで分かるんだよ、怖いな」

 そして彼の推測は間違っていなかった。この二日、俺は誰がリコーダーの奏者か調査していた。

 有望なのが彼女、咲本琴羽さきもとことはだ。

 吹奏楽部所属のクラスメイトによると、彼女はフルートのパートリーダーを任されており、部内で実力は随一だそうだ。そんなに上手いのならと、実は昨日、帰り際にフルートがパート練をしている西校舎に少し寄ってみた。その時はいくつもの音が重なって聞こえ、どれが彼女の音なのか分からなかった。耳を澄ますと、確かにプロに匹敵するほどの音が紛れ込んでいるような気もする。けれど、確証を得るにはまだ遠いと言える状況だった。

「怖くもなんでもないって。最近、授業中で目で追ってるだろ。ずっと」

「それこそ何で分かるんだよ。俺のファンか?」

「んなわけあるか。結弦の席の前が俺の席だからな。プリント渡すとき、いつも目線がそっち向いてるのがバレバレなんだよ」

「……」

 俺は押し黙った。もう絶対授業中は彼女のことをチラ見しないと決めた。

「そうだよ。ご名答。悪かったな、話してる間に咲本さんののこと考えてて。それで、異能学園の激推しのシーン、だろ? さっきの話題」

 異能学園は陽斗が最近ハマっているアニメで、その話を俺たちはしていたはずだった。だが、

「いや、それはもうどうでもいい」

 と一蹴される。陽斗の唇の端は既に、楽しげに上がっていた。

「え。何でだよ」

「いや、もっと面白いものを見つけたからな。俺はさっき脱線した話の方により興味がある。本題はこっちだ。結弦……単刀直入に聞こう。お前、やっぱり咲本さんのこと好きなのか?」

「どっちだっていいだろ。陽斗には関係ないじゃん。第一、聞いて何すんだよ」

 本当は好きなやつの一人くらい友達に教えるくらい友達としては普通なのだろうが、俺は照れ隠しのため黙った。

「あん? 協力、してやるってんだよ。友達としてさ」

 そう言うと、陽斗はニヤリとした笑顔をこちらに向けた。野次馬としての興味が半分くらいなのだろうが、それでも力になってくれるのは意外だ。

「……マジか。なら話そう。そういうことなら先に言ってくれ」

 俺は姿勢を正して、真剣な表情をする。

「おう。マジマジ。どんなとこが好きなんだよ」

「……音、だな」

 一瞬、陽斗が聞き間違いを疑うような顔をした。だけど、すぐ理解したようで真顔に戻る。

「音? 音で好きになるってヘンタイかお前」

「うっせえな。俺がオーディオオタクなのは知ってるだろ」

「ああ。確かに。痛いほどにな。貸しCD屋の試聴で2時間入り浸るやつは初めて見たわ」

 昔、陽斗が隣の家電販売店のゲームの体験プレイに没頭してたので、俺が時間潰しにCD屋に居ることになった。けど、結局あいつが戻ってきた後もかなり待たせることになってしまった。途中から一緒に試聴を始めたけど。

「それで……助けるって話だが、もしかしたら力になれるかもしれん。春菜が、咲本さんと仲良いし。そっち経由で連絡取れないか頼んでみるわ」

「マジかよ……それ、期待しちゃって、いいのか?」

 俺の声が上ずる。そんな俺が面白かったのか、彼は微笑した。春菜というのは陽斗の彼女だ。陽斗みたいな奴、基本的にただの羨望の的だと思っていたが、こうして持つものならではのコネで力になってくれることもあるらしい。なんだよ。あったけぇじゃねえか。

「まぁな。でも、確実に連絡取れるかは分かんねぇから、期待しないで待っててくれよ?」

 そう言って笑う陽斗の横顔は、春の日差しを受けて輝いているような気がした。


 数時間後。俺が風呂の湯船に浸かっている頃。

 電話が鳴る。脱衣所に置いておいたスマホを確認すると、陽斗からの着信だった。要件は、咲本さんと話すセッティングをしてくれるとのことだ。明後日の昼時に、食堂で会えるそうだ。俺は思わずガッツポーズをした。裸のままだった。


 金曜日の四限目の授業は国語だ。普段は早めに終わるのだが、今日は先生の授業に熱が入ったせいで長引いた。

 俺は駆け足で待ち合わせ場所の食堂前まで向かう。

「ごめん、待った?」

 とすでにその場で待っていた琴羽に声を掛ける。

 その声色は悪友の陽斗と話すときと自分でもびっくりするほど違っていて、俺は心のうちで苦笑する。まあ、好きかもしれない女子と話すときはこんなもんかもな。

「うん、全然」

 すると、澄んだ涼風のような返事が返ってきた。今来たとこだよ、と彼女は続けて言う。

 琴羽のストレートな前髪はおでこと眉を覆い隠していて、その下から彼女の大きめの瞳が覗く。俺はじゃあ、行こうかと食堂の方に親指を向けた。

 彼女はこくりと頷き、身体の向きを回転させる。その時、彼女の腰のあたりで何かが揺れた。

 フルートのストラップだ。

 多分携帯につけていて、タータンチェックのスカートの小さなポケットからはみ出しているんだろう。

「そのストラップ、いいね」

 尻尾のように揺れるそのストラップを眺めながら、俺は呟く。

「うん。ありがとう……フルート、やっぱり好きだから。つけてると安心するんだ」

 俺は微笑んだ。食堂に到着し、券売機でうどんの券を二つ買って列に並ぶ。春の淡い光が差し込む窓際の席を確保した。

「結弦くん。でしょ。ちゃんと話すのは初めてだね。同じ学年だけど」

 琴羽はうどんを一口だけ啜ると、そう口を開いた。

「うん。俺のこと、知ってた?」

「もちろんだよ。去年、合唱コンクールで伴奏してたでしょ? 違うクラスだったけど、吹奏楽部でいい演奏だったねって話題だったんだよ。音楽、絶対好きなんだなって……伝わってくる演奏だった」

 俺は安堵した。どちらかというと俺は音楽を聴く方が好きで、ピアノは親に進められるがままに続けていた習い事だった。だけど、初めてちゃんとやっていて良かったと思った。

「ありがと。でさ、本題なんだけど。咲本さんの練習してる音を聴きたいんだ。だめ、かな」

 彼女の音を聴けば、全てが分かる。多分、相性も俺と良かった。音楽が好きなところも。俺は早く、彼女の音をもう一度聴きたかった。

「え? そんなこと? もちろんいいよ、全然。特に結弦くんなら吹部の顧問の大山先生も知ってると思うし。パート練聴きにくるのくらいきっと大丈夫だと思う。もしかしたらピアノ演奏してって、頼まれちゃうかもよ?」

 冗談めかしてそう言う彼女の表情は、子犬のようで愛らしかった。

「あはは、そんときは謹んで弾かせてもらうよ。俺の演奏でよければ」

 と、そこで大事なことを思い出した。

「そういえば、咲本さん」

 琴羽が演奏するのは基本的にはフルートであり、リコーダーではない。直近でリコーダーを吹いているかどうかが、可能であれば知りたかった。

「音楽の授業でさ、自由課題の発表あるじゃん。最近それでリコーダーの練習、してた?」

 そう言うと彼女は一瞬目を丸くさせたが、次の瞬間に思い出したように頷く。

「授業の課題でしょ? うん。してるよ。たまに部活の練習前とか終わった後やってる。どうしたの急に」

「いいや、何でもない。でもよかったらリコーダーも聴かせてもらっていいかな」

「うん。わかった。で、いつにしよっか」

 俺は安堵のあまり胸を撫で下ろした。

 琴羽は変なの、と言いたげな表情をしていたが、深くは追求しないようだった。

「早くて、来週の月曜が大丈夫だよ」

 来週! 俺は心が躍った。もう心の準備はできている気がする。無言で頷く。

 じゃあ、待ってるね。と琴羽は口にする。凛と澄んだ声だった。

 彼女の艶がある唇を少しだけ見る。彼女から、どんな音が奏でられると言うのだろうか。

 俺は来週まで待ちきれずに、ごくりと唾を飲み込んだ。


 

 そして早くも、当日の月曜日。俺は授業が終わるとすぐに図書室に出向き、本を読んで時間を潰していた。

 吹奏楽部の部活が終わったらと琴羽は言ってたけど。まだ早い。どうしたものだろうか。

 本を開いてはいるが、どことなくそわそわして頭に入ってこない。先程から、ずっと同じページのままだ。

 その時だった。

 どこからともなく笛の涼しげな音が聞こえてくる。その音は、紛れもなくアルトリコーダーによるものだった。

「え?」

 時計を確認すると、予定の時間にはまだ早い。方角はおそらく前回と同じ、音楽室の隣の空き教室のあたりだ。

 きっと琴羽さんの音だろうが、どうしてもう練習しているのだろう。俺に見せる前に、曲をもう一度確認しておきたいのだろうか。もしかしたら長距離ランのマラソン選手が、アップを始めたようなものなのかもしれない。

 約束をした以上本番まで聞かないのが筋なのだろうが、俺はどうしても待ちきれず、その音を聞いてしまった。

 図書室の机に座ったまま、目を閉じて遠く微かに聞こえる旋律を拾う。やはり、その音は俺を魅了するに十分だった。

 繊細でありながら、魔術めいた神秘さを秘めるそのフォーレの、シチリアーノ。

 それはまさに精霊の歌声、そう、まさしく、セイレーンのようだった。

 セイレーン。それは海の魔物だ。セイレーンは海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑された挙句セイレーンに喰い殺された船人たちの骨は、島に山をなしたとか。

 俺も似たような状況に陥っているのかもしれなかった。熱にでも浮かされるように、俺は机から立ち上がり、鞄を拾って図書室を出る。

 そして俺は音の源の空き教室へと歩いていった。ゆっくり、ゆっくりと。

 足音を立てると、その甘美な旋律にノイズが走ってしまうかもしれないから。

 流れるリコーダーの澄んだ音を確かめるように聴きながら、俺は思う。

 やはり、こんな音を奏でるのは、心が清らかであり、繊細な人間に相違なかった。今までの音からCDを買って演奏者を好きになる経験からも、多分、間違っていない。

 そう……俺は、すでに、恋していたと言えるかもしれなかった。音に。

 それ以上に、その音を奏でる、奏者に。

 迷うことはもうなかった。俺は空き教室の前にたどり着くと、引き戸に指をかけた。

「琴羽さん……先に、練習してたんだね。でもあんまりにも演奏が綺麗だったから、もう来ちゃったよ」

 俺はそう言いながら、ゆっくりと戸を右に開く。

 その先に、リコーダーを咥える琴羽さんがいると信じて。

 だが……俺はそのまま固まった。

「え……何で陽斗がいるんだよ。琴羽さんは?」

「結弦こそ、いきなりどうしたんだよ。ここには俺しか居ねえぞ」

「……え。じゃあ、演奏してたのは?」

「俺だけど」

 俺は手を震わせる。

「何でさ。こんな放課後に」

「いや、別に音楽の授業で発表する曲だって。なんとなく完成度が低いから。主旋律の俺だけでもちゃんと練習しとこうと思って。だからここで飽きるまで練習してた」

「そうか……」

 俺はどうしても居た堪れなくなって、一度目を逸らして、窓の外を見た。もう十六時だと言うのに、冬の空は夕焼け模様だった。夕焼けは陽斗の横顔を赤く照らし、教室全体に陰影をつけていた。


 俺は一歩、前に歩み寄った。陽斗に、近づくために。

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